第6章「カフェの窓辺で」
日曜日の朝、私はいつもより早く目覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光が、
部屋に柔らかな明るさをもたらしていた。
今日は神谷君とカフェに行く日。
デバイスには「期待」と「不安」が
混ざった波が表示されていた。
私は服を選ぶのに普段より時間をかけた。
結局、薄いブルーのワンピースを選んだ。
普段は着ない服だが、
今日は特別な日のような気がした。
「どこか行くの?」
朝食の席で母が私の服装に気づいて尋ねた。
「カフェに」
「友達と?」
「ええ」
それ以上は聞かなかったが、
母の表情には小さな驚きと喜びが混ざっていた。
私が自分から外出することは珍しかったからだ。
10時45分、私は駅前に着いた。
少し早すぎたかもしれない。
駅前の広場に立ち、人々の流れを見ていた。
様々な表情を持つ人々。
笑顔、真剣な顔、疲れた顔…。
以前の私ならそれらの表情の意味を
考えることはなかっただろう。
「水野さん!」
振り返ると、神谷君が
手を振りながら近づいてきた。
彼はいつもより少し
きちんとした服装をしていた。
「早く着いちゃった?」
神谷君が少し息を切らせながら言った。
「少し」
「俺も早めに来たんだ」
神谷君は照れたように笑った。
「水野さん、そのワンピース似合ってるね」
似合っている。褒められている。
デバイスには「照れ」の波が表示された。
「ありがとう」小さな声で答えた。
「行こうか。いいカフェ知ってるんだ」
神谷君に導かれて、
駅から少し離れた通りに入った。
静かな住宅街の中に小さなカフェがあった。
「フォレスト」という名前のカフェ。
「ここ、静かで落ち着くんだ」神谷が言った。
「水野さんも好きかなって思って」
私のことを考えて選んでくれたのだ。
その気遣いに胸が少し温かくなった。
カフェに入ると木の温もりを感じる
落ち着いた空間が広がっていた。
窓際の席に案内され、
私たちは向かい合って座った。
窓からは小さな庭が見え、
そこには季節の花が咲いていた。
「ここの窓からの景色、好きなんだ」
神谷君が言った。
「光の入り方がきれいで」
光の入り方。
それは私が日々観察していることだった。
神谷君がそれを気にかけていることに、
少し驚いた。
「ええ、きれい」
メニューを見ながら、
私たちは注文を決めた。
神谷はカフェラテ、私はハーブティーを選んだ。
「昨日のこと、
中村教授にメールで報告したんだ。
水野さんのデータが
すごく変化したって、喜んでたよ」
「そう」
「特に人との交流の中で
感情の波が大きくなってるって。
それって素晴らしいことだって」
素晴らしいこと。
私の変化が誰かを喜ばせている。
それは不思議な感覚だった。
注文した飲み物が運ばれてきた。
ハーブティーの香りが心地よく広がる。
「水野さんは自分の変化をどう感じてる?」
神谷君が静かに尋ねた。
自分の変化。それを言葉にするのは難しかった。
「以前は…」言葉を探しながら話し始めた。
「世界がガラスの
向こう側にあるような感じだった」
「ガラスの向こう側…?」
「ええ。見えるけど触れない。
理解できるけど、感じられない…。」
神谷は真剣な表情で聞いていた。
「でも今は?」
「ガラスに…ヒビが入り始めている。
少しずつ、向こう側の世界が、
こちらに流れ込んでくる」
言葉にしながら、自分でも驚いていた。
こんな比喩を思いつくなんて、
以前の私には考えられなかった。
「それって、素晴らしいことだよ」
神谷君の目が輝いていた。
「水野さんが世界とつながり
始めてるってことだから」
世界とつながる。その言葉が胸に響いた。
「でも、怖いときもある」正直に言った。
「感情が強くなると、
制御できなくなるのではないかと」
「それは誰でも同じだよ」
神谷君は優しく言った。
「感情を完全にコントロールできる人
なんていない。大切なのは、
感じることを恐れないこと」
感じることを恐れない。
それは難しいことのように思えた。
「神谷君はいつも感情をコントロールできるの?」
「全然」神谷君は笑った。
「特に水野さんと一緒にいるときは」
「私…と?」
「うん」
神谷君は少し照れたように目を逸らした。
「水野さんといると心臓がドキドキしたり、
言葉が詰まったり…」
デバイスが突然大きく振動した。
画面を見ると、「動揺」「期待」「温かさ」が
混ざった複雑な波が表示されていた。
これは何の感情だろう…。
「水野さんのデバイスすごい反応してる」
神谷君が驚いたように言った。
「わからない…この感情が何なのか」
「見せて」
私はデバイスを神谷君に見せた。
彼は画面をしばらく見つめた後、
小さく微笑んだ。
「これは…好きという感情かもしれないね」
好き。
その言葉に胸がギュッと
締め付けられるような感覚を覚えた。
