第9話【できる女】

――そうして、数日が経った頃。


 ディートリード公爵家の執務室。

 アヴェル・ディートリードは、一枚の書類を手にしながら、ぽつりと呟いた。


 「……驚いたな。冗談のつもりだったが、ここまで上手くやるとは」


 「はぁああああ!? 冗談!?」


 椅子をギィィッと盛大に軋ませて、私は立ち上がった。


 「俺が言い渡した、農地税、人頭税、商業税、通行税……。税制の見直しと改定案のまとめ。普通の奴なら、この内容は冗談だと気づくはずだ」


 「…………はぁ!? 私は領地の収支バランスと、年次報告の数字を照らし合わせて、過去十年の傾向までグラフにしてまとめたのよ!!」


 「…………」


 「干ばつ・戦争・疫病が起きた場合の緊急対応マニュアルまで作ったんですけど!? 表紙までつけて!!」


 「………………」


 アヴェルは、静かに首を横に振った。


 「……いや、俺も驚いているんだ。むしろ――女でいるのが勿体なさすぎる」


 「…………………………」


 数秒の沈黙ののち、私は心の中で叫んだ。


 (なんなのこいつ)


 その隣で、リダがぽつりと漏らす。


 「これは……私でもここまでは……」


 「俺でも、ここまで上手くできるかわからん」


 アヴェルがしみじみと頷く。


 「思いつきもしないことばかりだ。俺は今まで、通例通り、前例にならってしかやってこなかったからな……」


 「……は? 時代は変わるのに?」


 「……あぁ。見誤っていたようだ」


 彼は眉間を揉みながら、疲れたように静かに息を吐いた。


 (……いや、官能小説しか読んでない私でもできるんですけど……?)


 私はこっそり目を逸らしつつ、そっと言う。


 「……なら、この仕事、ここまででいいわよね?」


 「いや、引き続き頼みたい」


 「はぁ!? 嫌よ! せめて3分の1に減らして頂戴!」


 アヴェルは少し考え込んだのち、真顔で提案してきた。


 「欲しいものを揃えてやろう」


 「……………やります!! お仕事大好きでぇ〜〜♡」


 即答である。


 アヴェルが淡々と問いかけてくる。


 「何が欲しいんだ。宝石か? ドレスか?」


 私はゆっくりと微笑んで、答えた。


 「――薬剤研究室を作ってほしいの」


 「……なんだと?」


 アヴェルの眉がわずかにひそまる。


 「君は……資格は持っているのか?」


 「資格?」


 私はくすりと笑いながら、ドレスの胸元に指を差し入れた。


 ――そして、内ポケットから、金色に輝く小さなバッジをつまみ出す。


 「これね」


 それを机の上にちょこんと置くと、アヴェルの目がかすかに見開かれた。


 「……調剤資格の、上級バッジ……っ」


 「ど、どこから出してくるんだ! 君は……っ」


 アヴェルが目を逸らしながら、うっすら頬を赤く染める。


 (……ど、童貞か?)


 冷血貴公子、まさかの照れに、私は一瞬真顔になる。


 だが、すぐににやりと笑い――


 「さて、公爵様。ご褒美の準備、よろしくね?」


 アヴェルは小さく咳払いをしながら、書類に目を戻した。


 「……君には、常に想定を上回られる」


 「もっと私のこと、ちゃんと調べた方が良いんじゃないですかぁ?」


 私は再び胸元へ手を差し入れ、次々と取り出す。


 「医薬調合補佐・植物鑑定・毒物判別・基礎看護・算術中等・危険物取扱……。ほら、バッジいっぱい」


 机の上に、カランカラン……とバッジが並べられていく。


 アヴェルの顔が、見たことのないほど静かに固まった。


 「……そ……そのようだな……」


 (ふふふ……私をなめたら痛い目見るのよ)


机の上に置かれた、一通の封筒が目に入った。

 赤と黒の不吉な配色。金縁に王室の紋章。そして封蝋に刻まれた、見慣れない紋章。


 (……まさか)


