第16話【思ってたのと違う帰還】

 ――春。柔らかな日差しが門を照らし、風が白い花弁をそっと舞わせるその日。

 一年ぶりに戻ってきたディートリード公爵家の屋敷の前で、アヴェル・ディートリードは重い足を踏み入れた。


 その腕には、まだ小さな赤子。黒髪に青い瞳。……否応なく、自分の血を引いていると理解できる顔だった。


 (……エディティに……なんと言えばいい……)


 いかなる言葉をもってしても、釣り合うはずがない。彼女の目をまっすぐに見られる自信はなかった。それでも、この子に罪はない。それだけは確信できた。


 ぎぃ……。


 玄関の扉が、ゆっくりと開かれた。中に立っていたのは、淡く金に光る髪と、金色の瞳を持つ女性。

 エディティ。――彼の妻。


 「……エディティ……これは、その……」


 アヴェルは、口の中で言葉を探しながら、そっと視線を落とした。何も言えず、ただただ立ち尽くす。


 しかし次の瞬間。


 ふわりとした温もりが、全身を包み込んだ。


 エディティが、赤子ごと、彼を抱きしめたのだ。まるで、その重さすら全部、受け入れるように。


 「……良いの。アヴェルが……無事でいてくれたなら、それで」


 その一言が、静かに胸にしみていく。


 「……エディティ……っ……」


 喉が震えた。堪えていた涙が、ぽろり、と零れ落ちる。抱き返す腕に、言葉にならない想いがこもった。頬が触れ合うほど近くで、彼女の鼓動が感じられる。


 だが――


(……って、アヴェルも泣いてる!? え? もしかして服にタマネギの匂いでもついてた? いや、これは……感動の涙ね)


 エディティは平静を装いながらも、内心でじんわりと冷静な観察をしていた。


(……まあ、よく帰ってきたわよね。男児まで連れて。ってことは……私が産まなくても跡継ぎ確保完了ってことじゃない? なんてラッキーな展開……!)


 内心ではガッツポーズを決めながら、彼女はそっと赤子を抱き取り、柔らかく微笑んだ。


 「さ、アヴェル。あなたまだ本調子じゃないでしょう? まずは休んで。乳母を用意してあるわ」


 「……そんな……君を裏切ったというのに……」


 かすれた声に、彼女は首を横に振った。


 「裏切り? 違うわ。それは違うの」


 柔らかな仕草で、彼女は赤子を胸元に引き寄せる。


 「仕方のない状況だった。それを救い出せなかったのは、私の落ち度よ。でも……この子には、何の罪もない。そうでしょう?」


 アヴェルの視線が、静かに赤子に落ちた。まるで、彼のなかに残る懺悔を、すべて見透かしているかのようなまなざしだった。


 「……名前は?」


 「ロビエ嬢が、“アビオン”と呼んでいたらしいわ」


 「アビオン……」


 その名を呟きながら、彼はそっと息を吐いた。


 エディティは、ゆっくりとその額に口づける。


 「この子は、あなたの血を引いている。なら、私にとっても、あなた同然よ。私は――この子を、愛情を持って育てるわ」


 「エディティ……!」


 ついに、アヴェルは、彼女を力強く抱きしめた。瞳は熱く潤み、声は震えていた。


 「……愛してる!! 愛してる!! エディティ!!」


 「………………」


 ――エディティの頭の中には、雷鳴が走っていた。


(えっ!? ちょっ、ちょっと待って!? なんで今“愛”が育ったの!? なに!? 何がどうしてそうなったの!?)


 完全に動揺していたが、赤子がその空気を察したのか――


 「ふぇええええええ!!」


 泣き声が響き渡った。


 「……っ、アヴェル。話は後にしましょ。この子をまず乳母に預けてくるわ。あなたは、寝室で――」


 「いやだ」


 「……は?」


 「離れたくない。ついていく」


 「……………………」


(え、えええぇぇぇ!? この人、いつからこんなに愛情重めの大型犬系だったの!? クールキャラだったでしょ!? 氷の貴公子どこ行ったの!?)


