第4章【読書なんて、うんざりだ。】
ジョンの事件があってからというもの、ぼくはそれ以上、小説を書こうという気になれませんでした。そんな状態のまま、1ヶ月が過ぎようとしていました。やっぱり、親友って、大切なものだったんだな、と思いました。
そういえば、工場に何度か、ミクからの電話が入っていました。だけど、ぼくはなんだか、こんな落ち込んだ状態で会っても、ミクをがっかりさせてしまうかもと思い、会う約束を断り続けていたのです。
何度目かの休日の、午前中のこと。このところ毎日やっていたらすっかり趣味のようになってしまっていた『広辞苑』の読書をしていたところ、呼び鈴が鳴りましたので、また隣人が小説の進み具合を聞きに来たのだと思い、ドアの外を見ると、ミクの姿がありました。
住所なんて教えてなかったはずなのにと思いながらも、ドアを開けると、ミクはぼくに抱きついてきました。
「全然会ってくれないから、ミクのこと、嫌いになったんだと思って、心配してたんだからあ!」
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ」
隣人と勝負をすることになり、その小説を書き進めるための勉強をしようと思って色々と試していたところ、ミクと会い、ジョンと出会い、そしてジョンたちが死んでから、ぼくは落ち込んでしまって、小説も手につかなくなってしまったんだということを洗いざらい、話しました。
ミクはぼくの話を聞いた後、しばらく黙っていましたが、
「その小説って、これのことだよね?」
コタツの上に置きっぱなしのまま、ここ1ヶ月以上、手付かずだったノートを手に取りました。
「読んでもいい?」
「いいよ」
ミクは、ぼくの小説を読み始めました。考えてみたら、僕以外の人がこれを読むのは、はじめてのことです。
なんだか恥ずかしくなってきたので、、何も気にしていないふりをして、ぼくはテレビを付けて、興味のない料理番組を見ていました。
「いいじゃん、これ」と、ミクが突然、言いました。読み終えたようです。
「そうかな?」
「文学とかのことはよくわかんないんだけど、ミクはこの小説、すごく気に入ったよ。さっすが、あんた、ミクが見込んだ男だけのことはあるじゃん」
「あんまりほめないでくれよ。恥ずかしいから」
「でも別にお世辞とかじゃないよ~。本気なんだから~。早く続きが読みた~い!」
また頑張ってみようかな、という気になってきました。
「おう! わかったよ。頑張って続きを書くよ」
「本当に~? あんたが小説家とかになったらさ、マジうれしいかも」
「そうなの?」
「うん。だって小説家って、かっこいいじゃん」
「そうか、小説家って、かっこいいんだ?」
「そうだよ。だから頑張ってね。……あ! ちょっと聞いていい?」
「なに?」
「締め切っていつ?」
「締め切り? なにそれ?」
「新人賞に応募するんでしょ? だったら、いつまでに出さなきゃいけないって決まりがあるんじゃないの?」
「そんなものがあるのか?」
ぼくは、隣人からそういったことは何も聞いていなかったので、まずいなと思いました。
「とりあえず、隣のヤツも出してないみたいだから、まだ大丈夫さ。だけど、それは聞いておかないとな。ほかにも知らなきゃいけないことってあるかな?」
「枚数とかは?」
「それにも決まりがあるのか?」
「ミクに聞かれても困るよ。隣の人に聞いたら」
「わかった、そうするよ」
隣人はすぐに出てきました。
「あららあ、こんにちはあ。めずらしいい、もんです、ねええ。あなたのほうからあ、やってきてくれるなんてえ、ほんとお、久々でしょお?」
「そうですね。それでですね、小説のことで、聞きたいことがあるんです」
「そうおですかあ。よかったあ、よかったあ。ここんところお、小説の話をしてもお、全然、聞いてくれなかったでしょお。もう、書く気があ、ないんだとお、思ってましたよお」
「ついさっきまで、そうだったんですけど、もう一度、頑張ってみようと思ったんです」
「ははあ。いま来てるう、女の子にい、ほめられたからあ、でしょう?」
「何でそんなこと、知ってるんですか?」
「そらあ、こんなあ、ボロアパートお、ですからねえ声がア、聞こえてえ、きたんですよお」
