第5話 沈黙の観察者


 クラウス・ハイネマンは、ヴァルシュタイン公爵邸に仕えて四十年になる。

 彼がこの邸で執事として働き始めた頃、現公爵であるアレクシス殿下はまだ若く、奥方のエレーナ様とともに首都と領地を往復しながら、公爵家の礎を整えていた。


 レオニス様が生まれたのは、そんな慌ただしい季節の終わり――冬から春へと移ろう頃だった。


 そしてその日から、クラウスの役目はひとつ増えた。

 主の跡取りである少年を、日々の暮らしから将来にいたるまで支え、見守るという役目だ。


 それは、名誉であり、重責でもあった。



 今、公爵夫妻は領地に滞在しておられる。

 税制改革や騎士団の再編といった大事業のためである。

 その間、首都の公爵邸はクラウスの采配のもとに維持されている。

 広大な邸宅、数十人の使用人、来賓の応対、祝祭準備――そのすべてが、クラウスの肩にかかっている。


 だが、彼は不満ひとつ漏らさない。

 それが“ヴァルシュタインの執事”であるということだからだ。


 


 この数日間、クラウスはいつにも増して邸内の空気に神経を配っていた。


 リリィア・ブランシェ嬢の来訪――それはただの婚約者の受け入れではない。

 公爵家とフィロセア伯爵家の“契約”による繋がり。

 そして、それ以上に重要なのは、彼女が公爵家の内部に初めて足を踏み入れた“外部者”であるということだ。

 アゼリアはこの屋敷で暮らしているが、元々正妻になれる身分ではないので、公爵家の仕事や領地経営の“内部”の情報は知らない。

 クラウスは様々な情報の取り扱いも含めて細かく観察をしなくてはならないのだ。

 


 初対面の印象は――静かで、丁寧。

 だが数日で彼女は、“只者ではない”という印象へと変わっていった。


 魔法理論における構成式の改良、実用化への応用力、言葉選びの賢さ――

 それらは全て、控えめな態度に隠されているが、観察の目を持つ者には隠しきれない。



 クラウスは一度、レオニス様が廊下でリリィア嬢を支えたときの様子を見かけた。

 主はそれまで、どこか鉄壁のように他者を遠ざけていた。

 だがあの瞬間だけ、彼の眼差しに――わずかな“動揺”があった。


 それは、執事として長年仕えてきた者にしかわからない微細な変化だったが、それでも確かに“心が揺れた”証だった。


 


 一方で、アゼリア・ローレット嬢。


 あの方もまた、この屋敷で長く“家族のように”扱われてきた存在だ。

 身分こそ平民だが、育ちと教養、そして何よりレオニス様の信頼があった。


 だが――最近の彼女の行動には、クラウスも内心で眉をひそめていた。


 磨き抜かれた所作、優美な物腰。

 だがその裏に、鋭くとがった棘がある。


 事故を装った転倒、使用人を巻き込んだ仕掛け、敷物のズレ……

 全てが偶然とは言い難いのに、誰も証拠を掴めない。

 だからこそ、クラウスは記録を残そうと、魔道具の配置などの細かいところまで注意していた。


 


(主が動くより前に、事が荒立つようなことがあってはならない)


 


 クラウスは、静かに扉をノックした。


「失礼いたします。執務室の移設、作業は本日中に完了いたします」


「ありがとう、クラウス」


 レオニス様の声は、相変わらず静かだった。

 だが、その表情には、珍しく疲れがにじんでいるように見えた。


「……何か、困ったことでも?」


 問いかけると、レオニス様は一瞬だけクラウスを見た後、ふっと小さく笑った。


「いや。ただ、少し……思ったよりも、彼女はまっすぐだったな。想定外、だ」


「まっすぐな方ほど、扱いに困るのもまた、事実でございます」


 クラウスは静かに頭を下げた。


 


 執務室の隣――リリィア嬢の研究室からは、今日も魔力の微かなゆらぎが漏れていた。

 それは、静かで整った、けれど芯のある波だった。


(……まだ、どちらの未来にも傾いていない。だからこそ、私の役目がある)


 


 クラウス・ハイネマンは、今日もまた静かに立ち続ける。

 すべてを見届ける、“沈黙の観察者”として――。

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