第2話 はじめての朝、1日目の試練
ヴァルシュタイン公爵家の朝は、早い。
庭を掃除する使用人たちの足音や、草木の手入れをする鋏の規則正しい音が朝の冷たい空気をより一層引き締めていた。
「……すごいわ……。これが、毎日続くのかしら……」
リリィは、自室のバルコニーから手入れの行き届いた庭を見下ろし、小さくため息をついた。
見渡す限り隙のない景色は、美しいというよりも、どこか緊張を誘う。
昨夜は、慣れない屋敷の気配に何度も目を覚ました。
豪奢すぎる天蓋つきのベッド、しんと静まり返った長い廊下、どこを見ても完璧すぎて、自分がそこにいるのが場違いに思えてしまった。
ヴィオラは「きっと慣れるよ」と笑ってくれたけれど、そんな簡単に“慣れる”ような場所ではなかった。
けれど、だからこそ負けたくないと思った。
この屋敷に呑まれるのではなく、自分の足で立ち、自分の力で居場所を作る。
それが、ブランシェ家の娘として――いや、リリィア・ブランシェとしての矜持だった。
「……って、だめだめ。考えすぎだってば」
軽く頬を叩いて気持ちを切り替えていると、ヴィオラの部屋に続く扉が開いた。
「おはよう、リリィ。朝食の準備ができてるってさ。さ、正装正装!」
ノックもせずに入ってきたのは、ヴィオラ。
紫がかった髪をゆるく結んだ彼女の明るい声に、リリィはふっと笑う。
「ありがとう、ヴィオ。……今日から本格的に“花嫁修行”ね」
「うん、でも無理しなくていいよ? それに、あくまで建前だし!」
ヴィオラはふわりとリリィのスカートの裾を整えながら、小さく笑った。
「そういえば、リリィがこういう服着るの、いつ以来? 子どもの頃の“お姫様ごっこ”以来じゃない?」
「ちょっと、あれは魔法の演習の延長だったでしょ。ドレスっていうか、布巻いてただけだし」
二人で顔を見合わせてくすくすと笑う。
こんな風に肩の力が抜けるのは、ヴィオラがそばにいてくれるからだ。
たとえ豪奢な公爵家の屋敷に囲まれていても――リリィは一人じゃない。
身支度を整えてもらい、リリィはヴィオラとともに朝食会場へ向かった。
使用人たちが一礼する廊下を、ゆっくりと歩いていく。
その途中、――角を曲がったところで、ひとりの女性が立っていた。
「おはようございます。……よく眠れました? この屋敷、少々広すぎて迷っているんじゃないかと思ってお迎えに参りましてよ」
紅の髪を美しく巻き上げたアゼリア・ローレットが、レースの扇を口元に添えて微笑む。
「おはようございます、アゼリア様。昨日はご挨拶もままならず、申し訳ありませんでした」
「いいえ。お疲れでしたでしょうし……どうかご無理はなさらず。レオニス様のお相手はお任せくださいませ。
花嫁修行もお勉強も少しずつで構いませんもの」
その声音は丁寧なのに、まるでリリィが“学びの足りない田舎娘”とでも言いたげだった。
(……なるほど、こういう方なのね)
リリィはにっこりと微笑み返す。こういう皮肉の交わし方は、ヴィオラとの“貴族界あるあるごっこ”で何度も練習してきた。
「ありがとうございます。
ですが私、魔導式の理論構築は得意なので、そちらの勉強はむしろ楽しみで」
一瞬、アゼリアの扇子がぴくりと揺れたのを、リリィは見逃さなかった。
「まあ、それは頼もしいこと。でも、公爵家の名に恥じない立ち振る舞いも、大切ですから。……特に、たとえお飾りでもレオニス様の隣に立つならば」
アゼリアの視線は、鋭くリリィの顔を探っている。
まるで“あの人は渡さないわよ”とでも言いたげな気配。
けれど、リリィは一歩も退かなかった。
「アゼリア様こそ、公爵邸のことをご存知でしょうし、いろいろと教えていただけると心強いです」
にこやかに返すリリィに、アゼリアのまつ毛が一瞬ぴくりと動いた。
その微細な変化が何を意味するか、リリィは気づかない。
ただ、そのやりとりを――
上階の吹き抜けから、レオニスが見下ろしていた。
朝、簡単な執務を終えて食事に向かう途中、紅とピンクベージュの髪が並ぶ光景が飛び込んできたため、階段の踊り場でふと足を止めたのだ。
リリィアの言葉は、柔らかい口調なのに、不思議と芯のある言葉だった。
アゼリアの扇がわずかに揺れ、“お飾りでも”という刺すような言葉が返ってくる。
(アゼリア……)
レオニスは眉をわずかに寄せた。
彼女は、ずっと自分のそばにいた。
身分の壁を越えて、信じてついてきてくれた。誰よりも自分を理解してくれていた――そう思っていた。
だが最近、リリィアとの婚約話が出たあたりから、どこか焦るような彼女の態度が気になっていた。
誰かを牽制するような言葉、必要以上の笑み。
今もまた、リリィに対して少し強く出すぎている気がする。
(……いや、気のせいか。アゼリアは優しい。ただ、不安なのだろう……
アゼリアを正妻にすることはできない。それは彼女もよくわかっているはずなのだから)
そう思い直して、レオニスは視線を落とす。
リリィは何も言い返さず、ただ静かに――誇りを失わない笑みで受け流していた。
その姿に、ほんの少しだけ――「強さ」という印象を抱く。
それが、心に引っかかりとして残ったことに、彼自身はまだ気づいていなかった。
まだ始まったばかりの“契約の関係”――
当然ながら、少しずついままでとは何かが変わりはじめていた。
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