第3章「感情の色彩」
一週間が過ぎた。
私は毎朝、最初にデバイスの画面を
確認する習慣がついていた。
今日も小さな波が表示されている。
昨日よりわずかに
大きくなっているようにも見える。
気のせいだろうか。
「水野さん、おはよう」
教室に入ると、神谷君が手を振った。
彼も左手首にデバイスをつけている。
「おはよう」
私は少し意識して、声のトーンを上げてみた。
神谷君の表情が明るくなる。
「おっ今日の挨拶ちょっと違うね」
彼は鋭い。私の小さな変化に気づくなんて。
「試してみた」
「いいじゃん」神谷君は笑った。
「デバイスのグラフ、変化あった?」
私は自分のデバイスを見せた。
小さな波が少しずつ増えている。
「すごい!」
神谷君は自分のデバイスも見せてくれた。
彼のグラフは相変わらず
色とりどりの波で溢れている。
「俺のはあんまり変わらないけど、
水野さんのは確実に増えてるよ」
その時、月島 凛が教室に入ってきた。
彼女は私たちの方を見て、小さく微笑んだ。
「おはよう、瑞希。神谷くん」
「おはよう」
私たちが同時に答えると、
凛は私のデバイスに気づいた。
「それ、何?」
「感情理解AIシステム」私は説明した。
「青葉大学の実験に参加してる」
凛は興味深そうに覗き込んだ。
「へえ、面白そう。瑞希が参加するなんて意外」
意外。その言葉に少し引っかかりを感じた。
私も変わることができるのに。
その思いが胸の中で小さく渦巻いた。
デバイスが小さく振動した。
画面を見ると、「微小な不満」という
表示と共にオレンジ色の小さな波が現れていた。
私は驚いた。今の感情が
これほど正確に捉えられるなんて。
「どうしたの?」凛が心配そうに尋ねた。
「何でもない」
私は画面を隠した。
自分の感情が他人に見られることに、
なぜか抵抗を感じた。
これも感情なのだろうか。
授業が始まり、
私はいつも通り真面目に聞いていた。
しかし、時々デバイスの
画面が気になって見てしまう。
小さな波が時折現れては消えていく。
それが私の感情の動きなのだ。
昼休み、私は屋上に行った。
一人になりたいという気持ちがあった。
デバイスはそれを「内省的気分」と表示していた。
「ここにいたんだ」
振り返ると、神谷君が立っていた。
「一人になりたかった」
素直に言った。
神谷君は少し困ったように髪をかき上げた。
「あ、ごめん。邪魔だった?」
「いいえ」
私は彼の隣に立つスペースを作った。
神谷君は安心したように笑い、私の横に立った。
「水野さん、この一週間で変わった気がする」
「そう?」
「うん。表情が少し豊かになったというか…」
神谷君は言葉を探すように空を見上げた。
「感情が見えるようになってきた気がする」
私は自分のデバイスを見た。確かに、
波は少しずつ増えている。色も増えてきた。
「今日の放課後、中間報告があるんだよね」
神谷君が言った。
「どんな結果が出るか楽しみ」
「ええ」
私も少し期待していた。
この一週間、自分の中で何かが
変わりつつあることを感じていた。
それをデータで確認できるのは、
不思議な感覚だった。
﹍﹍
放課後、私たちは再び
中村教授の研究室を訪れた。
「お待ちしていました」
教授は私たちを迎え入れた。
「データを分析してみましたよ。
とても興味深い結果が出ています」
大きなモニターに、私と神谷君の
一週間分の感情グラフが表示された。
神谷君のグラフは相変わらず
色とりどりの波で埋め尽くされていたが、
私のグラフには明らかな変化があった。
最初はほとんど平坦だったグラフが、
日を追うごとに少しずつ波が大きくなり、
色も増えていた。
「水野さんのグラフを見てください」
教授は指し示した。
「感情の種類と強度が徐々に増加しています。
特に『好奇心』『穏やかさ』『期待』の
感情が顕著です」
私は自分のグラフを見つめた。
それは確かに変化していた。
「これは何を意味するのでしょう?」
私は尋ねた。
「感情は使えば使うほど強くなるという
仮説を支持するデータです」
教授は熱心に説明した。
「水野さんは自分の感情に意識的に
向き合うことで感情を認識し、
表現する能力が向上しているのです」
神谷君が嬉しそうに言った。
「やっぱりそうだったんだ!
水野さんの感情は眠っていただけなんだね」
眠っていた。その表現は的確かもしれない。
私の中の感情は、長い間眠りに
ついていたのかもしれない。
「しかし、興味深いのはこの部分です」
教授はグラフの特定の部分を指した。
「他者との交流があった時間帯に、
感情の波が大きくなっています。
特に神谷くんとの会話の時間帯は顕著です」
私は神谷君を見た。
彼は少し照れたように笑っていた。
「人間の感情は他者との関わりの中で育まれるものです」教授は続けた。「水野さんの場合、感情を刺激してくれる他者の存在が重要なようです」
他者の存在。
確かに、神谷君と話しているときは、
いつもより何かを感じることが多かった。
「次の段階として、より多様な社会的状況での
感情反応を測定したいと思います」
教授は提案した。
「例えばグループでの活動や、
未知の状況での反応などです」
「具体的には?」私は尋ねた。
「来週末、青葉の森で大学のサークルが
野外活動をします。そこに参加してみませんか?
様々な人と交流する機会になるでしょう」
私は少し躊躇した。
見知らぬ人たちと交流するのは苦手だ。
デバイスが振動し、「不安」の波が表示された。
「大丈夫、俺も一緒に行くよ」神谷君が言った。
「凛も誘ってみようか?」
凛も。その提案に、少し安心感を覚えた。
デバイスには「安堵」の波が表示された。
「わかりました」私は頷いた。
「参加します」
教授は満足そうに微笑んだ。
「素晴らしい。では来週末、
青葉の森の中央広場に集合してください」
研究室を出た後、神谷君は私に尋ねた。
「本当に大丈夫?無理しなくていいんだよ」
私は少し考えてから答えた。
「挑戦してみたい」
その言葉に自分でも驚いた。
以前の私なら決して言わなかっただろう。
神谷君は嬉しそうに笑った。
「応援してるよ」
その言葉が不思議と温かく感じられた。
家に帰る途中、私は青葉の森を見上げた。
来週末、あの森の中で何が起こるのだろう。
不安と期待が入り混じった感情が
胸の中で渦巻いていた。
デバイスには「複雑な期待感」と表示されていた。
以前の私には理解できなかった感情だ。
夕暮れの空を見上げると、
雲が夕日に照らされて美しく輝いていた。
その光景に胸が少し締め付けられるような
感覚を覚えた。
デバイスには
「美に対する感動」と表示されていた。
私は初めて自分の感情に名前を
付けることができた気がした。
それは小さいけれど、確かな一歩だった。
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