第15話【天使のような悪魔】

 ――アヴェル・ディートリードが誘拐されてから、一ヶ月が過ぎた。


 その日の午後。ディートリード公爵邸の書斎には、深く香ばしい紅茶の香りがふんわりと漂っていた。


 窓辺にはうららかな陽射し。ふわふわの毛布に包まれながら、エディティは一枚の報告書を膝に乗せて、ソファに優雅にもたれていた。


 「……ふふふ」


 その喉の奥から漏れた笑みは――あまりに甘美で、底知れぬ深さと恐ろしさを秘めていた。


 (まぁまぁ……こんなことまでされていたなんて)


 薄い紙に並ぶ、ところどころ伏せ字の肉体的詳細。そして、添えられた妙に芸術的な挿絵の数々。官能小説を超えているんじゃないかと思えるレベルだった。


 (下手な官能小説より断然リアリティがあるじゃない。非モテ男子なら喜びそうななものばかり。)


 ページをめくる指先は止まることなく滑らかに動き、時折うんうんと頷きながら、隣の小さなメモ帳に“記録”を書き込む。


 傍らに立って控えていたリダはというと――


 (あ、あの笑顔……完全に“計画通り”の顔だ……!)


 見開いた金の瞳に、一瞬たりとも迷いがない。紙をめくるたびに微笑み、時折、静かに紅茶をすするその姿は、まるで処刑台を前にした裁判官のようだった。


 (ロビエ嬢……もう詰んでますよ……! 処刑じゃすまない、合法ギリギリの“地獄”が待ってる気がする……!)


 「リダ」


 「はっ、はいっ!!」


 瞬間的に反応したリダは、直立不動。背中に氷柱を突き刺されたような緊張感で、視線を逸らすことすらできなかった。


 「……まだ、証拠が足りないわ」


 エディティは、紅茶を軽く一口含んでから、涼しげな声で告げた。


 「もっと“確実”に仕留めたいの。正面から堂々と、“死刑”に追い込むだけの確たる証言がほしいのよ」


 「……か、かしこまりました……!」


 「それと……これを、“あの子”に届けてちょうだい」


 そう言ってエディティが差し出したのは、一枚の上質なメモ用紙。優雅な筆致で書かれたそこには――


【命令】


・ロビエを懐柔し、アヴェルの鎖の長さを調整して、室内を自由に歩けるようにすること。


・布団や毛布を用意し、最低限の安眠環境を整えること。


・筋トレを促進し、基礎体力の回復を図ること。


・物資搬出があれば即時報告。


・証拠物は「花瓶の中の二番目の底」に隠すこと。


 リダは、紙を両手で丁重に受け取る。


 「……し、しかし奥様。なぜ、旦那様の拘束を緩めるようなことを……?」


 「ふふっ、理由なんて簡単よ」


 エディティは、微笑みながら椅子からすっと立ち上がった。床に落ちた陽の光が、彼女のブロンドの髪をきらりと揺らす。


 「――長く囚われていたら、体力が落ちて逃げられなくなっちゃうでしょ?」


 「……っ」


 (……それは、救出するつもりで言ってますか!?)


 そう、リダが心の中で叫ぶ間にも、エディティの顔は相変わらずにっこりと微笑んでいた。


 (このままもう一年くらい幽閉されててくれれば、私の平和は永遠なのよ……!)


 まるで天使のような顔で、全力で悪魔的な計画を進めている女公爵。その背後に花が舞ったかのような幻想すら見えた。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ――薄暗い地下室。

 肌を打つ冷気と、しっとりとした湿気に、アヴェル・ディートリードはゆっくりと意識を浮上させた。


 (……妙だな)


 硬い石の上に寝かされているはずだった身体に、痛みがない。違和感を覚えながら目を開けると、そこにあったのは――柔らかな毛布と、ふかふかの枕。清潔なシーツに包まれた、簡易ながらも整った寝具だった。


 (枷は……まだあるか)


 手首には、やはり鎖が繋がれていた。だが、それは以前よりもずっと長く、今の彼は寝床から立ち上がって、部屋の中を自由に歩き回れるほどだった。


 (……どういうつもりだ)


 まるで“飼い慣らされた猛獣”のようだと、苦笑したくなる。だが、それを押し殺すように、彼は低く呟いた。


 「……これも、何かの策略か」


 ちょうどそのとき、鉄扉がわずかに軋み、誰かが中に入ってきた。


 「目覚められましたか、公爵様」


 ゆっくりと歩み寄ってきたその姿に、アヴェルの目がわずかに見開かれた。


 「……君は、ディートリードの……」


 そこに立っていたのは、自邸に仕えているはずのメイド。だが今は、エストロール家の使用人の制服に身を包んでいる。


 「奥様のご命令で、現在ここへ潜入しております」


 「……エディティが……?」


 アヴェルの声に、メイドは力強く頷いた。


 「はい。奥様は現在、証拠を積み重ね、ロビエ嬢を“合法的に”処刑する計画を進めております」


 その言葉に、アヴェルの瞳が静かに揺れた。


 (エディティが……俺のために)


 「ですが、あの女は相当に用意周到です。すべて緻密に準備されていましたようです。」


 「……俺の証言だけでは、不十分ということか」


 「ええ。ですが、状況は少しずつ動いています」


 メイドは小さく微笑むと、部屋を見渡した。


 「この寝具も、鎖の調整も。すべて奥様の“懐柔案”の一部です。“わたくし”がロビエ嬢に提案し、認めさせました」


 「……策士だな」


 小さく笑うその声には、呆れと敬意が入り混じっていた。


 「奥様はこう仰っていました――“いつでも脱出できるように、ちゃんと鍛えさせておいて”と」


 「……鍛え……?」


 「筋トレメニューも指示されております。滑車の高さを調整すれば、簡易の懸垂もできますので」


 思わず、アヴェルは頭を抱えた。


 (なんだその発想は……)


 ――しかし、喉元に熱い何かがこみ上げてくるのを、抑えることはできなかった。


 「ありがとう。君にも、礼を言わねばならないな」


 「いえ、私は奥様に命じられただけですから。それでは、そろそろ足音が……」


 メイドは手早く退出し、鉄扉が閉まると同時に、滑車の音がカチリと響いた。天井の鎖が巻き上げられ、アヴェルの手首が再び吊り上げられる。


 (……くるか)


 足音とともに、あの声が近づいてくる。


 「アヴェル様~♡ お食事の時間ですわぁ~♡」


 扉の奥から現れたのは、紫の長髪と、ねじれた笑みを浮かべたロビエ・エストロール。その目には、あいかわらず甘く狂気じみた光が宿っていた。


 「……ああ。いただこう」


 「まぁ♡ 今日はずいぶんと素直♡」


 「温かい布団に、少しの自由。気分がいいんだ。……それに、君が食べさせてくれるんだろう?」


 「もちろんですわ♡ さぁ、あーん♡」


 ――だがその笑顔の奥で、アヴェルは、決して消えぬ想いを胸に刻んでいた。


 (エディティ。……俺は生きて帰る。必ず、お前のところに)

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