第14話【合法ぼっち夫人、真顔で悪女ムーブ】
――薄暗い地下牢。
鉄の匂いと、濡れた石の冷たさ。
軋む枷の音と、耳障りな女の吐息。
「はぁ……♡ はぁ……♡ アヴェル様、今日は……ここまでにしておきましょうか……」
甘く歪んだ声が、部屋に響いた。
吊られたままのアヴェルは、乱れた呼吸を整えることすらできずに、ただ、額から汗を滴らせていた。
(……エディティ……)
蒼い瞳に滲むのは、絶望と、自己嫌悪。
(……俺は……君を、裏切ってしまった……)
この身体に起きたことを、許されるとは思えない。
だが――だからこそ、今はただ、名前を呼びたい。
あの、女神のような、破天荒で聡明な“妻”の名を。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一方その頃――
女神のように聡明で、破天荒で、そして鬼神の如く怒れる妻は、執務室で叫んでいた。
「で、夫を誘拐したのはどこのどいつよぉおおおお!!」
声が壁を揺らし、天井のシャンデリアすら小刻みに震えている。
ソファにぐったりと倒れ込みながらも、その金の瞳はギラついていた。
「リダァッ!! で、誰なの!? どこの貴族がうちの旦那を拐っていったの!?!?」
怒りのオーラが“ぐるるる……”という低周波音となって空気を揺らす。
対する忠義の執事リダは、冷や汗を浮かべながら、ぴしりと背筋を伸ばした。
「……わ、わかりません……!」
「はい??? それでも公爵家の執事!?」
リダの顔面が一瞬で青ざめ、書類を抱えたまま後ずさる。
「ちょっと! 貴族図鑑持ってきて!! あと、あの日の街の出入り記録、使用人の出勤表、毒物管理台帳と……いや待って……」
ふと、エディティの目がすっと細くなる。
(……そういえば……)
「リダ。最近、この屋敷のメイド、何人か強制解雇したわよね? アヴェルに色目使って、しかも“風呂場襲撃事件”の犯人だった子たち」
「は、はい。ですが……彼女たちはその後……」
「行方、追った?」
「……いえ……」
コツ、とテーブルを指で叩く音が響いた。
「……ねぇ、リダ。おかしくない? 視察先は事前に変えたはずなのに、眠り薬の準備も万全、護衛も一瞬で無力化。あまりに“出来すぎ”てるわ」
「…………!」
リダの顔色が変わる。
「……確かに。視察予定の経路を知っているのは、ごく一部の使用人だけ。さらに内部情報を渡せる立場の者となれば……」
「そう。つまり、内部犯行よ」
エディティはふわりと立ち上がる――足をぷるぷる震わせながら。
(……アヴェルがいないと、私の仕事量が2倍どころじゃないのよ……!?)
「……絶対に許さないんだから。死刑よ、死刑」
鬼のような顔で吠えるエディティの前で、リダがビシッと敬礼する。
「どういたしましょうか、奥様」
「まず、“あの日の朝”――公爵様が出かけた時間帯に、街中で目撃された“見慣れない貴族”の動向を洗って。屋敷の出入りと、駅馬車の運行記録も」
「捜索隊ではなく……街で聞き込みを?」
「そう。捜索隊を出せば、犯人側に気づかれる。けど“ただの街人”がしゃべる分には、誰も警戒しないわ」
理路整然としたその口調に、リダが思わず背筋を正す。
「了解いたしました。調査部門にすぐ指示を!」
「それと。例の“メイド解雇者”全員の行方不明届を市警に出して。理由は“女同士の痴情のもつれ”あたりで適当に濁しておいて。裏で尾行をかけて」
「承知しました!」
リダが飛び出していったあと、エディティは一人、資料を前に腕を組んだ。
(夫を誘拐した罪……国家反逆・監禁・薬物使用。余裕で死罪レベル)
でも今、彼女が考えていたのは――
(このままアヴェルが帰ってこなかったら……誰があの膨大な仕事を引き継ぐわけ?)
