数値化されない心
tk (ティーケー)
第1章 「感情の座標軸」
朝の光が教室に
差し込む角度が今日は少し違う。
窓際の席に座る私は
そんなことを考えていた。
昨日より0.5度ほど低い角度。
季節が少しずつ移ろっている証拠だ。
私はそれを手帳に書き留める。
5月8日、朝の光の入射角、
昨日より0.5度減少。
「おはよう、水野さん」
声の主は神谷 陽介。
クラスの中心的存在で、
誰とでも自然に会話ができる人。
彼が私に話しかけてくるのは、
クラスで唯一かもしれない。
「おはよう」
私は顔を上げずに答えた。
感情を込めるべきだと頭では理解しているが、
どう表現すればいいのかわからない。
だから、いつも同じトーンになる。
「今日も手帳に何か書いてるの?」
神谷君が机に肘をついて覗き込んでくる。
シャンプーの香りが微かに漂った。
「光の角度」
「え?」
「朝の光の入射角。昨日より0.5度減少した」
神谷君は一瞬きょとんとした
表情をしたあと、くすりと笑った。
「水野さんって本当に面白いね」
面白い…。
それは褒め言葉だろうか、
皮肉だろうか。
私にはその区別がつかない。
だから無言で手帳を閉じた。
「あ、悪い意味じゃないよ。ただ、
普通の人が気にしないことに気づくなって思って」
神谷君の声には焦りが混じっていた。
私は彼の表情を観察する。
眉が少し寄っている。
申し訳なさそうな表情。
これは「謝罪」の感情表現だと理解している。
「気にしていない」
私はそう答えた。
実際、気にしていない。
ただ、どう反応すべきかわからないだけだ。
教室の扉が開き、月島凛が入ってきた。
私の唯一の友人と呼べる存在。
彼女は私の席の前で立ち止まり小さく頷いた。
「おはよう、瑞希」
「おはよう」
凛は私の反応に満足したように微笑み、
自分の席へと向かった。
彼女は私の「感情が薄い」という
特性を受け入れてくれる数少ない人間だ。
最初のチャイムが鳴り、
担任の森川先生が入ってきた。
「おはようございます。
今日は少し変わった連絡があります」
教室が静かになる。
「青葉大学の中村教授から、感情理解AIの
実験協力者を募集しているそうです。
興味のある人は放課後に」
その瞬間、私の視線と森川先生の視線が合った。
先生は一瞬言葉を切り、それから続けた。
「水野さん、あなたは中村教授から
指名がありました。放課後、
職員室に来てください」
教室中の視線が私に集まった。
私は何も感じないふりをした。
でも、胸の奥で何かが小さく震えた。
それが何なのか、私にはわからない。
﹍﹍
放課後、私は職員室へ向かった。
廊下の窓からは、青葉の森が見える。
新緑が風に揺れていた。
「あ、水野さん」
振り返ると、神谷君が駆け寄ってきた。
少し息が上がっている。
「どうしたの?」
「あのさ、中村教授の実験のこと。
もし良かったら、俺も一緒に行ってもいい?」
予想外の申し出に、私は一瞬考え込んだ。
「なぜ?」
「なんでって…」神谷君は髪をかき上げた。
「興味があるんだよ。それに、
水野さんが一人で行くのも心配だし」
心配。私のことを…
その概念を理解するのに少し時間がかかった。
「構わない」
神谷君の顔が明るくなった。
彼の感情表現は本当に豊かだ。
それを見ているだけで、
私の中に小さな波紋が広がる。
職員室では森川先生が待っていた。
隣には初老の男性。中村教授だろう。
「水野さん、こちらが中村教授です」
「初めまして、水野瑞希さん」
中村教授は穏やかな声で言った。
「君の噂は聞いていました」
噂…。それは私の「感情が薄い」
という評判のことだろう。
「あの、先生」神谷君が一歩前に出た。
「僕も実験に参加したいんですが」
中村教授は神谷を見て、
少し考えるような素振りを見せた。
「君は?」
「神谷 陽介です。水野さんのクラスメイトです」
「そうですか」教授は微笑んだ。
「実は対照群も必要だったんです。感情表現が
豊かな被験者も。君は適任かもしれませんね」
神谷君は嬉しそうに私を見た。
私は何も言わなかったが、
どこか安心したような感覚があった。
それが「安心」という感情なのかどうかは、
私にはわからない。
「では明日から、放課後に大学の研究室に
来てください。これが場所の地図です」
中村教授から渡された紙には、
青葉大学の地図と研究室の場所が記されていた。
「感情理解AIシステム」
私は地図の上部に書かれたその言葉を読み上げた。
「そう、最新の技術です」
中村教授は熱心に説明し始めた。
「人間の表情、声のトーン、体温、脈拍などから
感情を分析し、数値化するシステムです。
水野さんのような…
特殊なケースに特に興味があります」
特殊。それは「異常」の婉曲表現だろうか。
私はそう考えたが、口には出さなかった。
「楽しみですね」
神谷君が明るく言った。
私は黙って頷いた。
楽しみ、という感情がどういうものか、
明確にはわからない。
でも、明日からの実験について、
何か小さな期待のようなものを感じていた。
それが「楽しみ」という感情なのだろうか。
帰り道、神谷君は私と一緒に歩いた。
「水野さんって、本当に感情がないの?」
唐突な質問に、私は足を止めた。
夕暮れの光が私たちの影を長く伸ばしていた。
「ない、わけではない…」
言葉を選びながら答える。
「ただ、理解できない。表現できない」
「へえ…」神谷君は真剣な表情で私を見た。
「じゃあ、今どんな気持ち?」
今の気持ち。
それを言葉にするのは難しい。
「わからない…」
正直に答えた。
神谷君は少し考え込むような表情をした後、
ふっと笑った。
「大丈夫、一緒に探していこう」
探す。私の中の感情を。
その言葉に、胸の奥で何かが小さく震えた。
それが何なのか、まだ私にはわからない。
でも、明日からの実験で、
少しずつわかるようになるのかもしれない。
空を見上げ、夕焼けが雲を赤く染めていた。
その色彩の変化を見ていると、
不思議と心が落ち着く。
これも感情の一種なのだろうか…。
「明日、放課後に」
神谷君がそう言って手を振った。
私も小さく手を上げた。
﹍﹍
家に帰る途中、青葉の森の脇を通りかかった。
風が木々を揺らし、
葉擦れの音が心地よく響く。
私はその音に耳を傾けながら、
明日からの実験のことを考えた。
感情を数値化するAI…。
それは私の中の見えない何かを
可視化してくれるのだろうか。
そして、もし私の中に本当に感情があるとしたら
それはどんな形をしているのだろう。
夕暮れの空が少しずつ色を変えていく。
私はその変化を静かに見つめながら、
家路についた。
―――
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