第11話【初々しい旦那】

 ――それから数日。


 私は、忙殺されていた。


 ドレス、料理、装花、招待客リスト、式次第、席次表、席札、引き出物の候補に、料理のグレード別試食……。


 「えぇい、何よこの山は!!」


 両手で頭を抱えて絶叫する。机の上も、床も、紙と見本品と花材とで埋め尽くされている。


 「公爵家の結婚式って、普通1年かけてやるんじゃないの!?」


 書類の山から顔だけ出して毒づく私の向かいで、氷の貴公子ことアヴェル・ディートリードは、まるで他人事のように優雅に紅茶を口にしていた。


 「半分以上は終わっているだろう。こっちは“狂宴”の存在など知らなかったからな」


 「……は?」


 思わずペンを止める。


 「父に言われるがままだ。『この歳になればすぐにできる』と聞いて、準備の半分は済ませていた」


 「……よくそんな真似ができるわね」


 「代々、そんな感じだからな」


 「ふーん。代々、狂宴の罠にかかってたってことね」


 嫌味たっぷりに言い放ちながら、私は慣れた手つきで招待状リストにペンを走らせる。


 「罠? 直接的に言えないのか?」


 アヴェルが怪訝そうに眉をひそめる。


 私は深く息を吐き、視線を紙から彼へ移した。


 「……まず、“ジ・オージィ・オブ・インサニティ”の会場内は、常に“媚香”という香が焚かれています。社交で使われる香水とは比べ物にならないぐらい強力なやつです」


 「媚香……聞いたことがあるな。嗅いだだけで理性が鈍るという……」


 「それから、“演目”があります」


 「……演目?」


 「参加男性は、司会進行に従って、複数の“行為”をこなさなければならないの」


 「拒否はできるのか?」


 「できません。入り口で“魔法契約”を書かされます。“1日限定”“途中退出可”って説明されて、軽い気持ちでサインさせられるけど……実際は、“退出しない限り強制参加”という契約魔法が発動するんです」


 「なんだと……!? つまり、“そういう行為”を強制されても逃げられないということか!?」


 「はい」


 私はさらりと頷いた。


 「しかも、招待状の“種類”によっては、辞退もできません。策略的に送られたものや、“褒美”として王室から与えられたものは、断れば王室への反逆とみなされる可能性もある」


 「……なん、だと……?」


 アヴェルの手が止まり、口元から血の気が引いていくのが、はっきりとわかった。


 「ね? 行かなくて正解だったでしょう?」


 「……お前……なぜそんなことを、そこまで知っている……?」


 「……ふふ、さぁ?」


 私はにっこりと微笑み、肩をすくめる。


 「でも、私が今話したこと、他言しないでくださいね。下手をすれば、“王家の名誉を傷つける”として、法に触れる可能性もありますから」


 「……あ、あぁ……そうなのか。わかった……口外しない」


 アヴェルが小さく呟いて視線を逸らす。

 普段の冷静沈着な態度が、完全に影を潜めていた。


 (なんだか……可哀想になってきたわね)


 強面で威圧的な男が、今はすっかり目を泳がせている。


 (知らずにのほほんと結婚式の準備してたとか……ギャップでちょっとだけ……癒されるかも)


 私はペンを持ったまま、少しだけアヴェルの顔を覗き込む。


 「本当に、行かなくてよかったと思ってる?」


 「……あぁ。二度と“招待”されないよう、根回ししておこう」


 「そうしてもらえると、安心するわ」


 「……だが、なぜ君は……」


 「言ったでしょ、“さぁ?”って」


 私はあくまで飄々と笑う。


 ――だって。

 あの夜、実際に目にした“演目”の数々は、夢にすら出てくるレベルだったから。


 彼には、知らないままいてもらいたい。

 ――この優しい無知が、彼の美点であるような気がした。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ――その夜。


 ディートリード公爵邸の寝室。


 天蓋付きのベッドの上、アヴェル・ディートリード公爵は、真剣な顔で布団にくるまりながら本を読んでいた。

 枕元のランプの灯に照らされているのは、私が貸した一冊の官能小説。


 内容は、“あのパーティー”――【ジ・オージィ・オブ・インサニティ】を彷彿とさせる、わりと刺激的な内容だ。


 「……っ」


 ページがめくられるたびに、彼の頬がじわじわと赤く染まっていく。


 「……っ……しょ、正気か? こ、こんなことを? 知らない令嬢に……?」


 「はい、そうですけど」


 私は隣の枕に顔をうずめたまま、淡々と返す。


 次の瞬間、パタン――と音を立てて本が閉じられた。


 (……ほんのり赤い耳)


 髪の隙間からのぞくその紅潮に、思わず口元がゆるむ。


 (……二十歳の男が、こんなに初々しいなんて)


 ――とはいえ、十九の私が言えることでもない。


 私の顔立ちは妖艶と評されるが、その分、年齢より老けて見られがち。

 十六で初の婚約、しかしそれから五度も破棄され、アヴェルに出会うまでは“酒場の亡霊”と呼ばれるレベルで、夜会と酒場を彷徨っていた。


 “残念令嬢”の汚名は、伊達ではない。


 ――だからこそ。

 今、この日常がいかに貴重で、いかに守るべきものかが、骨の髄まで沁みていた。


 (第二夫人なんて……作らせてたまるものですか)


 そのための、恐怖教育。

 そう、これは教育――ぐーたら生活死守のための、大切な布教活動なのだ。


 「エ、エディティ……こ、この部分だが……」


 「どれです?」


 身を寄せて覗き込むと、アヴェルが指先でページを指し示す。


 「あぁ……この部分」


 そこには――よりにもよって、中盤の演目。


 令嬢たちが見守るなか、中心で繰り広げられる男の“演目”。


 甘く煽るような囁き、乱れた息遣い、からみ合う指と視線の先に――

 “本来なら、扉の内側で済ませるべき行為”が、舞台の上で静かに始まっていた。


 吐息とともに滴る音。

 令嬢たちはそれを恥ともせず、むしろ品評会のように眺めていた。


 その描写を目にしたアヴェルは、ぴたりと動きを止め――


 「こ、これを……人前でするのか?」


 「はい。人前もなにも、普通の広いパーティー会場で、皆が見てる中でこれをするんですよ」


 「……か、家畜のようではないか!!!」


 「……それ、実際に参加した男性が一番傷つくワードなので、絶対に言ってはいけません」


 「……あ……あぁ……そうなのか……」


 アヴェルは本を閉じ、ぐっと唇を噛みながら視線を落とした。


 「リダにも、言ってはダメですからね?」


 「……あぁ……」


 布団の中で、うなだれる氷の貴公子。

 まるで、叱られた犬みたい。


 私はというと、横目で彼を眺めながら、心の中でこうつぶやいていた。


 (ほんとうに……第二夫人、第三夫人なんてできたら面倒の極みよ)


 (今ある、限りなくわずかな私の“ぐーたら時間”が、あっという間に消える……)


 シルクの布団をふわっと持ち上げ、ふかふかのクッションに身を沈める。


 ――そう。

 この時の私は、確かにそう思っていた。


 この平和を守るためには、多少の“洗脳”もやむを得ないとすら思っていた。


 ……あの夜が来るまでは。

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