「好き…」
その言葉を口にすると、
デバイスの波がさらに大きくなった。
「水野さん」神谷君が真剣な表情で言った。
「実は俺、水野さんのこと、
ずっと前から気になってた」
気になっていた…。私のことを。
「なぜ?」
「なぜって…」
神谷は言葉を探すように少し考えた。
「水野さんの透明感というか、
静けさというか…周りと違う何かがあって。
それに、水野さんが何かを感じたときの、
小さな変化が…特別に思えて」
特別。
私のような人間が、
誰かにとって特別だなんて。
「私は…感情が薄いのに」
「違うよ」神谷君はしっかりと言った。
「水野さんの感情は薄くない。
ただ、静かで繊細なだけ。
それが水野さんの美しさなんだ」
美しさ。その言葉に胸が熱くなった。
デバイスには「感動」の
波が大きく表示されていた。
「ありがとう…」
小さな声で言った。
それ以上の言葉が見つからなかった。
「水野さんは、どう思ってる?俺のこと」
神谷君の目がまっすぐ私を見つめていた。
どう思っているか。
それを言葉にするのは難しい。
「あなたといると…」
言葉を探しながら話し始めた。
「世界が少し明るくなる。
色が増える。音が聞こえる。そして…」
「そして?」
「ガラスのヒビが、少し大きくなる」
神谷君の表情が柔らかくなった。
「それって、好きってことかな?」
好き。その言葉の意味を、
私はまだ完全には理解していないかもしれない。
でも、神谷君といると
確かに特別な感情を感じる。
「かもしれない…」
正直に答えた。神谷君の顔が明るくなった。
「それだけで十分だよ」彼は優しく言った。
「これからも一緒に、
水野さんの感情を探していこう」
一緒に。その言葉が心地よかった。
カフェの窓から差し込む光が、
テーブルの上でキラキラと踊っていた。
私はその光を見つめながら、
胸の中に広がる温かさを感じていた。
デバイスには「幸福感」という
新しい波が表示されていた。
「見て」私はデバイスを神谷君に見せた。
「新しい感情」
「幸福感」神谷君は嬉しそうに言った。
「素敵な感情だね」
「ええ」
私たちはそれからも長い時間、
カフェで話し続けた。
神谷君の家族のこと、学校のこと、
将来の夢のこと…。
以前の私なら、こんな会話に
興味を持てなかっただろう。
でも今は違った。
神谷君の話す一つ一つの言葉が、
私の中に新しい感情を呼び起こしていた。
カフェを出たとき、
空はすでに夕暮れに染まり始めていた。
「送っていくよ」神谷君が言った。
「ありがとう」
帰り道、私たちは並んで歩いた。
時々、神谷の手が私の手に触れそうになる。
そのたびに、デバイスが小さく振動した。
「あのさ」神谷君が突然立ち止まった。
「明日から、学校で会ったとき、どうする?」
「どうするって…?」
「えっと…」神谷君は少し困ったように
髪をかき上げた。
「今日のこととか、俺たちのことをどう扱うか…」
私は少し考えた。
確かに、今日の会話で何かが変わった。
でも、それを学校でどう表現すれば
いいのかわからない。
「普通でいい」
「普通?」
「ええ。でも…」言葉を探した。
「少し違う普通」
神谷君はしばらく考えてから、くすりと笑った。
「わかった。少し違う普通でいこう」
その言葉に、私も小さく頷いた。
家の前まで来ると、神谷君が
少し緊張した様子で言った。
「また、二人で出かけてもいい?」
「ええ」
すぐに答えた。デバイスには
「期待」の波が表示されていた。
「じゃあ、また明日」
神谷君は手を振って去っていった。
私は彼の背中が見えなくなるまで見送った。
家に入ると、母が台所から顔を出した。
「どうだった?」
「楽しかった」
素直に答えた。母の表情に、
小さな驚きと喜びが浮かんだ。
「そう、よかったわね」
部屋に戻り、私はデバイスの
グラフを見つめていた。
今日一日の感情の動きが記録されている。
朝の「期待」と「不安」から始まり、
カフェでの「動揺」「温かさ」「幸福感…。」
そして今「穏やかな喜び」の
波が静かに続いていた。
窓の外を見ると、
夕暮れの空が美しく色づいていた。
その光景に、胸が少し
締め付けられるような感覚を覚えた。
でも今回はその感覚に
名前をつけることができた。
「感動」
私は小さく呟いた。
そして、スマホを取り出し、
夕暮れの空の写真を撮った。
初めて美しいと感じた
瞬間を記録したいと思った。
これが私の感情の記録。
数値だけでは表せない心の動き。
私は静かに深呼吸した。
明日からまた新しい日々が始まる。
そして、私の中の感情はこれからも
少しずつ育っていくのだろう。
その思いに小さな期待と穏やかな
喜びが混ざり合った感情が、
胸の中で静かに広がっていった。
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