第21話【世間では鬼嫁となった。】
ガチャリ、と馬車の扉が開いた瞬間、エディティは立ち上がりかけた。
「アヴェル! 無事!?」
だが、彼女の前に現れたアヴェルは――まるで、感情を完全に凍らせたような瞳をしていた。
冷淡な表情のまま、彼は馬車に乗り込み、エディティの“正面”ではなく“隣”に静かに腰を下ろす。そして無言で、扉を閉める。
「……アヴェル?」
問いかけると、アヴェルはしばらく目を閉じ、ほんのひと呼吸のあと――
「……もう、いいか?」
低く、押し殺した声でそう尋ねた。
「え?」
「演技を終えても……いいだろうか」
「ええ。もう終わってるわ。よく頑張ったわね、アヴェル」
――次の瞬間だった。
アヴェルが、彼女を抱きしめた。
静かに、けれど力強く。体を震わせながら。
「ふっ……う、ぅ……っ……うぇ……っ」
まるで、子どものように。
「ア、アヴェル!? ちょっ、どうしたのよ急に……!?」
「……やりきった……頑張った……。俺……ちゃんと……やった……!」
その声は途切れ途切れで、嗚咽まじりだった。
服の端を握りしめる手が、どこまでも必死で、どこまでも、哀しかった。
(……ああ……これは、駄目なやつだ)
エディティはそっと手をのばし、アヴェルの黒髪を優しく撫でた。
「……よく頑張ったわ……辛かったわよね」
「うっ……ううっ……でも……君のおかげで……俺は……俺は……まだ、マシだった……」
「……まだ、マシ?」
あまりに含みのある言葉に、エディティは眉をひそめる。
「……ねぇ、アヴェル。演目の内容……聞いてもいい?」
アヴェルは少し顔をあげた。涙の跡が頬に残っていた。
だが、その瞳は、確かに生きていた。
「……あぁ。話すよ。俺がどんな地獄をくぐってきたか……君に、すべて……聞いてほしいんだ……」
エディティはゆっくりと彼の手を取り、膝の上に置いた。
「ええ。全部、聞かせて」
「……まず最初に、排泄管理があったんだ」
そう呟いた瞬間、アヴェルの体が微かに震えた。
エディティの膝の上で指を組みながら、彼は搾り出すように言葉を紡いでいく。
「何杯も水を飲まされて……最後に“薬水”を飲んだ。全員が……令嬢に“許可”をもらわないとトイレにも行けなかったんだ」
「…………」
「媚薬風呂にも、つけられた。男たちが……次々と苦しみながら沈んでいくのを、俺は見た」
アヴェルの声がかすれ、苦しげに笑みが漏れる。
「……それでも、俺は君との日常だと妄想して、耐えたんだ……エディティ。毎晩、君といると思えば、どんな羞恥も乗り越えられるって」
そう言いながら、彼の目からぽたりと涙が落ちた。
「でも……でも……最後の演目が……っ」
エディティは無言で、彼の手を包み込む。
「“邪悪エネルギー”を、尻から……ッ! しかも、本物だったんだ……魔力が暴れて、頭がおかしくなるくらいだった。理性が消えた。心が黒く染まって……俺は……!」
アヴェルは鼻をすする。男としての尊厳など、とうに捨てていた。
「俺は……俺は知らない令嬢を……抱いてしまった……っ! でも……でも、香りが……エディティの香りがしたんだ……!」
「………………」
「わかってる……わかってるんだ……君じゃないって……でも、香りだけは……君だった……!」
「うん、うん……」
エディティは、ただ静かに頷きながら、アヴェルの頭を抱き寄せた。
「だから……だから……っ!」
アヴェルは嗚咽混じりに、まるで迷子の子供のように叫んだ。
「俺に……失望しないでくれ……尊厳も、誇りも……何もかも踏みにじられた……っ、俺は……恥辱の果てに……!」
その背中を、エディティは優しく、何度も撫でた。
「えぇ、そうね。そうよね。……辛かったわよね。よく、話してくれたわ」
彼女は、優しく、穏やかな声で続けた。
「でも、大丈夫よ。私はアヴェルを嫌いになったりなんてしない」
「…………」
「アヴェルが言ってくれたでしょう? 私はアヴェルの“心”だって。だったら、私はその心をちゃんと抱きしめてあげたいの。だから……」
エディティはアヴェルの頬に、そっと手を添えて言った。