「そうですか。……まあ、あなたの言うとおりですよ。それで、小説の枚数と、締め切りの決まりって、あるんでしょうか?」
「あれえ? ゆってなかったですかあ?」
「はい。聞いてません」
「そうおですかあ。あのねえ、枚数はあ、400字詰めでえ、100枚でえ、締め切りはあ、2ヵ月後、ですよお」
「ありがとうございます」
部屋に戻るなり、たったいま聞いた内容を伝えました。
「ふ~ん。どう、できそう?」
「いや、ちょっと無理そうだな」
「なんでよ?」
「だってさ、書き始めてから、もう2ヶ月近く経つのに、数えてみたらまだ、2枚しかできてないんだよ」
「そっか……それじゃ、無理かもね……でもなあ、何とかならないかなあ」
ミクは少しの間、考えるそぶりを見てから、こう続けました。
「仕事、辞めちゃえば?」
「そんなこと言われても、それじゃ生きていけないよ」
「ミクがあんたの生活の面倒をみたげるからさ」
「……そんなことできるのか?」
「うん。ミク、エンコーしてて、お金いっぱい持ってるらからさ」
「そうなんだ?……それはうれしいけど、でも、工場を辞めたら、ここも出て行かないといけなくなる」
「それも心配しなくていいよ。新宿のパパがミクのために借りてくれてる、マンションがあるよ。そこに一緒に住もう?」
「そうか。……ミクって実は、すごいんだな」
「そんなことないよ。ミクくらい可愛ければ、これくらい、普通だよ」
「そうなのか。……わかった、そうするよ」
こうしてぼくは、今までお世話になったのに悪いかなとも思いつつ、親方にそのことを話しにいくことにしました。
「そうか……お前はよく働いてくれるやつだったからな。残念だな」
と親方は言いいました。
「申し訳ありません。ご恩は、決して忘れません」
深々と頭を下げました。
「まあ、そう頭を下げるようなことじゃねえさ。お前が一人前に女なんか作る時がくるなんざあ、オレは夢にも思ってなかったからよ。うれしいことよ。なんたってオレは、お前がここに来てからと言うもの、身寄りのねえお前の、父親代わりみてえなもんだったからな」
『父親』という言葉に、ぐっと来ました。
「だけどよ、女との縁ってのはよ、親子の縁とは違って、いつ終わるか知れねえもんさな。その娘と別れるようなことになったらよ、ここが実家だと思って、いつでも戻って来いよ!」
親方は、そういいながら、力強く、僕の肩に手を乗せました。しめっぽいのを嫌う親方のことを気にしてそれまで我慢していた涙が一気あふれ出してくるのを感じながら、肩の上の親方の手をとりました。親方も、もう片方の手を重ねてきて、固い握手を交わしたのでした。
こうしてぼくは、ミクが援助交際で得た金で養なわれながら、新人賞を目指して、創作活動に励むことになったのです。
「それにしても、どうして、こんなに何でもしてくれるんだ?」とミクに聞いてみましたら、
「あのね、ミクっていままで、いろんな男に人に、何でもしてもらえてたのね。だから今度は、ミクが何でもしてあげる相手が欲しくなって来たの。ミクが好きでやってることなんだから、あんたは何も遠慮しなくていいんだよ。そのかわり、いい小説を書いて、小説家になってくれないとだめだよ」とミクは言いました。
「そうか。じゃあ、ミクのためにも、頑張るよ」
ミクは、お金ならいくらでも出すから、小説を書くために役に立つ本があったら、何冊でも買っていいよ、と言いました。でも実は、ぼくは本なんていままで、一冊も買ったことがなかったのです。本屋さんの小説コーナーに、ぼくのような頭の悪そうな男が立っているのを、頭のいい大卒の先生とかに見られているのかと思うと、本当にいたたまれなくなってしまい、いつも何も買わずにただ店内をうろうろしたまま出てきてしまっていたのです。多分、店員からは万引きでもしようとしてるように思われていたりするんだろうな、なんてことまで思ってしまうのです。さらに、文字の本ばかりが置かれているという図書館に至っては、入ることもできません。
そのことを正直に話してみたところ、ミクは、
「多分それもあんたのいいところなんだよ。あんたはそのままでいてほしいから、ミクが代わりに買ってあげるよ」と言って、どんどん色々な本を買ってきてくれようになったので、助かりました。
