第10話【公爵印】

 ――夜。ディートリード公爵家の寝室。


 広く、しんとした空間に、火の落ちた暖炉の余熱がほのかに残っている。


 ベッドの両端で、私はアヴェルと背中合わせに寝転がっていた。

 彼はナイトローブ姿で、相変わらず隙のない姿勢のまま静かに横たわっている。

 私はというと、クッションの山にうずもれるようにして、布団にくるまっていた。


 (さ、さっさと寝よう。さっさと寝て、何事もなく朝を迎えるのよ……)


 目を閉じようとしたその瞬間だった。


 「……おい」


 背後から、くぐもった低い声。


 (うわ、話しかけてきた)


 反射的に肩がぴくりと跳ねる。


 「……昼間の話だが」


 「はい、狂宴のことですか」


 私は仰向けになり、視線だけで彼を見る。


 「……あぁ。何故、男たちは何も言わない?」


 「……………」


 しばし沈黙が落ちる。


 私はゆっくりと息を吐いてから、呟くように答えた。


 「……貴族の女性は、二十五までに結婚できなければ修道院行きですから」


 「修道院……?」


 「“神の使徒様”と称された男に、一生、子を産み続ける生活が待ってるんです。

 ある意味で、“地獄の安定ルート”ってやつですよ。そのパーティーは、言うなれば最後の砦なんです」


 私は少し笑って、続けた。


 「男たちも、だから黙ってるんです。文句を言えば――『女は一生、使徒に子を産まされるのよ?』って返されますから」


 「……君は、その若さで五度も婚約破棄されていた。そのままいけば、修道院行きだっただろう?」


 「はい。実際、行くつもりでしたよ」


 ふふんと肩をすくめて、冗談めかして笑う。


 「イース修道院の“神の使徒様”がイケメンだったので。あそこなら、まあいいかと」


 「……………」


 沈黙。背後でアヴェルの気配が微妙に揺れた。


 「……顔が良いのが、そんなに大事なのか?」


 「もちろんです。顔が良ければ、大抵の苦労は許せますから」


 「……たしか、あそこの神の使徒は、王弟殿下だったはずだが?」


 「へぇ。顔も良くて、王族の血筋? 最高じゃないですか。調べによると、本当に“子を産むだけ”で、あとは好きなだけ本が読めるらしいですよ」


 「……本当に、本が好きなんだな」


 「はい、まあ……」


 (まあ、六割が官能小説なんですけどね)


 私の内心の呟きを知るはずもなく、アヴェルは静かに呟いた。


 「……君の話で、納得がいったよ」


 「何がです?」


 「社交界の女性たちが、なぜあれほど露骨なのか」


 「むしろ、公爵様ともあろうお方が、そんなことも知らなかったなんて」


 「……戦争に行っていた時間が長かったんだ」


 「ああ……たしかに」


 私は少しだけ身を起こして、彼の横顔を見た。


 「そういえば、戦功をよく挙げて新聞に載ってましたよね」


 「……あぁ。兄弟が多かったからな。戦功をあげなければ、公爵位は継げなかった」


 「えっ、じゃあ……ご兄弟たちは、今は……?」


 しばしの沈黙のあと、アヴェルは低く、深く呟いた。


 「……戦死したよ。唯一生きている弟は、両親と領地で暮らしている」


 「………………そうですか」


 その言葉に、私は言葉を失った。


 (……重い)


 心の中でそう呟くしかなかった。


 「……すまないな。こんな話をして」


 「いえ」


 私は布団をぎゅっと抱き寄せ、身体をもう一度丸める。


 「もう、寝ましょう。明日も視察やなんやで、早いですし」


 「……あぁ」


 彼の返事とともに、ベッドサイドのランプの火がふっと揺れて――静かに、消えた。


 夜が、しんしんと寝室を包み込む。


 目を閉じたまま、私は心の中で思った。


 (この人……どこまで知って、どこまで知らないんだろう)


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 視察から戻った私とアヴェルは、その足でまっすぐ執務室へ入った。