 私は、その招待状に見覚えがあった。


 数年前。私が“行き遅れ”と囁かれ始めた頃、父宛にこれと同じ封筒が届いたのだ。


 そのとき、母はそれを見るなり血相を変えて暖炉に放り込み、かすれるような声で呟いた。


 「これは……あれだけは……絶対に行かせてはダメ……」


 だが、母が目を離した隙に、父はその封筒を私に差し出した。


 「どうせ暇だろう。社交の場にも出なければ、ますます行き遅れるぞ」


 私は何も知らぬまま、ドレスアップして出席した。

 そして――地獄を見た。


 名を【ジ・オージィ・オブ・インサニティ】。

 直訳すれば、“狂気の交わり”。


 建前は貴族の婚活パーティー。だが、実態は――


 男にとっては恥辱の果て。女にとっては選びたい放題の、極端な非対称の夜会。


 女性は何事もなく帰れる。だが、初参加の男性は――ほぼ確実に“トラウマ”を負って帰ると言われている。


 (私は……何もしなかった。ただ、いたたまれなくなって、そっと退出しただけ。でも……あれは、官能小説が好きな私でも、ドン引きするレベルだった……)


 背筋に冷たいものが這う。


 「アヴェル。この招待状……受けるつもり?」


 私の声に、アヴェルはちらりと視線を寄越した。


 「これか? 去年までは両親が代理で出ていたが……とうとう俺に回ってきたらしい」


 封蝋を指で転がしながら、彼は淡々と呟く。


 「どんなパーティーか、君は知っているのか?」


 (……口に、できるわけがないじゃない……!)


 私はぎこちなく首を横に振った。


 (初見の男がトラウマになるような場所に、“氷の貴公子”が行ったら……!)


 「――今年は、参加をあきらめた方が良いですよ。第二夫人を作りたくなければ」


 アヴェルの指が封蝋の上で止まった。


 「……どういうことだ」


 「そういうパーティーなんですよ。“婚活”という名の、男性が圧倒的に不利な狂宴。避妊薬も無しで行ったら、命取りですよ」


 私はまっすぐ彼を見つめて、言った。


 「たしか……ダーノストン侯爵の話、覚えてます? 一夜にして、夫人を五人迎えたっていう、あの噂」


 「……ああ。だが、侯爵ともなれば、それくらいは普通のことだろう?」


 「そのとき、私――その場にいたんです」


 「…………っ」


 アヴェルの目が、かすかに見開かれた。


 「私は何もせずに帰ったけど。あれはもう……酷い有様でした」


 アヴェルは無言で封筒を置き、静かにため息を吐いた。


 「なら……欠席の返事を書こう」


 「はい、是非。私も第二夫人、第三夫人ができて、ギスギスするのは嫌なので」


 「このパーティーに参加すれば、貴族の弱みが握れ、王室から金も流れると聞いていたが……どうやら、それだけの話じゃなかったようだな」


 「危なかったですね」


 私はにっこりと微笑んで、続けた。


 「私を嫁にする騒ぎどころじゃない事態になってましたよ?」


 「……そ、そこまでなのか……?」


 アヴェルはリダに視線を向けた。


 リダは苦々しい表情で顔を青ざめさせたまま、小さく頭を垂れた。


 「やめてあげてください。爵位持ちの男性は皆、あの夜会で何かしらトラウマを抱えています。話したがらないし、説明すら避ける人が多いんです。」


 「なぜ、誰も教えてくれないんだ。両親も」


 「貴族ですから。子孫繁栄できれば、手段なんてどうでも良いと思っているのかもしれません。……それこそ、公爵様のように、通例通り、前例にならって生きる人々です」


 アヴェルは唇を引き結び、しばらく封蝋を見つめたまま黙っていた。


 やがて、口を開く。


 「……資料はないのか?」


 「はい。内容が……18禁すぎて、誰も書き残してないんですよ」


 私はわずかに視線を逸らし、そして――にやりと笑った。


 「研究室が完成して、私が避妊薬を開発したら。そのときは一度、参加してみてください」


 「…………」


 「行けばわかります。地獄の意味が」



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