おかげで毎日、名作小説と親しみながら、創作への気運を高めていくことができました。わからない言葉は『広辞苑』で調べながら、次々に読破していったところ、読むスピードも速くなってきて、1カ月後には、300ページくらいの本を、1日に10冊は読めるようになっていました。
こうしてぼくは、どうにか100冊以上の小説を読み切り、これでもう大丈夫、準備は万端だ、と考え、小説の続きに取りかかることにしました。
でも何だか、頭がよくなりすぎてしまったようです。色々なことが気になってしようがないのです。
思想ってものが必要らしいとわかってきました。哲学とか社会批評とかそうゆうのです。
ぼくはぼくであって、でもぼくはぼくではない。とかなんとか、工場にやってきて一週間しか経たないうちに、屋上から飛び降りて自殺してしまった同僚が言ってたのを思い出しました。それを真似てみようかと思いました。
ぼくのおちんちんはぼくのおちんちんであって、でもぼくのおちんちんはぼくのおちんちんではないのです。これはミクのものです。そしてジョンのものでもあります。つまり、ぼくのおちんちんは、みんなの共有財産なのです。
ああ、なんだか哲学だけでなく、経済の問題までもが理解できそうな予感がしてきました。
場合によっては、政治や宗教までもがこの考えをつき進めることで理解できるのかもしれません。もっと勉強を積んでから、そういうことも考えてみたい、と思いました。
こんな感じで、ぼくはものを考えることの面白さに、すっかり魅了されていました。
あと他にはたとえば、文学と美の関連性について考えてみたりもしました。
そういえばぼくは音楽のことは詳しくは知らないのですが、すてぃーう"ぃ・わんだの曲が好きなんです。「あじゃすこーゆせいあらーびゅー」とか「いずんすぃーらぼり」とか、単純にすごく美しいと思うのです。ああいう曲が作れればとも思うのですが、あいにく楽器が出来ないので、せめて小説でああいう感動的な美しさを表現できたらいいなと思いました。音楽は楽器が出来ないと作れないものですが、小説は文字さえ書ければ作れるのです。調理せずにまるかじりできるトマトみたいなもの。その分、素材の質が重要なのかもしれません。アレンジでどういうふうにもなる音楽のように、調味料でごまかすわけにいかない気がします。そういう意味では文学の方が難しい気もするのです。でもまだ、音楽と文学の両方ともよく知らないのに、結論は出せないかなと思い、続きはまた今度、考えてみようと思いました。
差別問題についても考えてみました。島崎藤村の小説に出てきたものです。差別されることの苦しみは、少しはわかったかもしれません。でも、差別する側の気持ちは、よく理解できていないのです。そんなことしても別に楽しくもなんともないですよね。だれそれがやれ被差別部落出身者だ、在日朝鮮人だ、在日韓国人だ、右翼だ、左翼だ、学会員だ、だからなんだというのでしょう。ぼくたちはみんな人間だ。それでいいじゃないかと思います。何が違うって言うのでしょう。
考えているうちに、いやになってきましたので、これについて考えるのも、後回しにしようと思いました。
エコロジーについても興味を持ちました。でも考えてみたら、自然を壊してるのって、人間だけですよね。人間がいなくなればいいことです。じゃあ、どうすればいのでしょうか。
これもまだ、ぼくに答えの出せそうな問題ではないようです。
あとは、どうして小説の中で主人公が飲んでいるコーラが、ペプシじゃなくてコカコーラだったりするのだろうなんてことも考えてみました。色彩面を考えてのことなのでしょうか? それともそれ以外のその小道具が何であるかの詳細な描写をすることで何らかのイメージを伝えたいという魂胆があっての事なのでしょうか? いやむしろ、詳細な描写であるということ自体を伝えたいということなのかもしれません。いずれにせよ、その表現に何の意味があるのかが、僕にはいまいちよくわからないのです。その描写を行うことによって、作品の価値が変わってくるとでも言うのでしょうか? もしかすると、作者の好みの傾向を読者に伝えることによって、共感を得やすくするための手段なのかもしれません。それとも、想像したことをできるだけ読者にわかりやすく伝えようというつもりでしょうか? 逆に読者の想像に殆どをゆだねてしまうことも出来るはずですが、それだとせっかく作った物語なのに、自分の考えたとおりに伝わってくれないですからね。
