第3話 心を見せない婚約者
ヴァルシュタイン公爵邸の食堂は、まるで王宮の晩餐室のようだった。
長いテーブルに白いクロス、朝の光を受けてきらめく銀器。並べられた料理は、色鮮やかで香り高く、食欲をそそる。
だが、リリィはフォークとナイフを持つ手が少しだけ強張っているのを自覚していた。
(こんなに静かな朝食ってある?)
レオニスは、端整な顔立ちに無表情を湛えたまま、淡々と食事を進めている。
時折、ナイフとフォークの音が響くだけで、誰も余計なことを口にしない。
隣席のアゼリア・ローレットはいつものように微笑を浮かべ、柔らかな声で話題をつなごうとしていたが、レオニスの反応はほとんどない。
(レオニス様って……“心に決めた人”といる時も、こんな感じなの?)
リリィは昨夜の会話を思い出しながら、口の中のパンをそっと飲み込んだ。
――恋人がいる。
だからこその“白い結婚”。
そう聞かされていたはずなのに、どこか不自然な距離感に、胸の奥がざわついた。
「……リリィア嬢」
突然、名前を呼ばれて、リリィはビクリと肩を揺らした。
レオニスが、初めてリリィの方をまっすぐに見た。
「朝食のあと、屋敷内の案内を兼ねて、研究室を見せたいと思うのだが。時間は問題ないだろうか」
「……はい、もちろん」
驚きつつも即座に頷く。
その様子を見て、レオニスはほんのわずかに口元を緩めた……ような気がしたが、すぐに視線を逸らされてしまった。
(今の……なんだったんだろう)
アゼリアの微笑が、一瞬きつくなったことに、リリィは気づかなかった。
* * *
「ここが、君専用の研究室だ」
食後、レオニスに案内されたのは、防火と防犯の結界が張られた特別区画にある明るい部屋だった。
重厚な扉の横には魔力認証の制御盤が備えつけられており、リリィとヴィオラの魔力を登録した上で、静かに鍵が解除された。
「この部屋に入れるのは、君と君の侍女、そして私だけだ。他の者は許可がなければ入れないよう防御結界も張ってある。安心して研究してくれ」
「……そこまで……ありがとうございます」
リリィは思わず息を呑んだ。
これほどの設備とセキュリティを、自分のために用意してくれるとは思わなかった。
中に入ると、分厚い机、大理石の作業台、そして魔力測定用の魔道具の数々、あらゆる作業道具が整然と置かれていた。
「……すごい……これ全部、私に?」
「ああ。ここでは誰にも遠慮せずに研究していい。君の得意分野は理論構築と改良魔法だったな?」
「はい……!」
リリィは思わず頬が緩んだ。
こんなに整った設備で自由に研究できるなんて、夢のようだ。
「最初の課題だが――この魔導炉の出力効率を、現状の二割増しにできるか試してみてほしい」
提示されたのは、熱変換型の中型魔導炉だった。
魔導炉というのは、魔力を供給すると、エネルギーに変換する装置のことで、ヴァルシュタイン公爵家の産業部門では、工場の機械、輸送装置、照明などに利用されている。
リリィは数分ほど中を覗き、魔法式を確認すると、すぐに問題点を見つけた。
(……ここの流れ、偏ってる。こことここの魔力の配分を均せば……)
彼女はスカートの裾をさっと捲り上げ、小型の計測板を手に取り、即席の補助式を描き始める。
レオニスは黙ってその手元を見つめていた。
十数分後、リリィが組み替えた魔法式は、試験出力で本来の1.27倍のエネルギーを生成した。
「これは……すごいな」
レオニスの声に、リリィは肩をすくめた。
「ほんの仮設計ではありますが、制御式とあわせれば安定性も保てます。暴走のリスクも低いはずです」
「確かに、ここの抑制環もよくできている。君は本当に、優秀だな」
レオニスの声にこもった感嘆の色が、リリィの胸にわずかな温度を灯す。
* * *
廊下を一人戻りながら、レオニスは思案していた。
(リリィア嬢は、私の想像よりはるかに優秀だったな)
彼にとって、アゼリアは特別な存在だった。
身分の壁を越えて支えてくれたこと、信じて寄り添ってくれたこと。
それは紛れもなく感謝でもあり、愛情だった。
――けれど、今。
リリィのまっすぐな視線と、確かな魔法の腕前が、心に引っかかりとして残っていた。
(……あれほどの精度の調整を、あの短時間で)
胸に残るのは、驚きではなく、認識の更新だった。
“お飾りの婚約者”――そんな言葉で片づけられない何かが、彼女にはある。
そして、自分がそれに気づいてしまったことに、レオニスはまだ戸惑っていた。
* * *
レオニスの執務室の前でアゼリアは、薄紅の扇子を唇に当てながら待っていた。
扉には魔力封印が施されており、アゼリアの魔力では解除できない。
それが余計に、彼女の焦燥をかき立てていた。
レオニスの姿を見つけると走り寄って行く。
「研究室は、いかがでしたか? リリィア様……あまり突飛な発想に走りすぎなければよろしいけれど。魔法は、ほんの少しのズレで命取りになりますもの」
レオニスはピクリと眉を動かしたが、あえて静かに微笑んで返す。
「リリィア嬢は思ったよりも優秀だったよ。アゼリアの心配には及ばない。ありがとう」
「まあ、それはよかったこと。……レオニス様の信用をもう得たのですね」
その言葉に、レオニスは笑顔を崩さずに返す。
「彼女とは契約に従って、お互いに責任を果たし合うだけだよ」
そのまなざしは、まっすぐに、そして静かだった。
* * *
夜。リリィはヴィオラと共に部屋へ戻っていた。
「今日のリリィ、すごかったよ。私、横で感動してたもん」
「ありがとう。でも……正直、びっくりされるの、少し怖かった」
「びっくりしたの、レオニス様も?」
問いかけに、リリィは少しだけ考えて、首を横に振った。
「……わからないの。驚いてたようにも見えたし、ただ評価してただけのようにも……なんだか、心が見えないの」
そう呟いた後、リリィはバルコニーに出て、そっと空を見上げた。
夜空に浮かぶ月は静かで、どこか冷たかった。
「……契約の婚約者なんて、心を見せなくて当然なんだけど、ね」
胸の奥に残る小さなざらつきに、リリィは気づかぬふりをして、そっと目を閉じた。
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