「アヴェルは大丈夫。私の側にいていいのよ。汚れてなんて、いないわ。ずっと、私がアヴェルを支えるから。どんなことがあっても、私はあなたを守るわ」
「エディティ……っ!!」
アヴェルは堪えきれなくなり、エディティにしがみついた。
大きな体を折り畳むように、まるで幼子のように――
「うっ……うわぁぁぁあああんっ……!」
声をあげて、泣いた。
――誇り高き“氷の貴公子”と呼ばれた男が、みっともなく泣きじゃくっている。
そんな姿を見ながら、エディティは穏やかな微笑みを浮かべた。
(……これは当分、また離れないわね)
溜め息まじりに、そう心の中で呟きながらも、彼女は彼を抱きしめ続けた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
公爵家に帰りついた馬車が止まると同時に、エディティは的確に命じた。
「――人払いして。今すぐ。あと、浴室の湯を張っておいて」
誰も口を挟む隙なく、夫人としての完璧な指示を出す彼女に、執事リダすら頷くことしかできなかった。
そして数分後。
薄明かりの灯る浴室にて、エディティはアヴェルの背にそっと手を添え、優しくスポンジを滑らせていた。
「……もう、いいのよ。全部流しちゃいましょ」
泡とともに、アヴェルの肌から痛みと屈辱の記憶が流れ落ちていくようだった。
やがて、ふかふかのバスローブを身にまとい、二人は寝室へと戻る。
ベッドの片側をそっとめくって、エディティは微笑んだ。
「アヴェル、今日はゆっくり休んで。私が隣にいるわ。手、繋いであげる」
「……あぁ」
アヴェルはベッドに腰を下ろし、優しく差し出された手を握り返した。その手の温もりに、ようやく彼の瞳から涙が引いた。
しかし、次の瞬間。
「……俺はこれから、どうやって事業を続ければいいんだ」
と、ぽつり。
「共同開発していた連中も、きっと“あの姿”を見たはずだ。俺の、地に堕ちた姿を……っ」
「大丈夫よ、アヴェル。私が、表に出るわ」
「でも……君にばかり負担をかけてしまう……」
エディティはふんわりと笑って、アヴェルの肩に額を寄せる。
「じゃあ、二人でしましょう? 一緒に。私が隣にいれば安心でしょ?」
「……あぁ」
アヴェルの手に、少しだけ力がこもった。
「そうだ、今日……令嬢達にも言われたんだ。“慣れてるんですね?”って」
「えっ……?」
エディティのまつ毛が一瞬、ぴくりと跳ねた。
「だから俺は、『毎晩、妻にさせられてる』って答えたんだ。そう思えば、耐えられた。……実際、君の前ではもっと酷いことされてるって妄想したら、堂々としていられたんだ」
「…………………そ、そう……他には?」
(何を言ってくれてんのよ、ちょっとアヴェル~~~~!!)
「酷い衣装だった。もはや、下着とも言えない代物で……知人に『着慣れてるのか?』と訊かれた」
「………………う、うん」
(やめてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!)
「だから俺は、『妻に命じられて、これより酷いものを毎晩着ている』と返したんだ。そう思えば、なんだか不思議と耐えられたんだ。……誇りを保てた」
「………………そう、アヴェルの心を……守れて良かったわ……」
エディティは表情だけは微笑を保ったが、内心では爆発していた。
(何そのドM発言!? 私、何もそこまで言ってないでしょう!? 誤解が世界を駆け巡ってるじゃないの!! 私、どんな鬼嫁よ!?)
――けれど、それでも。
彼が心を守り抜いたという事実に、ほんの少しだけ胸をなで下ろす。
「さぁ、もう……休みましょう?」
そう優しく囁くと、アヴェルは安堵したように目を閉じた。
「……あぁ」
彼の大きな手が、エディティの指に絡む。
ようやく訪れた平穏の夜。
その温もりだけは、本物だった。
『氷の貴公子は今日も下心から逃げられない』 無月公主 @mutukikousyu
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