はたまた、執筆行為とは常にオナニーに過ぎないのかとも考えてみました。読者という、間接的な相手は、確かにいます。とはいえそれは、あくまでもお互いに見知らぬ関係でしかでしかないのです。すなわちそれは、アダルトビデオのなかでオナニーを見せるAV女優と、それを見てオナニーしている視聴者の関係と、なんら変わりはしないでしょう。では、作者と読者の関係がセックスたりうるには、どうすればいいのでしょうか。それには、実際に作者と読者が肉体関係を結ぶ以外に方法はないのかもしれません。あれ? 気が付いたらずいぶんと、変なことになってしまっていますね。
それにしても、まだ読んでない本がたくさんありすぎて、どうすればいいのだろうと思いました。
読まなくても部屋に積まれた蔵書から文豪達の魂が僕に乗り移り、新たなる文学を僕の手によって産み出そうとしていたりしないかな、などとオカルトめいたことも考えてはみたものの、そんなのふざけすぎかな、とも思うのです。
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何だか読書のしすぎで、考えすぎるようになってしまい、頭がパンクしそう。このままでは、小説を書くどころではありません。読書なんて、うんざりだと思い、しばらく読書をしないことに決めました。
それからというものぼくは、すっかり気持ちを切り替えて、小説の執筆に打ち込むことになりました。今ならきっとやれる、と思いました。小説にかかりきりの2週間を過ごし、どうにか応募用の小説を書き上げることができたのです!
誰よりもまず先に、外出中のミクにそれを伝えようと思い、携帯電話に連絡を入れました。ところが、実は電話に出たのは、ミクの父親でした。びっくりして、電話を切ってしまいました。
どういうことだろうと考えていたところ、玄関のドアが開きました。ミクが帰ってきたんだと思い、ドアの方に向かいました。ところが、開けられたドアの外には、誰もいないのです。不審に思いながら、ドアの外に出た瞬間、ぼくは何者かに後頭部を殴られ、意識を失いました。
冷たい! と突然感じて辺りを見回すと、そこは警視庁の取調室の中でした。
「やっと目を覚ましやがったか」
年配の刑事が、氷水を入れられた鉄ナベを手にしながら、言いました。
「純朴な女子高生をたぶらかし、援助交際をさせて私腹を肥やしていたのは貴様か!」
刑事は目の前にある机の上を、拳で思い切り叩きつけました。
「どういうことですか!?」と言いながら立ち上がろうとして、ぼくは椅子の後ろの両手首に手錠がかけられていて、動けないことに気が付きました。
ミクとの関係を色々と聞かれた結果、ぼくは売春あっせんの容疑で、逮捕されることになってしまいました。
刑が確定される刑事裁判が終わるまでの間に、留置所に親方と隣人が尋ねてきました。
親方は優しい言葉をかけてくれました。
「災難だったな、でも、両想いだったんだし、相手が高校生だったのは運が悪かっただけさ。でも法律は法律だからな。こうなってしまっても、仕方あんめえ。しばらくおとなくして、早く刑を終えるんだぞ。もう帰るところもないだろうから、オレの工場に戻ってきな」
隣人は、意外なことを教えてくれました。ぼくが警察に連行された後、ぼくの小説執筆用のノートが届けられ、ミクからの手紙が同封してあったとのこと。その手紙を持ってきてくれたんです。
読んでみると、ミクはいま、厳しい両親に家に閉じ込められているため自由に外出ができないようです。ノートはミクがマンションの現場検証に立ち会ったときに、こっそり持ち帰り、携帯電話で親方に電話して、ぼくの住んでいたアパートの住所を聞き、ミクと親かった友人に頼んで、隣人のもとに送ったというのです。やっぱり、ミクはすごいなと思いました。
隣人は、ぼくの小説をノートから原稿用紙に書き直し、新人賞に応募してくれると言ってくれました。色々な人に支えられていて、ぼくはしあわせ者だ、と思いました。
そして数日後の刑事裁判で、ぼくに1年間の懲役刑が下ることが、決まったのです。
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