第2章 「数値の向こう側」
翌日の放課後、私と神谷は青葉大学へ向かった。
「緊張する?」
神谷が歩きながら尋ねる。
私は少し考えてから答えた。
「わからない。緊張とはどういう感覚?」
「えっと…」
神谷君は言葉を探すように空を見上げた。
「心臓がドキドキして、手に汗をかいて、
何か起こるかもって思う感じかな」
私は自分の体の状態を確認した。
心拍数は通常より若干上昇している。
手のひらは少し湿っている。
「少しだけ、かもしれない」
神谷君は嬉しそうに笑った。
「水野さんが自分の感情を
認識できたってことじゃん。すごいね」
すごい…。褒められている。
私は頷くことしかできなかった。
青葉大学の研究棟は、
想像していたより近代的だった。
ガラス張りの建物が夕日を反射して輝いている。
私たちは案内に従って3階へ上がり、
「感情心理学研究室」と書かれた
ドアの前で立ち止まった。
「ここだね」
神谷君がドアをノックすると、
中から中村教授の声が聞こえた。
「どうぞ」
研究室に入ると、様々な機器が並んでいた。
中央には大きなモニターがあり、
壁には脳の図や感情に関する図表が貼られている。
観葉植物も多く、
意外と居心地の良い空間だった。
「来てくれたんですね」
中村教授が立ち上がって私たちを迎えた。
「今日は簡単な説明と初期測定をします」
教授はデスクの上にあるデバイスを手に取った。
スマートウォッチのような形状だが、
少し大きめだ。
「これが感情理解AIシステム『エモ』です。
腕に装着すると、脈拍や体温、皮膚電気反応などを
常時測定します。同時に、このアプリを使って
定期的に自分の感情を記録してもらいます」
教授は二つのデバイスを私と神谷君に渡した。
「まずは装着してみてください」
私はデバイスを左手首に装着した。
軽くて、つけていることをほとんど感じない。
「システムを起動します」
教授がタブレットを操作すると、
私のデバイスが小さく振動した。
同時に部屋の大きなモニターに
二つのグラフが表示された。
一つは私のもの、
もう一つは神谷君のものだろう。
「これが感情グラフです。横軸が時間、
縦軸が感情の強度です。色の違いで
感情の種類を表しています」
神谷君のグラフには様々な
色の波が表示されていた。
一方、私のグラフはほとんど平坦で
わずかな起伏しかない。
「水野さんのグラフは、予想通り平坦ですね」
教授が言った。
「でも、まったくないわけではありません。
小さな波があります」
私は自分のグラフを見つめた。
確かに、ほんの少しだけ波がある。
それが私の感情なのだろうか。
「では、簡単な実験をしてみましょう」
教授はタブレットを操作し、
モニターに様々な画像を表示し始めた。
美しい風景、可愛い動物や悲しい場面、
恐ろしい映像…。
「画像を見て、何か感じることが
あれば教えてください」
私は画像を一つ一つ見ていった。
多くは特に何も感じなかったが、
夕焼けの写真を見たとき、
少し心が動いた気がした。
「この写真…少し何かを感じる」
「ほう」
教授は興味深そうに私を見た。
「どんな感じですか?」
言葉にするのは難しい。
「落ち着く。でも、同時に何か…寂しいような」
教授はモニターを指差した。
「見てください。あなたのグラフに小さな波が
出ています。青と紫の波…これは
『穏やかさ』と『物思い』の感情です」
私は驚いて自分のグラフを見た。
確かに、小さいながらも波が現れている。
「水野さんは感情がないわけではありません」
教授は穏やかに言った。
「ただ、その強度が弱く、
自覚しにくいだけなのです」
神谷が嬉しそうに言った。
「やっぱり水野さんにも感情あるじゃん!」
私は自分のグラフを見つめ続けた。
これが私の感情なのか。
こんなにも小さな波でしかないのか。
「これから一週間、このデバイスを
装着して生活してください」
教授は説明を続けた。
「アプリに一日三回、自分の感情を
記録してください。何も感じなくても構いません。
正直に記録することが大切です」
私と神谷君はデバイスの使い方について
詳しい説明を受けた後、研究室を後にした。
外に出ると、すでに日が落ち始めていた。
夕暮れの空が紫色に染まっている。
「水野さん、どう思った?」
神谷君が尋ねた。
私は自分の腕のデバイスを見つめながら答えた。
「不思議。私の中に感情があるとわかった。
でも、それがとても小さいことも」
「小さくても、あるってことが大事じゃない?」
神谷君の言葉は温かかった。
「これから増えるかもしれないね」
神谷君は明るく言った。
「感情って、使えば使うほど強くなるらしいよ」
使えば使うほど…それは本当だろうか。
私には想像がつかなかった。
家に帰る途中、私は青葉の森の脇を通った。
昨日と同じ道だが、今日は少し違って見える。
木々の緑がより鮮やかに感じられた。
風の音もより心地よく聞こえる。
私は立ち止まり、デバイスを見た。
小さな波が表示されている。
「穏やかさ」を示す青い波。
これが私の感情なのだ。
家に着くと、母が台所で夕食の準備をしていた。
「おかえり、瑞希」
「ただいま」
母は私の腕のデバイスに気づいた。
「それは何?」
「大学の実験に参加することになった。
感情を測定するもの」
母は少し驚いたように私を見た。
「あなたが?」
その反応に、私は少し何かを感じた。
母は私の「感情の薄さ」を
心配していることを知っている。
幼い頃から、「もっと笑いなさい」
「どう感じているの?」と何度も聞かれてきた。
「ええ。興味があって」
母は何も言わなかったが、
少し安心したような表情をした。
夕食後、私は部屋で日記を書いた。
いつもは事実だけを記録するのだが、
今日は少し違った。
「今日、初めて自分の感情を見た。
それはとても小さな波だった。
でも、確かにそこにあった。」
そして、アプリに今の感情を記録した。
「穏やかさ」「好奇心」「少しの不安」
デバイスが小さく振動し、
「記録完了」というメッセージが表示された。
窓の外を見ると、月が出ていた。
その光が部屋に差し込み、
静かな影を作っている。
明日から、私の感情はどう変化していくのだろう。
それを数値で見ることができるなんて、
不思議な感覚だった。
私は窓辺に立ち、月を見上げた。
胸の中に小さな期待が芽生えていた。
それは確かに、私の感情だった。
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