第7話 【寝室を共に】

 ――翌朝。


 ディートリード公爵邸の食堂は、朝から香ばしい焼き立てパンと、紅茶の芳醇な香りに包まれていた。


 けれど。


 (……なにこれ……なんで……この空気……)


 エディティは、長すぎるダイニングテーブルの端っこに、ぽつんと座っていた。

 テーブルの真ん中には豪華な朝食が並び、奥ではメイドや執事たちが静かに給仕をしている。


 一見、優雅な貴族の朝――なのだが。


 目元、口元、指先の角度、そして背後で交わされる小声の応酬。


 (……あれ絶対、“そういう意味”のやつだ……)


 そう。屋敷中に、昨夜の“事件”はすでに知れ渡っていたのだ。


 【深夜に、公爵が奥方の部屋に突入】

 という、それだけでも充分すぎる話題が、屋敷の使用人たちの間で静かに燃え広がっていた。


 ――表立っては騒がれない。

 しかしその分、裏の妄想と想像力は臨界突破していた。


 「……ええ、だって夜分遅くまで……お部屋に……ふふふ」


 「しかも、朝になっても公爵様が部屋から出ていらっしゃらないなんて……ふふふふ」


 (ちがうっっっ!!! 断じてちがうから!!!)


 心の中でひたすら否定しながら、エディティは顔を引きつらせたまま、サラダをむしゃついていた。


 (何が“濃厚な房事”よ!! 何もしてないわよ!?)


 ――むしろ、私はソファーで丸まって寝たんだぞ!


 昨夜、薬湯による熱でぐったりしたアヴェルは、当然ベッドを占拠。

 安全確保のため、リダが「奥様は別の場所で」とソファーへ案内してくれたのだ。


 確かに、さすが公爵家だけあってふかふかだった。

 けど! 疲れなんて全然取れてないし、首も腰も痛い!


 なのに、なのに――


 「奥様、本日もお美しいですね」


 「やはり、奥様のような“妖艶な女性”であれば、公爵様もお疲れになるはずですわ」


 (その“妖艶”って単語やめろぉぉぉぉぉ!!)


 顔が熱い。

 視線が痛い。

 火山のように噴き上がる羞恥心。


 (ちがうのよ!? 確かに私、見た目だけは大人っぽいけど! 中身はぐーたら読書好きの引きこもりだから!!)


 そしてアヴェルは、完全に薬湯でダウンしてただけ!

 なのに周囲は完全に「昨夜はお熱い夜♡」モードで統一されていた。


 「……お疲れですか? 奥様」


 ふわっと、背後から優しい声がかけられる。


 「えぇ……そうなの……よ……」


 つい、素直に返してしまった。


 (いやほんと、ふかふかすぎて逆に寝返りうてないし、体バッキバキなんですけど!?)


 ――はっ。


 そこで気づいた。


 (い、今の「疲れてます」って……!)


 絶対、“そういう意味”で解釈されるやつじゃん!!


 案の定、メイドたちの顔がぱあっと花開く。

 視線はあくまで優しい。けれど明らかに、“察した女たち”の顔。


 「やはり……昨夜は仲睦まじく、過ごされたのですね」


 「さすが奥様……ふふっ」


 (も、もういやぁぁぁぁ~~~~~~~~~~!!!!)


◇◆◇◆◇


 羞恥と誤解と妄想の渦に満ちた朝食を、なんとか誤魔化しきり――

 私は逃げるように廊下を歩いていた。


 (部屋に戻って寝直そう……今度こそ、自由なぐーたらタイムを……)


 あのベッドに飛び込んで、お気に入りの小説にマカロン。紅茶片手に誰にも邪魔されない最高の時間を――


 ……と、思っていた。


 だが、自室の前で立ち止まる。


 見覚えのあるメイドが、何やら荷物を抱えて出入りしていたのだ。


 (……ん? その隣って……)


 たしか昨日、案内されたときに言われた。「この隣室は、奥様の趣味やお好みでご自由に」と。


 「何してるの?」


 声をかけると、メイドはぴたりと動きを止め、愛想よく笑った。


 「奥様! 夫婦の寝室を整えております!」


 「へぇ~………って、えぇ!?」


 反射的に扉を開け、自室へ突入した。


 「ちょっと!!! 何勝手に隣に寝室作ってるんですか!!」


 その部屋の中には――まだベッドにぐったり横たわるアヴェルと、横で付き添うリダの姿。


 アヴェルは一瞥すらせず、淡々とした声で答えた。


 「仕方がないだろう。一人で眠れなくなったのだから」


 「……はぁ!? 眠れないってどういう意味ですか!?」


 詰め寄る私の代わりに、リダが手際よく布をたたみながら静かに口を開く。


 「奥様が食堂へ向かわれた直後、別のメイドがこの部屋に入ってきまして――」


 「……はい?」


 「私がいるにもかかわらず、公爵様に抱きつこうとしたので、制止いたしました」


 「…………はぁあああああ!?」


 もう、頭を抱えるしかなかった。


 夜は襲撃、朝は突撃、次は何? 昼の決闘でも始まるの?


 「……んな、阿呆な……」


 私が呆れ果ててつぶやくと、リダは変わらぬ声色で淡々と続ける。


 「現時点の調査によれば、メイドたちは皆、公爵様に少なからず好意を持っておりましたが……」


 「………まあ、この完璧な見た目と地位なら、当然よね……」


 「しかし、“結婚のけの字もない方”だったため、安心していたとのことです」


 「……つまり?」


 「突如現れた“奥様”の存在に、彼女たちは――焦っております」


 「な…………」


 カーン、と脳内に鐘が鳴った気がした。


 まさか、こんな形で女たちの“敵認定”を受ける日がくるなんて。


 「……公爵様、やっぱり……離婚しません?」


 本気で言った。

 ほんの少し、目に涙さえ浮かんでいた。


 けれど、アヴェルは一瞬も迷わずに答える。


 「せん。もう遅い」


 「…………っ」


 「屋敷中のメイドを洗わねばならなくなった。君が妻でなければ、俺は今ごろ“妻に逃げられている”ところだった」


 「……………は?」


 その言葉の意味が、数秒遅れて胸に届く。


 (……つまり、普通の恋愛結婚で得た妻だったら――女に襲われかけたら、それが理由で離婚もありえたと。でも私は、“契約結婚”もどきで、流れに押されて逃げ損ねたまま、ここにいる)


 「…………………………」


 沈黙しか返せなかった。


 すると、アヴェルはさらなる追撃を放った。


 「それから、今日より、寝室を共にする」


 「なっ!! それだけはご勘弁を!!」


 顔面蒼白で叫ぶ私。

 ぐーたらライフが! 深夜の小説が! 深夜のおやつが!!


 「良い機会だろう。そのうち子も作らないといけないしな」


 「なっ!? お、お許しを……! け、契約結婚じゃないですか、私たち!!」


 その訴えに、アヴェルは目を細め、意地悪な笑みを浮かべた。


 「何度も言わせるな。契約書もないのに、契約結婚なわけがないだろう。エディティ、これは結婚だ。普通のな」


 (……終わった…………)


 ぐーたらライフ……私の自由で堕落した一人の世界……


 こうして――


 エディティ=ミラースは、エディティ=ディートリード“正式公爵夫人”としての地獄の日々を、華々しく“始めてしまった”のだった。

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