第4章「森の中の交差点」

週末が近づくにつれ、

私の中の不安は大きくなっていった。


デバイスのグラフには「不安」の

紫色の波が頻繁に現れるようになった。


「大丈夫?」


金曜日の昼休み、凛が心配そうに尋ねた。


神谷君は彼女を野外活動に誘い、

彼女も参加することになっていた。


「少し緊張している」


正直に答えた。


以前の私なら「何も感じない」と言っただろう。


「わかる」凛は優しく微笑んだ。


「でも、私たちがいるから」


その言葉に少し安心した。


デバイスには「安堵」の緑色の波が表示された。


「水野さん、緊張してる?」


教室に戻ると、神谷君が声をかけてきた。


「少し」


「それって進歩だよね」

神谷君は嬉しそうに言った。


「前の水野さんなら

『わからない』って言ってたと思う」


確かにその通りだった。

私は自分の変化に少し驚いていた。


「明日、何時に集合?」


「10時に森の入口で」神谷君が答えた。


「大学のサークルの人たちは優しいから、

きっと大丈夫だよ」


優しい人たち。

それでも不安は消えなかった。


---


土曜日の朝、私は普段より早く目覚めた。

窓の外は晴れていて、木々が風に揺れていた。


何を着ていけばいいのか迷った。

普段、服装に悩むことはほとんどない。


しかし今日は違った。

結局シンプルな白いブラウスとデニムを選んだ。


家を出る前、母が声をかけてきた。


「今日は大学の実験なのね」


「ええ」


母は私の服装を見て、

少し驚いたように見えた。


私がファッションに

気を使うことはめったにないからだ。


「楽しんできなさい」


母の言葉に、小さく頷いた。


青葉の森の入口に着くと、

すでに神谷君と凛が待っていた。


「おはよう」神谷が手を振った。

「緊張してる?」


デバイスが「緊張」の波を表示している。

隠しようがない。


「少し」


「大丈夫だよ」凛が優しく言った。

「私たちがいるから」


三人で森の中央広場へ向かった。


木々の間から差し込む光が、

地面に美しい模様を描いていた。


鳥のさえずりが心地よく響き、

風が葉を揺らす音が静かな音楽のようだった。


デバイスには「穏やかさ」の波が表示された。

自然の中にいると、不思議と心が落ち着く。


中央広場に着くと、

すでに十数人の学生が集まっていた。

中村教授も彼らと話していた。


「あ、来てくれましたね」

教授が私たちに気づいて近づいてきた。


「皆さん、こちらが実験に

協力してくれている高校生たちです」


学生たちが振り返り、

私たちに視線が集まった。


私は無意識に凛の後ろに

隠れるような姿勢をとっていた。


デバイスが「緊張」の波を大きく表示している。


「こんにちは!」

明るい声の女子大生が近づいてきた。


「私は青葉大学心理学部の田中です。

今日はよろしくね」


「よろしくお願いします」

神谷君が率先して答えた。


田中さんは私のデバイスに気づいた。


「あ、それが噂の感情AIね。面白そう!

