第3話 軋音のゆりかご

第1章 ミルクと嘘の口紅



志水彩(しみず・あや)は、今日もミルクを飲んだ。

赤ん坊のじゃない。冷蔵庫の奥に転がっていた、賞味期限ぎりぎりの紙パック牛乳だ。


「ぬる…」


ぬるいミルクを飲み下して、彩は紙パックの角を握り潰した。

それを流しの三角コーナーに放り投げた瞬間、背後から泣き声が上がった。


「…また?」


部屋の隅。ベビーベッドの中で娘の美玖(みく)が、手足をばたつかせ泣いていた。

熱っぽい。ミルクも飲んだばかり。オムツも替えたばかり。

泣く理由はない。でも泣く。


「…うっせえな」


小声で吐き捨てて、彩はそっちを見ようともしなかった。

見たら、何かしてやらなきゃいけなくなる。それが面倒だった。

そして面倒なことをやらなきゃいけない自分に、イライラするのも分かっていた。


「お前が泣くと、私の頭がおかしくなるんだよ」


そう呟いた自分の声が、思いのほか冷たくて、彩は鼻で笑った。

「母親失格」なんて、とうに分かってる。でも誰も責めてこない。

この部屋には、自分と子どもしかいない。

だから、彩の罪も、彩の言葉も、すべて空気の中に消えていった。


彩はメイクポーチを開いた。

中にはファンデーション、アイライナー、口紅。

化粧道具の隙間には、鼻吸い器と哺乳瓶の乳首が突っ込まれていた。


「…なにこれ」


笑いも出なかった。

"オンナ"と"オヤ"を無理やり同居させた生活。それが今の彩だった。


鏡の前に立ち、口紅を引く。赤は濃く、嘘のように綺麗だった。

こんな自分に似合うわけがないと思いながら、彩は笑ってみた。


口角は、うまく上がらなかった。

口紅だけが、真っ赤に嘘をついていた。


「ママになったら、変われると思ってたんだけどなぁ…バカだったわ」


誰にともなく呟いて、スカートを履く。

その裾に、小さな手が触れた。


「…おい」


ベビーベッドから、美玖がこちらを見ていた。

彩のスカートを握って、離さなかった。


「やめろって…時間ないんだよ」


彩は無理やりその手を振り払った。

一瞬、泣きそうになる美玖。

けれど、次の瞬間、彩は深いため息とともに美玖を抱き上げた。


「はいはい、行けばいいんでしょ。私の人生、あんたで埋まってるんだし」


吐き捨てるように言って、彩はバッグと荷物を持って部屋を出た。


―――――


夜の10時、アパートの前に白いワンボックス車が停まっていた。

ドアを開け、運転席を見る。見慣れた送迎のスタッフが頷いた。

だが、助手席に――見知らぬ男が座っていた。


「…誰?」


彩が眉をひそめて問うと、男は静かに笑った。

仕立ての良いスーツ、無機質な顔、癖のない髪型。

そのすべてが、目立たないのに不気味だった。


「私は蘇我と申します。ライフプランの設計をしております」


「は? 保険屋? 宗教? それともスカウト?」


「どれでもありません。ただ、あなたのような方にだけお話できる、“制度”のご提案がありまして」


「制度…?」


「ええ。たとえば――あなたが死んだ場合、この子にどうやって“生きる手段”を残せるかという話です」


その言葉を聞いた瞬間、彩は息を止めた。


「…へぇ」


驚きも、怒りもなかった。

あったのは、妙な“理解”だけ。


「じゃあさ、質問」


「どうぞ」


「私が死んだら、この子は助かる? その制度でさ」


蘇我の目が、わずかに光った。


「…一定の条件を満たせば、可能です」


彩は、それを聞いて、ようやく笑った。

今夜初めての、自然な笑みだった。


でもそれは、壊れかけの人間だけが浮かべる笑みだった。



―――――――――――――――――――――――



第2章 百万円のゆりかご



志水彩が、この街に来て半年になる。

最初に寝たネットカフェの空気の重さを、今も体が覚えている。乾いた消毒液とカビのにおい。それから、何か焦げたような哀しさの匂い。


今の部屋は、六畳。風呂トイレ別、築二十年、家賃5万6千円。

狭い。でも、屋根がある。

鍵がある。ベビーベッドがある。

それだけで、「ちゃんとしてる母親」みたいな顔ができる。できるけど、気休めだ。


