第20話【終焉】

 (――ようやく……終わるのか)


 終焉を迎えた会場の空気は、もはや“戦場”そのものだった。

 この狂宴の最後の演目に向け、男たちの目からは完全に光が失われていた。……いや、希望が死に、理性が焼かれ、魂が“現実”から逃げ出したとでも言うべきか。


 だが、その中で――


 「ディートリード公爵様……まるで、呼吸をするかのようにこなしておられる」


 「やはり……あの悪女、エディティ・ミラースの夫となる男は格が違う」


 「毎晩……これ以上の地獄を味わっているんだろうな……」


 周囲の視線は、全て俺に向けられていた。


 (……なんだ、この誤解は)


 だが訂正はできない。否、訂正してはいけない気すらする。


 確かに、エディティは“泥酔女”などと呼ばれ、多くの社交界で出禁を喰らった“伝説”の持ち主だ。

 そして俺との結婚式は誰が見ても恋愛結婚。あの誓いのキスの熱烈さは、見ていた貴族が何人か気絶したほどだという。


 ……そう、“誤解”ではあるが、“信仰”にも似た敬意が、俺を支えていた。


 (……そうだ。俺は、エディティの夫。ここで取り乱せば、彼女の名誉が……いや、俺の生きる道そのものが――)


 そんなときだった。


 「それでは最後の儀式、“邪悪エネルギー”の注入に移ります。皆様、頭の後ろに手を組み、腰を落としてください」


 静かに告げられる司会者の声。


 (……邪悪エネルギー?)


 その言葉に、俺の全身が反射的に硬直する。

 これはただの遊戯ではない。国家でも使用制限がかかる、王室管轄の危険物――


 (まさか……本当に使うとは)


 俺は目の前に運ばれてくる小瓶を見た。それは、過去に何度か見たことがある“あの物質”――


 黒い稲妻のようにゆらめき、気泡のひとつひとつが意志を持つかのように蠢く液体。


 (これは……本物だ……!)


 「危険ですので、動かないようお願いいたします」


 使用人の指示に従い、俺は息を飲みながら、頭の後ろで手を組み、腰を落とす。


 (注入……まさか、口からか?あるいは腕に……?)


 が。


 ――違った。


 俺の背後で、カチリ、と冷たい器具の音がした。

 次の瞬間。


 「ひ、ひぃぃぃ……!」


 「ぐわああああああああああッッ!!」


 男たちの絶叫が、会場中にこだました。


 (ま、まさか……そんな場所から――!?)


 俺の中に冷たいものが、ズン、と押し込まれ、身体の奥にどろりとした熱が流れ込む感覚。


 (ぐ、うあああああああああッッ!!)


 脳裏に走馬灯が走る。


 戦場で馬ごと吹き飛ばされた時も、拷問で爪を剥がされた時も、こんな“精神的屈辱”はなかった。


 だが、俺は叫ばなかった。


 絶叫する男たちの中で、唯一、俺は唇を噛み、全てを飲み込み、耐えた。


 (エディティ……君のためだ。君の誇りのためだ……)


 だが、耐えるにも限界というものがある。

 注入された邪悪エネルギーは、体内の魔力と交わり、全神経を蹂躙してくる。

 加えて、これまでに何度も飲まされた媚薬の効果が頂点に達していた。


 (……黒い……)


 意識が、濁る。


 目の前の世界が、まるで墨を垂らしたように黒く染まっていく。


 (あぁ……もう……誰でもいい……)


 誰でもいいから――抱きたい。


 気高く、誇り高く生きてきたこの俺が、いまこの瞬間、理性という楔を自ら手放そうとしている。


 だがその時だった。


 ふわり、と。


 鼻をかすめた、“あの香り”。


 ……甘く、すこしスパイシーで、どこか懐かしく、温かい。


 (エディティ……?)


 俺の脳が錯覚を起こした。


 目の前に現れた令嬢の髪から、その香りがふわりと香る。


 (違う……わかってる。君じゃない……でも、香りが……君なんだ)


 そして、朦朧とした意識のまま、俺はその“香り”の持ち主に――手を伸ばしていた。


 俺は……誰かを抱いた。


 時間の感覚すら曖昧なまま、本能の赴くままに、ただ、その体温に溺れた。


 (許してくれ……エディティ……香りが、君だったんだ……)


 やがて、司会の声が響いた。


 「では、カップルは前へ!」


 俺は隣にいた、あの香水をつけた令嬢と手を繋ぎ、朦朧としながら前へ出た。


 カップルたちが次々と並ぶ中、会場前方の魔法使いが口を開く。


 「それでは、女性の方は此方の魔法使いによる妊娠検査を受けていただきます。通常の方法では受胎の兆候が現れるまでに数週間を要しますが、王室術式によるこの検査では、精子と卵子の魔力反応の痕跡から即時に判定が可能です。確実な結果が出ますのでご安心ください。男性の方は、体内に残留している【邪悪エネルギー】を回収いたしますので、そのまま動かずお待ちください。」


 「アヴェル様ぁ……♡絶対……妊娠してみせますからぁ……♡」


 「……あぁ、楽しみにしてるよ……」


 俺は、彼女の髪にキスを落とした。


 しばらくして魔法が淡い光を放ち、俺の体から邪悪エネルギーを吸い上げていく。

 次の瞬間。


 ――俺は青ざめた。


 (ま、まさか……ッ!?)


 自分が、他の令嬢を抱いたという事実が、今さらながら現実味を帯びて突き刺さってくる。


 (俺が……俺が、エディティ以外を……ッ!?)


 膝が崩れそうになる。


 だが、ここで崩れるわけにはいかない。


 (……まだだ……! まだ“演目”の最中だ……!)


 ――エディティとの約束を、思い出せ。


 どんなことがあっても、会場を出るまでは“貫き通せ”と。

 俺は耐えた。踏みとどまった。


 すると。


 「カップル成立です!」


 「カップル不成立です!」


 司会の声が次々と響く中、俺が手を繋いでいた令嬢は――


 「カップル不成立です!」


 「…………っ!!」


 令嬢は泣き崩れ、地に座り込む。


 (……助かった……)


 エディティがくれた、特製の避妊薬――

 それがなければ、俺は今ごろ“第二夫人”を迎えねばならない地獄に堕ちていた。


 (エディティ……君の香りが、俺を救った)


 そして俺は、深く静かに息を吐いた。


 ――終わったのだ。この、狂った宴が。

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