第4話 助けられるたびに近づく気持ち


 その日は、屋敷中に花の香りが満ちていた。

 春の祝祭を前に、来客の準備が始まり、公爵家の中は慌ただしくも華やいでいた。


 リリィは、食堂脇の廊下を歩いていた。

 研究室の補充をお願いしたくて、リストを渡すために使用人を探していたのだが――角を曲がったところで、足元がツルリと滑った。


「きゃっ――!」


 床に散乱していた透明なオイルのせいで、リリィは勢いよく転んだ。

 手にしていた魔力式のメモが床に舞い、紙束が散らばる。


 くすくすと笑う声が背後でした。


「まあ……うっかりなさったのね、リリィア様。廊下で転ぶなんて、子どもみたい」


 振り返れば、アゼリアが立っていた。

 使用人を従え、手にはなぜか植物の育成用オイルの瓶。どうやら花壇の手入れをしていた、という建前らしい。


(わざと……? いや、それは思い過ぎかしら――)


 リリィは何も言わず、散らばってオイルで汚れてしまった紙を黙々と拾い集めた。


 その時――


「リリィア嬢? 何をしているんだ」


 廊下の奥から、聞き慣れた低い声が響いた。

 レオニスが、書類を抱えて歩いてきたのだった。


 リリィは思わず立ち上がりかけて、また足を滑らせた。


「危ない!」


 レオニスが駆け寄ってきて、落ちかけたリリィの腕を支えた。

 距離が一瞬だけ、近くなる。


「……すみません。私、足元を……」


「……オイル……誰がこんなところに?」


「申し訳ありません! こちらの者が、少し手元を誤りまして……私の監督不行き届きですわ」


 アゼリアが即座に頭を下げる。


 レオニスは一瞬、視線を鋭くしたが、リリィがかぶりを振った。


「大丈夫です。私がちゃんと見ていなかったのが原因です。気をつけます」


「……ならよいが」


 リリィの肩に手を置いたまま、レオニスは小さく息をついた。


「足をひねったりはしていないか?」


「平気です。ありがとうございます」


 レオニスが名残惜しそうに手を離したとき、アゼリアの爪が扇子を強く握りしめていたことに、誰も気づかなかった。


 


* * * 


 


 数日後、リリィが廊下の窓辺に置かれている鉢植えの花々を鑑賞していると、廊下の向こうからアゼリアが近づいてきた。


「リリィア様、こちらの花をご覧になって?」


 少し離れた位置で立ち止まったアゼリアが、穏やかな声で呼び止める。


「この時期には珍しいものでしてよ。色も香りも――きっとお似合いですわ」


促されるまま近づいたリリィは、足元のじゅうたんが微妙にずれていることに気づかなかった。


(……え?)


次の瞬間、スカートの裾が引っかかり、体のバランスが崩れる。


「危ない!」


 またしても、タイミングよく現れたレオニスが支えてくれた。


 その腕の中でリリィは、少し離れた位置に立っているアゼリアが苦々しい顔でこちらを見ているのが見えてしまい、

(あぁ……これは、仕組まれたのね)

 そう思わざるにはいられなかった。


「またか……?」


「いえ……わたしがそそっかしいのが原因です。

 また、助けていただきありがとうございました。」


「わたくしは少し離れたところからお声がけをしたので、お助けできずごめんなさいね」

 自分は触れてもいない、と言うことを暗に仄めかすアゼリアに白々しく思いながらも

「……いいえ。せっかくお花をご紹介くださったのに、わたしがそそっかしくて申し訳ありません」


 笑ってそうアゼリアに言葉を返すリリィに、レオニスはしばし視線を外し――やがて小さく頷いた。


「……大事な魔法の契約を実行してもらうのにそそっかしさで怪我でもされては困るな。もう少し、私の目が届く場所にいてもらおう」


「えっ?」


「君の研究室の隣に私の執務室を移すことにする。防犯上の理由だ」


「それは……でも……」


 リリィの戸惑いに構わず、連れていた執事であるクラウス・ハイネマンにそっと目線を送り、短く指示を下した。

 指示が終わったレオニスは、怒りに顔を歪めるのをなんとか耐えているアゼリアを連れて淡々と歩き出してしまった。


 彼の背を見つめながら、リリィは胸の奥にこそりと灯る、あたたかくてくすぐったい何かを感じていた。


 


* * * 


 


 その夜、アゼリアは一人、扇子を握りしめていた。


 細く折られた布、わざと緩く結んだ結界用の紐、透明なオイル瓶。

 すべてが“うまくいくはずだった”。


「なぜ……あのタイミングでレオニス様が……」


 リリィアが助けられたあと、レオニスが部屋まで送ってくれたのだが、部屋の前でこう言われてしまった。


「契約の婚約者とはいえ、彼女はこの屋敷の客でもある。誰であっても、迎え入れた者には敬意を払うのが我が家の流儀だ。

 誰に対しても、変わらず優しく接してくれる君を、私は信じているよ」


 その時のことを思い出すと、微笑むふりに疲れた頬が、わずかに引きつった。


 扇子を閉じる音が、冷たい部屋に響く。


「まだ……始まったばかりですわよ、リリィア様」


 


* * * 


 


 その頃、研究のために食事を食べそびれたリリィは、ヴィオラが運んでくれた夜食の温かいスープとチーズ入りのパンを一緒に食べていた。


「なんか最近、レオニス様に見られてばっかりな気がする……」


「そりゃ、目立つからじゃない? 転んだり、よろけたり、花瓶落としかけたり」


「……うぐ」


「でもさ、あの人、優しいよね。助けるの早いし、ちゃんと見てくれてる気がする」


「……気のせい、だよ。契約だから」


 そう言いながらも、リリィの頬にはうっすらと朱がさしていた。

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