第18話【撒かれる種】
一か月の月日が流れ――そして、ついにその日がやってきた。
“狂宴”。
それは王室主催による、貴族社会最大の闇。異常な婚活と謳われ、狂気と欲望が渦巻く、一夜限りの饗宴。その門が、今まさに開かれようとしている。
豪奢な馬車の中。アヴェルとエディティは向かい合わせに座っていた。赤と黒で飾られた遠くの城門が、じわじわと迫ってくる。
「……じゃあ、私はここで待ってるわ」
淡く揺れる金の瞳。エディティはふとアヴェルの胸元を掴み、小さく眉を寄せた。
「でも――泣いたり蹲ったりは絶対に禁止よ。何をされても、“これか? 妻の前でもいつもやっているが?”って顔で、涼しい顔で受け流すの。いいわね?」
「……あぁ、わかった」
アヴェルの顔から、ほんの少しの迷いが消える。青い瞳は凛と澄み、まるで戦場に赴く将軍のようだった。その真剣な表情を見て、エディティもそっと頷いた。
「……それと、これを飲んで」
そう言って、鞄から小瓶を取り出す。それは淡い銀色の液体が入った、小さな薬瓶だった。
「私の特製避妊薬よ。男側が飲むタイプ。三日間、“あなたの種”を無力化するから安心して。ただし、それ以降は切れるから気をつけてね」
「……男側が飲むのか?」
「えぇ。副作用ゼロ、安全安心。国家認可済み」
エディティは瓶の蓋を外し、そっとアヴェルの唇に触れるように近づけた。アヴェルが少し戸惑いながらも口を開けると、彼女は丁寧に薬を流し込み、喉元に指を添えて「ごくん」と飲み下したのを確認する。
「ん……エディティ……そこまで確認してくれるなんて……」
わずかに頬を染め、視線を逸らすアヴェル。
(しまった……いつもの人体実験の癖が出たわ)
エディティは内心で頭を抱えながらも、表面上は穏やかな笑みを浮かべた。そしてそっと、彼の手を取る。
「……不安なのよ。あなたのこと、愛してるから」
その一言に、アヴェルの瞳が大きく揺れた。
「エディティ……」
「さ、時間よ」
窓の外には、狂宴の会場が姿を現していた。重々しい赤黒の城門。その異様な装飾は、不気味な予感を誰しもの胸に刻み込む。
「……行ってくる」
アヴェルはゆっくりと立ち上がり、馬車の扉へ向かう。その背に、エディティが言葉を投げかけた。
「アヴェル――“心を切り離して”」
振り返る彼の瞳は、どこか幼く、脆い光を湛えていた。
「いい? これは私と日常的にしている行為。そう信じ込んで。あなたの心は……私だけのものよ」
その言葉に、アヴェルの目が静かに力を取り戻す。
「……わかった」
扉が静かに開き、アヴェルの背中が赤黒い門へと消えていく。エディティは深く息をつき、座席に背を預けた。
ここ――グランネファリア王国は、“無敗の国”と呼ばれている。
戦えば勝ち、守れば落ちず。常勝の歴史を築き上げたこの国の強さの理由は、ただ一つ。
――兵の数が、桁違いなのだ。
では、その膨大な兵はどこから来るのか? どう育てられているのか?