彩は美玖を腕に抱えて、駅前のコンビニの裏へ向かった。風俗の仕事を終えた帰り道、蘇我から「少しお話を」と連絡が入った。

店の送迎車の中でスマホを見て、即答した。会話も面倒な店の女の子たちと一緒にいるよりはマシだと思った。


コンビニ裏のゴミ置き場は、生ゴミと焦げた油のにおいがした。蘇我は、その前に立っていた。

仕立てのいいスーツ。夜風の中でシワひとつない。


「時間を取らせて、申し訳ない」


「いいよ。帰っても寝るだけだし。話だけなら、別に」


彩はそう言って、バッグからタバコを取り出しかけた。

けれど、美玖を抱いている自分に気づいて、そのまま戻した。


「で、保険なんでしょ? 人の不幸に値札つけるやつ」


「制度です。人ではなく、可能性に値をつけます」


蘇我の返答は、一切の感情を含んでいなかった。


「死亡保険金750万円、災害死亡時に追加750万円。合計1,500万円の支払い設計です。月額は2,600円程度」


「ふーん、安いんだね。私の命って」


「保険とは、確率に対する対価です。そのリスクに応じて、保険料が決まります」


「…それ、私に言ってどうするの?」


「反応は必要ありません。これは“仕様”の説明です」


彩は、言葉を詰まらせた。

詰まった自分にも、驚いた。心の中に、ひやりと冷たいものが走る。

この男、普通じゃない――


そのまま逃げたくなるような感覚を、喉の奥に押し込んで、ゆっくりと口を開いた。


「……じゃあ、その金はこの子に残せるの?」


「指定信託口座を設定すれば、未成年者への支払いも可能です。年齢制限のある生命保険とは異なり、受託者の介在により、間接的な資金管理ができます」


「何それ、マジで言ってんの? この子、生後半年だよ?」


「はい。例えば十五年信託。100万円ずつ、十五年間にわたって受取る形。教育、生活、医療の支援に活用可能な設計です」


彩は、美玖を見た。

目を閉じて眠る赤ん坊の顔が、ほんの少しだけ、自分に似ている気がしていた。


それが、腹立たしかった。


「…この子、笑うと私にそっくりなんだよ。だから怖いの」


「怖い?」


「そう。私みたいな人間になったら、苦労する。ていうか、詰む」


風が吹いた。

彩の腕の中で、美玖が小さく呻いた。


彩は、深く、深く呼吸した。

体の奥に張り付いた苦しさを、ひとつだけ外に出すように。


「…この子、生まれなきゃよかったのかもなって、時々思う」


蘇我は、頷きすらしなかった。


「でも、私がそんなこと思うたびに、なんかバランス取るみたいに、この子笑うの。目ぇ合わせて。マジで、バグかと思うくらい」


「命には、そういう作用があるようです」


「なにそれ、あんたAI?」


「違います。ただ、“生きる意味”を設計しているだけです」


彩は、息を吐いた。

体の芯から冷えているような気がした。


「じゃあ、答えてよ。私が死ねば、この子は助かる?」


「生き延びる設計は、可能です」


即答だった。

ほんのわずかの間もなかった。


彩は、笑った。

それは悲しい笑いでも、やさしい笑いでもなかった。

自分自身に対する、最後の皮肉のような笑みだった。


「…じゃあ、それが一番正しい方法なんだろうね」


蘇我は何も言わなかった。

夜の街の音だけが、静かに響いていた。



―――――――――――――――――――――――



第3章 制度と不平等



「――で、その契約、私でもできるの?」


志水彩が問いかけたその瞬間、蘇我は一瞬だけ沈黙した。

本当に一拍だけ。けれど、それまで機械のように滑らかだった口調が止まったことに、彩の神経は鋭く反応した。


「制度上は、可能です。ただし、いくつかの条件が揃えば、です」


「条件って何」


「本人確認書類、収入証明、居住実態の確認、反社会的勢力との非関係性証明。加えて、勤務先の在籍証明書。最近はeKYCによる本人特定が主流です」


「反社って、私が暴力団関係者に見えるわけ?」


「職業業種がリスク審査において高ランクであるため、精査項目として追加されます」


「…風俗で働いてるってだけで?」