 「うーん……問題はなさそうだけど、ダーク伯爵の容態を考えると、少し援助してあげてもいいかもしれないわね」


 部屋に入るなり、私は気になっていた案件について口を開いた。

 だが目の前の氷の貴公子は、いつも通りの冷淡な声音であっさり否定する。


 「そうか? 放っておけばいいだろう」


 「ダメよ」


 私はすぐさま言い返す。


 「忠誠心が薄れるわ。お金に余裕はあるんだから、こんなところにケチる必要もないでしょ? ……もし、ケチりたいって言うなら――」


 にっこりと笑って、指を立てる。


 「研究室が完成したら、私が薬を作って事業を立ち上げて、稼ぐわ」


 「……なんだと? ……っ、ははっ。流石だな」


 アヴェルが机の引き出しを開け、何かを取り出した。


 「……?」


 次の瞬間、それがぽいっと私の方に投げられる。


 「わっ!」


 反射的にキャッチした私の手の中には、小さな――けれど重厚な金属の印章。


 「……なに、これ?」


 「公爵家の、公爵印だ」


 「はあああああ!? なんでそんな大事なものを私に投げるのよ!?」


 「安心しろ。それは夫人用だ。とはいえ、俺が持つ本印と同等の権限を持っている」


 「…………えぇ……」


 手のひらの上で、公爵印がずっしりと存在感を放っていた。

 その金属の重みは、今の私にはちょっと荷が重い。


 (軽率に渡していい代物じゃないでしょ……)


 「それから――結婚式だが、やはり規模を大きくすることにした」


 「……えぇぇ!? そんな大々的にされたら、離婚しにくいじゃないですか!!」


 しまった! と言ってから思う。

 言ってはいけないワードだった。


 「何? なんだと? 俺と離婚する気なのか?」


 「い、いえ! 違います! もしもの話です、もしもの……!」


 慌てて両手をぶんぶん振る私。


 だが、アヴェルが振り返った立った瞬間、空気が変わった。


 「え……?」


 ゆっくりと、こちらに歩いてくる彼。

 思わず後ずさり――背中が壁にぶつかった。


 「ちょ……こ、公爵様?」


 アヴェルは、すっと片腕を壁に突き、私を逃げ場なく囲う。


 「……俺から、逃げられると思うなよ」


 ドキッと、心臓が跳ねた。


 (こ、これが……世に言う“壁ドン”? しかも、小説に出てくるようなクッサい台詞まで……まさか……)


 そして、次の瞬間――

 顎をそっと持ち上げられ、唇が重なった。


 「んっ……!?」


 思いのほか深く、そして執拗なキス。


 驚いて目を見開く私。

 息が詰まるほどの距離で、心音だけが耳の中に響く。


 「ちょ、ちょっと!!」


 顔を離したときには、二人とも息が荒くなっていた。


 「な、なにを……っ」


 「――離婚という言葉を口にするたびに、仕置きをする」


 「えぇぇぇえええええ!?」


 「わかったな?」


 (……はい、って言いたくないんだけど。この、“どうせ君は言う”って顔がムカつく……)


 再び、唇が近づいて――もう一度、キス。


 「ん~~~っ、わ、わかった!!」


 ようやく唇が離れると、アヴェルは満足げに頷いた。


 「よし」


 そして、さらに追い打ちがくる。


 「それから――“公爵様”はやめろ。“アヴェル”と呼べ」


 「………………」


 私は思わず、冷えた目で彼を睨んだ。


 が、顔がまた近づいてきたので、慌てて口を開く。


 「わ、わかりました。アヴェル……」


 「よし。良い子だ、エディティ」


 ふわりと、額に落ちた優しいキス。


 心臓が、静かに跳ねた。


 (……どういう心境なの、この男は……)


 戸惑いを胸に抱えたまま、私はそっと、手のひらの公爵印を見下ろす。


 それはまるで――これから始まる“逃げ場のない人生”を象徴しているかのように、重く、鈍く、輝いていた。

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