第19話【妄想の鎧】
――もう、何杯目の水だ?
数え切れない。冷たい水、ぬるい水、甘い水、薬のような苦い水。
男たちは次々と運ばれてくる水を、無言で一心不乱に飲み続けていた。
「は、はい……どうぞ、これが最後の一杯ですわ♡」
にこにこと笑う使用人が差し出してきたのは、明らかに“それ”と分かる薬水だった。
他の男たちが顔を引きつらせながらも、従うように口に運ぶ。
(……これだな。エディティが言っていた“第一の関門”)
アヴェルも静かに杯を取ると、一息に飲み干した。
直後――胃の底から突き上げるような感覚が襲ってきた。
数秒後には、確かな“尿意”が下腹部に集中する。
(やはり、きたか……!)
目を横にやれば、すでに膝を抱えてうずくまる者、顔面蒼白になって震える者、
トイレに駆け込みたいが行けずにジタバタしている男たちがいた。
「お忘れですか? 本演目では“淑女に許可を得なければ、トイレは使えません”♡」
と、司会の女が、口に扇子を当ててくすくすと笑った。
――そして、会場にズラリと並ぶ淑女たち。
全員がうっとりとした目で“お願いを待っている”。
(まるで求愛されるのを待つ女神か……)
それにしても、何がどうして、尿意の許可を女性に求めなければならないのだ。
いったいどこの異文化圏なのか。
だが、アヴェルには予習済みの知識があった。
そう――エディティが“夜な夜な貸してくれたあの本”である。
(あの本がなければ、俺の名誉は今ごろ地に堕ちていた……!)
さあ――この演目、演じてやろう。
アヴェルはゆっくりと歩を進め、舞踏会場の奥に座るひとりの令嬢の前に立った。
あきらかに目を輝かせている彼女に、優雅に片膝をつく。
「……お嬢様」
「は、はいっ♡」
「どうか、貴女の慈悲により、私にこの身の“苦しみ”からの解放を、お許し願えますか?」
そう、低く、甘く――まるでラブレターをささやくような口調で。
周囲がざわめいた。
「こ、これが誘いの型……」「台詞が完璧……!」「あの男……経験者か……?」
(違う……違うぞ。俺はただ、エディティの本を読み込んだだけだ……!)
令嬢は胸を押さえながら、うっとりと頷いた。
「えぇ……♡公爵様なら……ぜひとも……お許しいたしますわ……♡」
会場に魔法の光が走る――許可の証。
アヴェルは一礼してから、優雅にその場を離れた。
(危なかった……! いや、これは戦だ。知略と礼節で挑む、恐怖の舞台……!)
トイレの扉を閉めた瞬間、アヴェルは全身から力が抜けた。
(エディティ……君が貸してくれた“官能兵法書”のおかげで、俺は守られた……)
個室に響く微かな水音。
アヴェルは天を仰ぎ、そして心の中で、そっと呟いた。
(ありがとう……そして、次はどんな地獄が待っている……?)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
……ここは、地獄か?
いま俺は、大理石の床と高級香木の湯気が立ちこめる浴場――そう、男たちが通された「休憩」のはずの空間で、またしても試練に晒されていた。
「これは、媚薬湯でございます♡ごゆっくりどうぞ♡」
使用人が無邪気に言い放った瞬間、男たちの表情が凍りついた。
(……ふざけるな。どこが“休憩”だ)
さきほどまでの演目では、食事を強制的に摂らされ、その直後、下剤入りの飲み物が配られた。
またしても“淑女の許可”がなければトイレが使えないという地獄のシステム。何人かの貴族はそこで名誉を失い、地に伏していた。
(エディティ……君の教本がなければ、俺も危なかった……)
そう思いながらも、俺は湯の縁に足を入れる。
ピリリと熱い。いや、熱いのではない。皮膚が妙に敏感になる。
全身を包み込む香りは、どこかエディティの愛用香水に似ていて――
(……いや、違う。これは錯覚だ。俺が勝手に君を思い出しているだけだ)
だが、思わず目を閉じた瞬間、脳裏に浮かぶのはエディティの唇、肌、甘い声――
「…………っ!」
バッと湯から顔を上げる。
(ダメだ。ここで思考を持っていかれたら、全てが終わる)
ちら、と視線をやれば、浴場のあちこちで貴族たちが呻きながら身体を抑えている。
中には、かつて戦場で共に背を預け合った将軍すらも。
(……よりによって、こんな形で再会するとはな)
空気が妙に湿っぽい。いや、別の意味でだ。
(……いいや、俺には“言い訳”がある。これも、毎日エディティと行っている習慣だと思えば……!)
そう。俺は“日常”を演じなければならない。
媚薬湯も、淫らな香りも、羞恥も――“慣れたこと”として、貴族の誇りを保たねば。
そして、演目の第二部――“ダンス”が始まった。
広間に戻ると、男たちは一人ずつ、淑女に手を引かれ、官能的な音楽の中で舞う。
媚薬の効果か、何人かの男は目をとろけさせ、ふらつきながら令嬢に寄りかかっていた。
中には、抑えきれずそのまま令嬢を押し倒す者まで出てきて、司会者が嬉しそうに拍手している。
だが俺は、違った。
目の前の令嬢が、俺の手を取り、囁く。
「まあ……。薬の効果が薄いのかしら?」
俺は冷静に、そして静かに微笑んだ。
「まさか……。ただ、私は毎晩、妻に鍛えられておりますので。耐性があるだけです」
令嬢がぴくりと反応した。
「え……まいにち?」
「ええ。これは、我が家の習慣ですので。毎日、妻が香水を振り、媚香を焚き、夜通し踊り続ける――それがディートリード家の夜の伝統です」
(全部嘘だ。妄想だ。だが、エディティの“教本”にはそう書いてあった。妄想と現実を混ぜて、心を保てと!)
すると令嬢は、妙に納得したように手を離した。
「……奥様が羨ましいわ。とても貴族らしく、優雅で……たくましい旦那様で」
「恐縮です」
そうして俺は、優雅に一礼してその場を離れた。
背後で令嬢が小さく呟く。
「――あの方、本物かもしれないわね……」
俺は心の中で、胸を張って呟いた。
(エディティ……君が俺を“戦場”で生き残らせた。あの教本は、軍の兵法書にも匹敵する……)
この戦い、まだ先は長い――。
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