「はい。国内大手の生命保険会社のうち、10社中8社が当該業種を除外規定に指定しています」


「“除外規定”…つまり、最初から相手にされないってことじゃん」


「正確には、審査対象とはなりますが、通過確率は非常に低くなります」


「どのくらい?」


「該当条件においての通過率は、過去データによると6.2%です」


彩は、思わず鼻で笑った。

いや、笑ったというより、呼吸を吐いただけだった。


「6パーか…宝くじのほうがマシじゃん」


「制度は確率に従って設計されています」


「…だからって、生き方まで査定されるわけ?」


「審査は、将来的な支払いリスクに対する合理的な判断です。あなたが風俗勤務で、ひとり親で、住民票が一度も移されていない状況にある以上、信用度は極端に下がります」


「じゃあ、何? 私が“普通”だったら、問題なかったわけ?」


「正規雇用、既婚、世帯収入安定。信託口座の設定に後見人がついていれば、審査通過率は85%以上です」


「へえ、完璧だな制度。あんたもそれ作ってる側か」


「私は設計者です。“通すか通さないか”ではなく、“通るように組めるかどうか”を見ているだけです」


「…じゃあさ」


彩は、美玖を抱えたまま、足元の空き缶を蹴った。

乾いた音がアスファルトに転がって、夜に吸い込まれた。


「私の人生は、制度の外なんだな」


「制度とは、誰かを救うものではなく、誰かを“対象”として選ぶ仕組みです」


「つまり、私は対象じゃない」


「いまのままでは、そうです」


静かだった。

一瞬だけ、世界が音を止めた。その静寂の中で、彩の声が、鋭く跳ねた。


「なあ、蘇我っていうんだっけ? お前、人間か?」


「私は人間です。ですが、制度において“人間性”は考慮されません」


「…じゃあ何? 私のこと、“落ちるデータ”って思ってんだ?」


「あなたは、現時点では“非成立案件”です」


「…バカみてえ」


そう言って、彩は笑った。顔は笑っていなかった。目だけが怒っていた。怒って、怒って、すり減って、それでもまだ怒りが残っていた。


「この国の制度って、さ。金を払えない人間には“生きろ”って言わないんだな」


「制度は“生かす”ものではありません。選ばれた者に“許可”を与えるだけです」


「選ばれなかった奴は、死ねってことかよ」


蘇我は、答えなかった。

答えないことで、答えていた。



―――――――――――――――――――――――



第4章 選択と分割



翌日、区役所。


志水彩は、抱っこ紐で美玖を前に抱えたまま、窓口の前で順番を待っていた。

背中は痛むし、腕も痺れる。

昨夜の睡眠は三時間。メイクで隠したクマも、もう効かなくなってきていた。


番号が呼ばれた。


「申請ですね。

住民票は現在も実家になってますが、こちらの住所に移す予定は…?」


「あ、はい。移します。今日、手続きします」


「では住民異動届と、世帯主変更の申請書も一緒に。

あと、本人確認書類と公共料金の領収証など、居住実態のわかるものを……」


「電気代の領収書でもいいですか?」


「はい、大丈夫です。水道かガスもあれば、より確実です」


「…持ってきてませんけど、後日提出じゃダメですか」


「その場合、仮受理になりますが、正式には補完書類の提出が必要です」


役所の言葉は、いつも正しいけれど冷たい。

手続き用のボールペンが硬くて書きづらいことすら、なんだか自分の人生を象徴している気がした。


そのとき、背後からあの声がした。


「よかった。手続き、進めていただけるようで」


振り向くと、蘇我が立っていた。あの夜と同じ、仕立ての良いスーツ。

だが、昼の光の下では、その姿は余計に異質だった。まるでこの社会に属していない何かのように。


「…あんた、ついてくるタイプ?」


「必要なときに現れるよう、設計されています」


「やっぱあんたAIかよ。自動返信みてーだな」


彩は疲れた顔で笑った。けれどその笑いには、何も乗っていなかった。


「進めれば、保険、通るんでしょ?」


「通る“可能性”が生まれます。まだ“審査にかけられる状態”になっただけです」


「やっぱり言い方がえぐいな」