 エディティの顔が引きつった。


 「……わ、わかったわ。じゃあ一緒に乳母に預けにいきましょう」

 引きつった笑顔をどうにか貼りつけて、エディティは歩き出した。


 隣には、無言でついてくるアヴェル。腕の中に抱いた赤子――アビオンの黒髪が、廊下の窓から差し込む陽光を受けて淡く輝いていた。

 小さな寝息と、手のぬくもり。生命の確かさが、じんわりと胸に染みてくる。


 「アヴェル、身体……どこも異常はなかったの?」

 「……あぁ。君のおかげで、最低限の健康は保てていた。食事も、体調管理も……なんとか」

 「……そう……もっと早く証拠が掴めていれば、あんなに長くはならなかったのに……」

 エディティは、苦い後悔をにじませるような声で言った――演技ではあるが。


 すると、隣の男はふいに立ち止まり、わずかにうつむいた。


 「……いや。俺は……君の隣にいる資格がないのかもしれない」


 その言葉に、エディティの足がぴたりと止まった。


 (えぇ!? 今!? 離婚されたら不味いわ!!)

 (やっと研究室も完成して、薬事業も軌道に乗ってきたっていうのに! この“公爵夫人”という肩書きがないと、通らない許認可が山ほどあるの!)


 内心で額を押さえる勢いの絶叫をあげつつ、彼女は“慈愛と決意の妻”の仮面を完璧に被っていた。

 静かに向き直り、そっと彼の手を握る。


 「アヴェル……私ね、実は……アヴェルのこと、結構、愛してるのよ」


 その一言で、アヴェルの瞳が揺れる。唇が震え、息が詰まったように言葉を失っている。


 「……離れてみて、わかったの。私、あなたが隣にいるのが当たり前になってた。だから……側にいてほしいの。お願いよ」


 目を伏せながら囁くその声は、どこまでも“献身的な妻”。完璧だった。


 「……もちろんだ……俺だって……離れたくない。もう二度と、君から離れないと誓いたいくらいだ……」

 「じゃあ、それでいいじゃない。難しいことは考えなくていいわ。アヴェルは、私の側にいたい? いたいか、いたくないかだけ」


 「……側に……いたい……」


 エディティは微笑んだ。


 (あらぁ……ずいぶん素直じゃない……ちょっと効きすぎたかしら)


 そして、そのまま二人は歩き出した。到着したのは、乳母が控える静かな一室。


 「こちらへどうぞ、奥様、旦那様」


 ふっくらとした穏やかな乳母が、深く礼をしてから、丁寧な手つきでアビオンを受け取る。


 「この子は、大切にお預かりします」


 アヴェルはその光景をじっと見つめ、ぽつりと呟いた。


 「……あんなに、優しそうな乳母を……君には感謝してもしきれない……」


 (当然でしょうが。変な乳母に任せて、屋敷の秩序が乱されたら、こっちの仕事が増えるのよ)


 (面接三回、筆記試験あり、実技と人格審査までやったんだから……!)


 「だって、アヴェルの血を分けた可愛い子よ? 私だって、母親になるんだから……これくらい、当たり前よ」


 その一言に、アヴェルの腕がすっと伸びてきた。

 彼女を、力強く、けれど優しく抱きしめる。


 「……あぁ……君は、女神だ……」


 (お……お……重い……! みんな見てる……っ!! やめてぇぇぇぇ~~~!!)


 背後では、乳母と侍女たちが目を潤ませていた。


 「まぁ……奥様……!」

 「素敵すぎます……!」


 (だれかこのメンヘラ寸前の愛を止めてぇぇぇ~~~!! でも今止めたら泣く!! 絶対泣く!!)


 “女神”として完璧な微笑みを浮かべながら、エディティはアヴェルの腕の中にいた。


 ――そしてその瞬間。彼女の中にはひとつの確信が生まれた。


 (この人、絶対……ずっとくっついてくるタイプね……)

 (私のぐーたらライフ……またゼロからやり直しだわ……)

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