彼女は優しくもある。けれど今、怒っていたのは“私生活の崩壊”と“庶務が2倍”という圧倒的現実。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――数日後。
ディートリード公爵邸の書斎では、一枚の報告書に目を走らせるエディティの瞳が、ある名にぴたりと止まった。
(……出たわね)
その文面に記されていたのは、エストロール伯爵家の次女――ロビエ・エストロール。
さらに、気になる追記が続く。
「元ディートリード邸の解雇メイドが、現在エストロール家で新たに雇われた」
――だが、そのメイドは雇用からほどなくして“事故死”を遂げていた。
(用が済んだから、始末したのね……)
「奥様。これは……やはり、エストロール伯爵家が怪しいのでは?」
硬い表情のリダが、報告を読み終えて口を開く。
エディティは金の瞳をゆっくりと上げ、彼を見据えた。
(あら……リダも気づいたのね。さすがは我が家の忠犬)
だが、その心の声を隠して彼女は、あくまで理知的な表情で頷いた。
「えぇ。可能性は高いわ。でも、こういう手合いは“バレたときの処理”まで含めて計算してる。
下手に動けば、尻尾を切られて逃げられるだけよ」
すっと書類の角を整えるその所作すら、気品に満ちている。
「リダ、私は――確実に犯人を処刑したいの。夫を誘拐したのよ? 許せるわけないじゃない」
「……奥様……っ!」
リダの瞳が、感動でうるうると潤みかける。
(……ちがうのよ)
本音はまるで別の場所にあった。
(ほんとはね、今の生活が最高なのよ!!!)
たしかに仕事は多い。だが、要所を押さえて人を動かせば、ほとんど自分で動く必要はない。
それに、今のエディティには――絶対的な力がある。
公爵印。
これ一つあれば、ほぼすべての役所も貴族も動く。大抵の貴族は口出しできない絶対権。
どこに行っても「公爵夫人のご命令であれば!」と土下座対応。
(合法的ぼっちライフ……ここに完成ッッ!!)
エディティは心の中で拳を握りしめた。
だが、顔は完璧な“夫思いの貴婦人”である。
「……とにかく今は、確かな証拠を集めるのが最優先。“確実に死刑”に持ち込むためにね」
「はっ、かしこまりました!」
「リダ。エストロール邸に自然に接触する“きっかけ”が必要だわ。あの家のメイド数人を、命に別状のない程度で“事故”に遭わせて」
「……え?」
「空いたポストに、うちのメイドを再教育して送り込むの。表向きは“斡旋”。中身は“潜入調査”。わかるわね?」
「……はっ、はいっ!! かしこまりました!!」
(奥様……そこまでして、旦那様のために……!)
リダの顔は、完全に“忠義の化身”。目を潤ませ、震える声で任務を受け止めている。
(ほんと、チョロいわ……)
エディティは涼しい顔で、報告書を閉じた。
(このまま一ヶ月、いえ一年くらいアヴェルが幽閉されててくれたら――もう最高よ……!)
誰もが彼女を、夫を救おうとする聡明な妻だと信じていた。
だが、実態は“ぐーたらライフ”の防衛者である。
「リダ、任せたわ。――絶対に証拠を掴んで、裁きの場に引きずり出すのよ」
「はっ!!」
リダが敬礼し、部屋を飛び出していく。
そして一人になったエディティは、デスクの引き出しからひょいとマカロンを取り出して頬張った。
(ああ、これが自由……これが甘味……これが平穏!!)
机の上では、アヴェルの肖像画が微笑んでいた。
“夫婦愛”の象徴として飾られたそれを見て、彼女はふっと笑う。
「……うん、アヴェル。もうちょっとだけ、頑張って囚われててね♪」
――真の悪女とは、いつだって笑顔で合法的。
公爵夫人エディティの暗躍は、今日も完璧である。
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