「制度は、対象を選別する構造です。

あなたはようやく、“入口”に立ったというだけです」


「…ふぅん」


彩は視線を落とした。

美玖の小さな手が、自分の服をぎゅっと握っていた。

それだけで涙が出そうになった。


この命のために保険を使うと決めたはずだったのに。

気がつけば、“制度に選ばれるかどうか”しか見ていなかった自分に、彩は気づいた。


「私の命って、売るのにも下準備がいるんだな」


「“売る”という表現は正確ではありません。“生き延びる設計のために、自己の死亡価値を制度に登録する”というプロセスです」


「うるせぇな…」


蘇我の言葉はいつだって正しい。

でも、それがひたすらに人の感情を踏みつけてくる。


「制度にとって重要なのは、“死後に価値を持つあなた”だけです」


「今の私は、なんの価値もないってこと?」


「価値が“未確定”な段階、ということです」


「やっぱり、“踏み台”じゃん…」


「制度は“踏み台”を必要としません。“支払う価値のある死”だけを求めています」


言葉のナイフが、容赦なく胸に突き刺さった。


彩は、窓口から少し離れたベンチに腰を下ろした。

呼吸を整えて、目を閉じる。

遠くで美玖の寝息が聞こえる。


「…なぁ、蘇我」


「はい」


「私さ、この子の未来を残すために制度を使おうと思ったんだよ」


「承知しています」


「でもさ…その制度、私の“今”にはなんの興味もねぇんだろ?」


「その通りです。“今のあなた”は、制度にとって“通過条件”に過ぎません」


「じゃあ、もういいよ」


蘇我はわずかに顎を動かした。

促すような仕草だった。


「私、そういう女になる」


「理解しました」


「この子のためなら、死ぬことも、制度に組み込まれることも、全部飲み込んでやる」


「それもまた、設計です」


蘇我の声は、いつものように静かだった。

何も拒まず、何も背負わず、ただ“肯定するふりをして分類する”だけの声。


制度は、そういうものだ。それが正しいから、なおさら逃げられない。


彩は、強く、美玖を抱きしめた。

その小さな命が、自分の選んだ“死”の設計図になるのだとしても。



―――――――――――――――――――――――



第5章 死の設計図



風が、強かった。


古びた跨線橋の上。街の外れの工業地帯と住宅街を結ぶ、誰も通らない歩道橋。

昼でも薄暗いその場所に、彩は立っていた。


手すりに片手をかけ、足元のベビーカーの中には美玖。

静かに眠っている。


誰にも見られていない。誰も来ない。

ここなら、事故に見える。


蘇我の言葉が、頭をよぎる。


――信託口座に保険金を。年100万円を15年。

――死亡保険金750万。災害死で倍額。

――あなたが選ばれれば、この子は“受け取る側”になる。


選ばれる。その言葉が、脳に絡みついて離れなかった。

自分の死が、誰かの生きる資格になる。


そんなバカな話が、いまは一番マシに思えた。


彩は、手すりに体重をかけた。冷たい風がスカートの裾をはためかせる。


「ねぇ、美玖…」


小さな声で呼びかける。眠る娘は、何も答えない。


「ママ、もうちょっとだけ頑張ったら…あんたに、明日が来るって、そう思っていいのかな」


ベビーカーにかけたブランケットが、風にめくれた。

彩はそれを整えながら、震える指でスマホを取り出した。


メッセージ画面には、蘇我の名前。

最後のやりとりが光っている。


「“いつでも実行できます。選ぶだけです”」


その文字が、目の奥に突き刺さる。


指が動く。

“やります”とだけ打ちかけて、止まった。


そのときだった。


「――まだ、迷っているのかい?」


静かな声。

振り返ると、いつの間にか、蘇我がいた。

橋の影から出てきたその姿は、まるで“観測者”のようだった。


「来るの、早いんだね」


「君が“設計図を起動させる顔”をしたので」


「…気持ち悪いよ、そういうとこ」


「よく言われます」


彩は、ため息をついた。

ベビーカーに目をやる。


「ほんとに、事故で通るの?」


「足を滑らせた。ベビーカーごと転落。本人のみ死亡。

