白い結婚だって聞いていたのになぜか溺愛に変わりました
ひだまり堂
第1話 契約の花嫁、白い門をくぐる
春の風が、街道沿いの藤の花を揺らしている。
馬車の窓は少し開かれ、藤の花のような色を映したラベンダー色の瞳が、ワクワクしながら流れる景色を眺めていた。
空はとても晴れやかで――まるで、これからの未来を祝福してくれているかのようだった。
「……どんな家なんだろうね。でも安心して!ずっと一緒だからね、リリィ。」
そう声をかけてきたのは、幼なじみで侍女のヴィオラ。言葉とは裏腹に彼女の目には少しだけ不安がにじんでいる。
「うん。婚約者としての“花嫁修行”なんだし、契約結婚ですもの。あくまで建前よ」
リリィア・ブランシェ――愛称リリィの淡いピンクベージュの髪が風に揺れる。
――本当の理由は、そんな可愛らしいものではない。
フィロセア伯爵家は、今にも潰れかねない借金まみれの家。
祖父の代までは名門と呼ばれていた家も、父の代にはすっかり傾き、いまや領地も人手に渡った。
公爵家との婚約は、家の立て直しのために父がすがった、最後の一手。
公爵家が要求してきたのは、リリィの持つ“魔力”だった。
――魔法契約。
リリィは公爵家の産業部門に協力する魔法使いとして、魔力を提供すること。
そして、あくまで“形式的な婚約者”として公爵邸で暮らしながら、表向きには花嫁修行に励むという立場を取る。
「白い結婚かぁ……」
ぽつりとヴィオラがつぶやいた。
「そう。恋愛感情も、肉体的な関係もなし。私たちは協力者としての関係を結ぶだけ。彼にはもう“心に決めた人”がいるんだって。だから、私はお飾り」
それは、契約書にも明記されていた。
レオニス・ヴァルシュタイン――婚約者となる公爵家の嫡男には、すでに恋人がいるという。
(正直、恋愛とか、よくわからないし。むしろ都合がいいかも)
リリィは思う。
昔から、魔法に夢中で。人付き合いも、恋も、お姫様のようなドレスや舞踏会にもあまり興味が持てなかった。
それよりも、魔導式を書き換えてエネルギー効率を上げたり、浮遊転移式を安定させる方がずっと楽しい。
(この婚約で家の借金がなくなって、私は好きな魔法の研究ができて、誰にも迷惑をかけずに生きていけるなら、それでいい)
割り切ったはずだった。
けれど。
馬車がヴァルシュタイン公爵家の壮麗な門をくぐったとき――
ふと、胸の奥が静かにざわめいた。
石造りの並木道をずっと進んだ先に、白亜の屋敷が陽光を浴びて輝いている。
玄関の前には数名の使用人たちが並び、そして――ひときわ目を引く青年がひとり、リリィを見上げていた。
銀の髪に、深い藍色の瞳。
冷静で理知的な雰囲気を纏いながらも、どこか整いすぎたその容姿には、不思議な威圧感があった。
(……あれが、レオニス様……?)
まっすぐな視線が、馬車の中のリリィをとらえる。
凛としたその眼差しに、リリィは思わず背筋を伸ばした。
(……ちょっと、想像よりも、ずっと)
近づいてくる馬車。止まる車輪。扉が開かれ、リリィはそっと足を地に降ろすと、草の香りを含んだ春の風が、リリィのスカートをそっとなでた。
「初めまして。リリィア・ブランシェと申します。ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません」
丁寧に一礼すると、レオニスは無言で一歩、彼女の前に進み出た。
「ようこそ、ヴァルシュタイン公爵邸へ。わたしがレオニス・ヴァルシュタインだ。……まずは、ようやく会えたことを喜ぼう。婚約者殿」
その声は、思っていたよりもずっと低くて、穏やかだった。
契約上の挨拶かと思ったのに、彼の目の奥には何かを測るような光が宿っている。
「本日から、この家で生活を始めていただく。部屋も研究室も用意してある。侍女の部屋もリリィア嬢の部屋の続きに用意してある。他に必要なものがあれば遠慮なく言ってくれ」
「……はい。ありがとうございます」
そこまで交わしたところで、レオニスはふと視線を横にそらす。
その先にいたのは、一歩後ろに控えていた、紅の髪を持つ女性。
レースの手袋をはめた彼女は、髪に似た紅の瞳でわずかにリリィを一瞥し、笑みを浮かべた。
「――ふうん。これが、“花嫁修行”のお嬢様?」
冷ややかに見下ろすようなその声に、リリィは思わず身をすくめた。
彼女の名は、アゼリア・ローレット。
レオニスの“心に決めた人”――つまり、恋人だと噂される女性だった。
(あの方が、平民の恋人……? 思ったより……ずっと)
美しく、整っていて、でも――その笑みには、どこか刺があるように感じられた。
(まあ、いいわ。私はただの“契約の花嫁”なんだから)
そう、自分に言い聞かせる。
この家で恋なんて、するつもりはない。
私の仕事は、魔法で契約を果たし、家を救うことだけ。
――そう、思っていたのに。
この日から、リリィの運命は静かに、そして確実に変わり始めていた。
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