私も研究に参加したいって言ったんだけど、

教授に『あなたは感情が豊かすぎる』

って断られちゃった」


彼女は明るく笑った。

その笑顔に、少し緊張がほぐれた気がした。


「今日は森の中でオリエンテーリングをします」


教授が説明を始めた。


「チームに分かれて、森の中に

隠されたチェックポイントを探す活動です」


チームに分かれる。


それは私が最も苦手とすることだった。

デバイスが「不安」の波を表示する。


「水野さんと神谷くんは

別々のチームにしたいと思います」


教授が言った。


「異なる社会環境での

感情反応を測定するためです」


別々のチーム。


予想外の展開に、

私の不安は一気に高まった。


デバイスの「不安」の波が大きく跳ね上がる。


「大丈夫?」凛が小声で尋ねた。


「わからない」正直に答えた。


神谷君も心配そうに私を見ていた。


「水野さんは田中さんのチームに」

教授が続けた。


「月島さんも同じチームで。

神谷くんは山田くんのチームでお願いします」


少し安心した。少なくとも凛と一緒だ。

デバイスの「不安」の波が少し小さくなった。


チームが決まり、

それぞれに地図が配られた。


私たちのチームは田中さんを含め5人だった。


「よろしくね!」田中さんが明るく言った。

「私たちのチーム、女子ばかりで心強いわ」


他のメンバーは佐藤さんと

木村さんという大学生だった。


二人とも優しそうな雰囲気で、

私に気を遣ってくれているのがわかった。


「では、スタートします!」


教授の合図で

各チームが森の中へと散っていった。


私たちのチームは東の方向へ進んだ。


森の中は思ったより涼しく、

木漏れ日が美しかった。


「水野さんって、本当に感情が薄いの?」

歩きながら、田中さんが尋ねた。


唐突な質問に、少し戸惑った。


「そう言われる」


「でも、デバイスには感情の波が出てるよね」


田中さんが私の腕を覗き込んだ。

「今、『戸惑い』の波が出てる」


確かにデバイスには黄色い

「戸惑い」の波が表示されていた。


「最近、少しずつ感じるようになってきた」


「それって素敵なことじゃない」

田中さんは優しく微笑んだ。


「感情って、人生の色なんだよ。

それがないとモノクロの世界で生きてるみたい」


モノクロの世界。


確かに以前の私の世界は

モノクロだったのかもしれない。


でも今、少しずつ色がついてきている気がした。


「最初のチェックポイントはあっちみたい」

凛が地図を指さした。


私たちは小さな橋を渡り、

森の奥へと進んだ。


鳥のさえずりと葉擦れの音だけが

聞こえる静かな空間。


デバイスには「穏やかさ」の

波が表示されていた。


最初のチェックポイントは

大きな楓の木の下だった。


そこには小さな箱があり、

中にはパズルのピースが入っていた。


「全てのチェックポイントを回ると、

パズルが完成するんだって」


田中さんが説明した。


私たちはパズルのピースを取り、

次のポイントへ向かった。


歩きながら、佐藤さんが私に話しかけてきた。


「水野さん、趣味とかあるの?」


趣味…。考えたことがなかった。


「特にない」


「そっか」佐藤さんは少し考えてから言った。


「何か見つけるといいね。

趣味があると、感情も豊かになるよ」


趣味と感情の関係。

それも考えたことがなかった。


「何か、興味あることは?」

木村さんも会話に加わった。


興味あること。少し考えてから答えた。


「光の変化を観察すること」


「光の変化?」


「朝の光、夕暮れの光。

季節によって変わる角度や色」


「それって素敵な趣味じゃない」

田中さんが目を輝かせた。


「写真とか始めてみたら?

光の変化を記録できるよ」


写真。それは考えたことがなかった。


「考えてみる」


会話をしながら歩いていると、

不思議と緊張が解けていった。


デバイスの「緊張」の波は小さくなり、

代わりに「興味」「好奇心」の波が現れていた。


二つ目のチェックポイントは

小さな滝の近くだった。


水の音が心地よく響き、空気が清々しかった。


「きれい…」


思わず言葉が漏れた。


「水野さん、感動してる?」

田中さんが嬉しそうに言った。


「デバイスに『感動』の波が出てるよ」


確かにデバイスには薄いピンク色の

「感動」の波が表示されていた。


自分でも驚いた。


「写真撮ってあげようか?」凛が提案した。


「記念に」


私は少し躊躇したが頷いた。


凛がスマホで私の写真を撮ってくれた。

滝を背景に立つ私。


表情は相変わらず乏しいが、

目には小さな輝きがあるように見えた。


「いい写真」


凛が見せてくれた写真を見て、小さく呟いた。


三つ目のチェックポイントに向かう途中、

私たちは別のチームとすれ違った。


神谷君のチームだった。


「水野さん!」神谷君が手を振った。

「楽しんでる?」


私は少し考えてから答えた。


「ええ、意外と」


神谷君は嬉しそうに笑った。


「よかった!じゃあ、ゴールで会おう」


彼らが去った後、田中さんが言った。


「神谷くん、水野さんのこと気にかけてるね」


「そう?」


「うん、絶対。目が違うもん」


目が違う。それはどういう意味だろう…。


デバイスには「疑問」の波が表示された。


「水野さん、鈍感だね」

田中さんはくすりと笑った。


私には理解できなかったが、

凛も小さく微笑んでいた。


何か私が気づいていないことがあるようだった。


三つ目のチェックポイントは

大きな岩の上だった。


そこからは森全体を見渡せる景色が広がっていた。


「すごい景色!」田中さんが感嘆の声を上げた。


私も思わず息を呑んだ。


緑の海のような森の上に、

青い空が広がっている。


風が木々を揺らし、

波のような動きを作り出していた。


デバイスには大きな「感動」の波が表示された。

今までで最も大きな波だった。


「瑞希、感動してる?」凛が優しく尋ねた。


「ええ」素直に答えた。「とても美しい」


「表情が変わったよ」田中さんが言った。


「少し柔らかくなった」


私は自分の表情を意識したことがなかった。


でも、確かに頬の筋肉が

少し緩んでいるのを感じた。


これが「微笑み」というものなのだろうか。


最後のチェックポイントを目指して歩いていると

突然空が暗くなってきた。雲が出てきたのだ。


「雨が降りそう」木村さんが空を見上げて言った。


その言葉通り、

間もなく小さな雨粒が落ち始めた。


「急ごう」田中さんが言った。


「最後のポイントはすぐそこのはず」


私たちは足早に進んだが、

雨は次第に強くなっていった。


木々の葉が雨音で揺れ、

地面は徐々に濡れていく。


「あそこ!」佐藤さんが

指さした先に、小さな東屋が見えた。


最後のチェックポイントだった。


私たちは走って東屋に駆け込んだ。

ちょうどその時、雨が本降りになった。


「セーフ!」田中さんが笑った。


東屋の中には最後のパズルピースがあった。


私たちはこれまで集めたピースと合わせて、

パズルを完成させた。


それは青葉の森の地図だった。


「きれいにできた」凛が言った。


雨は強く降り続けていた。

しばらくここで雨宿りするしかないようだった。


「他のチームも雨宿りしてるかな」


佐藤さんが心配そうに言った。


「神谷君たちは大丈夫かな」私は思わず言った。


「心配?」田中さんが意味ありげに微笑んだ。


デバイスには確かに

「心配」の波が表示されていた。


私は少し驚いた。他人を心配する感情。

それも私の中にあったのだ。


「少し」正直に答えた。


「瑞希、本当に変わったね」凛が静かに言った。


「前なら、そんなこと言わなかった」


変わった。その言葉が胸に響いた。

私は本当に変わりつつあるのだろうか。


雨の音を聞きながら、

私はデバイスのグラフを見つめていた。


様々な色の波が以前よりもずっと大きく、

豊かに表示されている。


これが私の感情。数値化された心。

でも、数値だけでは表せない何かも、

確かに存在しているように感じた。


雨は優しく森を濡らし続けていた。


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