信託設定済みの保険金は、審査通過後に執行されます」


「警察は?」


「事故扱いで処理されるでしょう。動機も、記録も、残さなければ」


彩は、スマホを握りしめた。

指が震えている。それを見透かしたように、蘇我が言った。


「恐怖は正常です。ですが、あなたはすでに“死んだあと”を設計している」


「…」


「あとは、実行するだけです」


沈黙。

風の音だけが響く。


そして彩は、ポツリと言った。


「なんで、私なんだろうね」


「あなたは、“選ばれなかった側”だからです」


「それって、あんたが決めたの?」


「いいえ。制度が、そう設計されています」


「…クソくらえだな」


そう言って、彩は笑った。

それは、どこか凛とした、切り裂くような笑みだった。


蘇我は、何も言わなかった。

ただ、風の中で目を細めていた。


その瞬間だった。

美玖が、眠ったまま小さく呻いた。

彩は、顔を下ろした。その小さな寝息に、耳を澄ませた。


そして、そっとブランケットを直した。


「…今日は、やめとく」


蘇我は頷いた。


「判断の変更も、また設計の一部です」


「…はは、都合いいな、制度って」


彩はスマホをポケットにしまった。

そして、ベビーカーを押して、ゆっくりと橋を降り始めた。


その背中を見送りながら、蘇我はファイルを開いた。


一枚の書類。そこに記された、

契約予定者:志水彩。

ステータス:保留。


「また別の設計が、必要だな」


声は風に消えた。



―――――――――――――――――――――――



第6章 再設計



夕暮れ。

公園のベンチに、志水彩は座っていた。

腕の中では、美玖が小さな寝息を立てている。

冬の足音が近づき始めた風が、落ち葉を巻き上げていた。


一週間ぶりの、その声がした。


「ご無沙汰しています」


「来ると思った」


彩は笑った。乾いていたけれど、それは確かに笑みだった。


「まだ“保留中”ですよ、私」


「ええ。ですが、それも含めて“再設計”の機会です」


蘇我は、隣に腰を下ろした。


「新たな設計案を提示します。死亡保険ではなく、生存給付金を軸に据えた養育設計です」


「生存…給付?」


「生き延びることで、定期的に支払われる保障です。たとえば3年ごとに100万円。15年で総額500万円。条件は“あなたが生きていること”」


「それって、私…生きなきゃダメじゃん」


「そう設計されています」


一拍の沈黙。

でも、それは“迷い”ではない。ただ、“確認”のような、制度の音だった。


彩は膝の上の美玖を見た。

手を伸ばせば、未来が掴める気がする。

でもその手は、もう一度自分を“生きること”に向かわせる覚悟でもあった。


「ねえ、蘇我」


「はい」


「制度って、やっぱり残酷だよ。死ぬのも地獄。生きるのも審査つき」


「制度は公平です。条件を満たせば、報酬が支払われる」


「…でも、満たすのが、一番難しいんだよ」


そう呟いて、彩は立ち上がった。


「でもまあ、そっちのプラン。とりあえず、聞くだけ聞いてやる」


「ありがとうございます」


「期待すんなよ。死ぬ気はまだゼロじゃない」


「理解しています。ですが、今のあなたは“生き延びる設計”に入っています」


「うるせーな、ほんと」


それでも、笑った。

少しだけ、ほんの少しだけ、空気が軽くなった気がした。


―――――


夜。部屋。


彩は、美玖を風呂に入れ、ミルクをあげて、寝かしつけた。

小さなベッドに体を預けるその姿が、あまりにも無防備で、愛おしかった。


リビングに戻って、電気をつける。

古びたテーブルの上には、保険設計書と、蘇我から渡された養育資金計画表。


「生きるための条件」

そんな言葉が、紙に書かれているような気がした。


彩は、深呼吸をした。

そして、メモ帳を広げる。


家計簿。

支出欄には、ミルク代、おむつ代、電気代。

その隣に、手書きでこう書き加えた。


【今月の、生き延び費用】


手が震えていた。

でも、止めなかった。


この世界は、誰もが“普通に生きる”には厳しすぎる。

でも、だからこそ。