答えは、修道院と教会。信仰と教育の場であるはずのそこは、実際には“兵の培養施設”となっている。
そして、その修道院へ送られるのは――25歳を超え、結婚に間に合わなかった貴族令嬢たち。
彼女たちは“神の使徒”と称される男と交わり、子を産み続けるのだ。教義に歪みを与え、政策として正当化された異常な制度。誰も公には言わないが、全てが“わかっている”のだ。
だからこそ、“狂宴”は最後の砦。
誰もが――地獄を回避するために、ここに集まる。
その時だった。
「奥様、例の令嬢が……あそこに」
忠義の執事リダが、静かに声を落とす。エディティは頷き、そっと馬車の扉を押し開けた。深くフードを被り、黒いマントの下に潜むのは、抜け目ない狩人の目。
通りを歩く一人の令嬢。若く、美しいが、どこか必死さを帯びた足取り。
(……まだ十六、いや十七といったところかしら。香りが甘いわ。危ない香り)
エディティは静かに彼女へと歩み寄り、柔らかい声をかけた。
「失礼。もしよろしければ、この香水をお試しになりませんか?」
令嬢は驚いたように立ち止まり、振り返る。
「わたくし、調香師をしておりまして……こちらは試供品でございますの。お肌に合わなければ、お捨ていただいて結構ですわ」
小瓶を差し出す。中には淡い桃色の香水。
「え……えぇ……」
彼女は少し戸惑いながらも、瓶を受け取り、手首に吹きかける。
「……まぁ……なんて素敵な香り……」
頬を赤らめて、微笑んだ。
「ありがとうございます。これ、すごく好きかもしれません」
そう言って、香りをまとった彼女は、何も知らずに門をくぐっていく。
その背を見送りながら、エディティは――ほのかに唇を吊り上げ、微笑んだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一歩、足を踏み入れた瞬間だった。
空気が――変わった。
ここが、“狂宴”の会場。
正面には、煌びやかな装飾が施された受付台があり、その中央には魔道陣の浮かぶ台帳が置かれている。名を記すと同時に、アヴェルの指先に熱が走った。
(……エディティの言っていた通りか)
契約文は簡潔でありながら、重い意味を持っていた。
《参加は一日限り。途中退出可。ただし、退出しない限り強制参加》
すなわち、最後まで居続ければ――どんな結末であれ逃れられないということだ。
だが、アヴェルの表情に迷いはなかった。眉一つ動かさず、無言で署名を終える。
すると、黒服の使用人が現れ、無言で一礼を返す。
「こちらへどうぞ。着替えをお願いいたします」
通された先は、男性用の更衣室だった。
すでに十数人の男たちが、次々と服を脱ぎ、指定された衣装へと着替えている。どれも貴族らしき者ばかり。だが、その目は伏せられ、口は重く閉ざされていた。
そして、アヴェルの前に差し出された“衣装”を見た瞬間――彼は、ほんの僅かに息を止めた。
(……これは……服、なのか……?)
それはもはや、衣装というより“演出用の飾り”に近い。透ける素材。過剰なまでに体の線を強調するカット。腰には金属の装飾が揺れており、どこをどう見ても“まともな服”とは言いがたい代物だった。
(ッ……)
思わず、拳がわずかに震える。
だが、そのとき――脳裏に、馬車の中で聞いた“彼女”の声が甦る。
『何をされても、“これか?妻の前でいつもやっているが?”っていう顔で貫いてくださいね』
(そうだ……これは……いつもの“日常”……)
アヴェルの脳内で、何かのスイッチが入った。
――日頃から、妻の趣味でこのような衣装を着せられていて――
――恥ずかしいポーズも、“普通のこと”として日々の生活に組み込まれていて――
――それを、当然のように受け入れ――
(いや、違う。違うのだが……)
今だけは、違うとは言っていられない。
(俺は……普段から、妻の前でこれ以上に過激な服を着ている男……!)
そう言い聞かせながら、アヴェルは静かに、衣装へと手を伸ばした。
更衣室の空気は、重い。
現実から目を背け、瞑想にふける男。諦めを通り越し、無の境地に達した僧のような者。中には筋肉隆々の身体を誇示するような猛者もいたが、瞳の奥には共通して、わずかな諦めが見え隠れする。
(……皆、それぞれの覚悟でここにいる)
だが、アヴェルは違った。
――彼には、帰るべき場所がある。
――彼には、信じるべき妻がいる。
――彼には、妄想するに値する“現実”がある。
(俺は、屈しない……これは、妻の命令で着る服だ……!)
もはや羞恥も迷いもない。彼は、尊厳すらも妄想で包み隠し――衣服を脱いだ。
静かに、更衣室の灯りが彼の体を照らす。
引き締まった肉体。幾多の戦場をくぐり抜けた者の筋肉が、光の下で浮かび上がる。
「……っ」
何人かの男たちが、無意識に息を呑んだ。
(……何だ、あの男。筋肉が、兵士のそれだ……)
(あんな服を着ながら、落ち着き払ってやがる……まさか、狂宴に“慣れて”いるのか?)
そんな視線を一身に浴びながら、アヴェルは無言で着替えを終えた。
布の切れ間からのぞく、鍛え上げられた肌。その姿は、戦士でありながらも、まるで儀式に身を投じる神官のようでもあった。
それでも、彼の表情には怯えも羞恥もない。ただ、まっすぐに“彼女の言葉”を胸に刻んでいた。
(エディティ……俺は、君の言葉を信じている)
(この一夜、俺は理性を保ち、必ず……生きて帰る)
やがて、重々しい音を立てて、会場の扉が開かれた。
アヴェルはひとつ息を吐き――ゆっくりと足を踏み出す。
その心には、たった一つの呪文が繰り返されていた。
(これは……妻との“日常”だ)
妄想という名の鎧を纏い、
氷の貴公子は――狂宴の渦中へと、静かに歩み出したのだった。
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