選ぶ。

あえて、生きる方を。


―――――――――――――――――――――――


誰も期待しちゃいない。

誰も助けちゃくれない。

制度はただ、計算して、線を引くだけ。

それでも、私はその“線の内側”に、もう一度戻ってやる。


美玖のためにじゃない。

いや、もちろん美玖のためだけど。でも、それだけじゃない。


たぶん、今の私は――

“生きて何かを残す”ことができるような、そんな女になりたいのだ。


保険を使うのは、死ぬためじゃない。

制度に負けず、制度を利用して、生きて、生きて、生き延びて、

そのうえで“残してやる”ために。


死なない。

私は、もう、死なない。



―――――――――――――――――――――――



第7章 計画と誤差



夜。車内。


フロントガラス越しに見える街の灯りは、薄く滲んでいる。

蘇我は、静かにファイルを閉じた。


志水彩――ステータス:経過観察中。

保留。


「判断未確定。計画修正…一時凍結」


小さく呟いたあと、タブレット端末を操作し、次の案件リストを開く。


見込客候補、32件。

属性、年齢、収入状況、家庭構成。

“割り切れる要素”と“割り切れない要素”が整然と並んでいる。


保険とは、数理だ。

制度は、境界線。

生きるか死ぬか。

払うか支払われるか。


感情の余地は、ないはずだった。


だが、彩の記録を開いた瞬間、微かな“誤差”が残っていた。


「…予測外の延命行動。制度への適応と抵抗の混合。要再分類」


そう呟いて、蘇我は改めて彼女のケースに目を通した。


設計は完璧だった。


初期接触から3日で制度理解。

7日後に自己保険設計を自覚。

13日目に“選ばれる側”として踏み込んだ。


だが、実行には至らなかった。


その理由が、彼にはまだ完全に解明できていなかった。


「ノイズか」


蘇我は呟いた。


人間の意思変容は、ランダム変数。

だがそれも、サンプルが増えれば“制度の進化”に転用できる。


彼は、彩のファイルに新しいタグをつけた。


【変容型:PRA(Post-Resist Adaptation)】

※制度への抵抗後、再適応による回復傾向を示す事例


「サンプル価値、再評価」


彼にとって、それはただの統計処理だった。

けれど、ふとした瞬間に思い出されるのは、橋の上でのあの少女の横顔。


――“今日は、やめとく”


あの一言の“意味”を、まだ彼は定義できていなかった。


「…定義不要。実行未遂=分類対象外」


自らに言い聞かせるように呟いたあと、彼は別のファイルを開く。


次の案件。


男性。24歳。介護離職後、アルバイト生活。

父親は要介護3。母は昨年他界。

死亡保険の加入歴なし。


ファイルには、彼が最後に呟いた言葉が記録されていた。


「もう、俺が死んだ方が、親父は楽になるんじゃないか」


蘇我は、口元をわずかに動かした。


「…次の設計へ」


車のエンジンがかかる。

静かに、確実に、闇の中へと動き出す。


保険とは、制度だ。

制度とは、命を計算するための仕組み。

そして彼は、それを設計する者。


人間ではない。

少なくとも、今はまだ。


―――――――――――――――――――――――


【著者所感】

第3話「札束のゆりかご」――お読みいただきありがとうございます。


今回の話は「人間らしさとは」を問う物語です。

見込客・彩の想い・生き方が選んだ“設計を選ばない”結論も、制度の外にある希望のひとつとして、書かせていただきました。

人間は、どんな時でも生き抜く力を持つ、強い生き物です。

しかし、生き抜く力を行使できなくなったとたん、人間は弱い生き物となります。

いつまた心が折れ、絶望に蝕まれ、蘇我の提案を受ける日が来ないとも限りません。

そんな日が来ないことを願います。


次回、第4話は“千円の差”が生と死を分ける男の物語です。

より冷たく、より突き刺す内容で、あなたに問いを投げかけます。


引き続き、読んでいただけたら嬉しいです。

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