第5話【精力の祭典】
役所に書類を提出し終えた頃には、空が茜から藍へとゆっくりと染まりきっていた。
アヴェルの馬車は王都の喧騒を抜け、ゆるやかにディートリード公爵家の邸宅へと向かっていた。
――そして、夜。
煌々と灯る街灯と、銀の月明かりに照らされた広大な邸宅の門が、音もなくゆっくりと開く。
「お帰りなさいませ、公爵様!!」
その瞬間、左右に並んでいた使用人たちがぴたりと動きを揃え、深々と頭を下げた。
「本日よりご一緒にお戻りの、エディティ様でございますね」
「ようこそ、ディートリード公爵邸へ――公爵夫人様」
「っぶ……ふぁっ!?」
あまりに突然の“称号呼び”に、思わず変な声が漏れた。
屋敷の前には、ずらりと並んだ十数名の執事、メイド、従者たち。
全員が礼服に身を包み、完璧な姿勢で“姫君の帰還”を演出している。
(……なにこれ、歓迎のレベルが貴族の結婚式当日なんだけど!?)
門から玄関まで敷かれたフカフカの絨毯。
香水のように花の香りが漂うランプ。
そのすべてが「あなたが主役です」と言わんばかりに煌びやかで、居心地が悪すぎる。
玄関前には、威厳のある年配の執事がひとり控え、空気を完全に“お迎えモード”へと統一していた。
「え、あの……!?」
困惑のあまり、私は思わずアヴェルの腕をつかんだ。
「……あの、公爵様? なんか歓迎されてますけど、これ……ドッキリですよね!? え、なに、私このあと吊るされるとか、試されるとか……?」
するとアヴェルは、振り返りもせず、まるで当然のように言った。
「当たり前だろう。もう君は“公爵夫人”だ」
「えっ」
脳内が一気にクラッシュした。
「い、いやいやいやっ!? 待ってください! 私たち、契約結婚ですよね!? 形式だけ、ってやつでしょ!? “形だけの夫婦”ってやつじゃなかったんですか!?」
食い下がる私を前に、アヴェルはひとつため息をつく。
「君の“結婚理由”はなんだったか」
そう言いながら、彼は腰の剣帯に指をかける。
カチリ。
剣の柄に添えた手が、ゆっくりと持ち上げられる。
――ジャキィン!
空気が裂けるような音。金属の反響。
青白い月光に、抜かれた剣の刃がぎらりと光る。
「…………っ」
私は思わず固まり、恐る恐る視線を上げた。
そこにあったのは、鋭く光る氷の瞳。まっすぐに私を見据えている。
そして、私の口から飛び出したのは――
「……脅迫です!!」
悲鳴に近い叫びだった。
だがアヴェルは、まったく動じない。
むしろ何事もなかったように、すっと剣を鞘に戻す。
「何を言っているんだ。俺は剣を触っていただけだが?」
「“抜いた”でしょ!? 今すごく抜いたでしょ!? しかも効果音鳴ってたし!!」
「君の幻聴では?」
「ちがぁぁぁぁう!!」
私の絶叫が夜の空に響く中――
背後から、メイドたちの柔らかな笑い声が聞こえた。
「まあまあ、仲睦まじくて何よりですね」
「ふふ、お似合いですわ」
その笑みは、すべてを“ロマンス”として片付ける貴族の微笑み。
(……この屋敷、絶対に正気のやつがいない)
◇◆◇◆◇
そして、案内されるまま、私は屋敷の奥へと歩かされていた。
赤絨毯が敷き詰められた広く長い廊下。
灯がほのかに揺れ、淡い光が天井の文様を照らしている。
静謐。完璧。気配一つない貴族の館――
いや、牢獄だ、ここ。高貴で豪華な監獄だ。
そして、辿り着いたのは――
「……食堂?」
扉が開かれると同時に、視界に広がったのは、ずらりと並んだ長いダイニングテーブルと、そこに並ぶ銀の蓋付き料理たち。
カチャ、と執事が蓋を開ける。
途端に、立ちのぼる湯気と香りが空腹の胃にダイレクトアタック。
「す、すご……」
思わず感嘆しかけた、次の瞬間だった。
「……って、あれ……牡蠣? しかも生? え、鹿の睾丸!? なにこの白い煮こごり!? うなぎ!? ニンニク丸焼き!? ちょ、これ官能小説!? 精力の祭典じゃない!?」
叫びながら私は椅子に座るのも忘れ、料理を指さした。
「ど、どんなメニューよ!! 念のために聞くけど、私たちって“契約結婚”よね!? 政略! 形式だけの! そ、そういうやつですよね!?」
早口で捲し立てる私の向かいで、アヴェルはなんのためらいもなくナイフを手に取る。
「何を言ってるんだ? 愛しの妻よ。冗談はよしてくれ」
「…………………………は?」
言葉が、頭に入ってこない。いや、理解はしてる。でも、受け止めたくない。
「え、えぇと……その……」
言葉を探す私に、アヴェルの視線がふわりと向けられる。
「じょ、女性嫌い……ですよね? 噂で聞いたことがあるのですけど……近づくと凍る、とか」
「……俺は君が“女性”に見えないが?」
「はっ?」
「俺の急所に嘔吐するくらいだしな。男でもやらない」
「……………………っ!!」
顔が一気に沸騰。爆発五秒前。
嫌味!? 冗談!? 本気!? ねえどれ!? どれなのよっっっ!?
口を押さえて俯く私に、さらに追い打ちが飛んできた。
「……初夜なんて、まさかしませんよね?」
その声は蚊の鳴くように小さかったけれど、自分の中では大声で叫んだつもりだった。
アヴェルはほんの一拍、箸の動きを止めると――
「……そうだな。式の後まで、待つか」
「はあああああああああああああっ!?」
椅子を蹴り飛ばしそうな勢いで立ち上がる。
「待つって何!? 待つってことは、する前提!? 私のこと、どうせ“便利な駒”くらいにしか見てない癖にっ!!」
「駒でもなんでも、夫婦なのだから、当たり前だろう?」
さらりと、罪悪感ゼロの殺し文句が飛んでくる。
全身の血が逆流しそうだった。
(なんなの!? 本気で言ってるの!? それとも“言っとけば静かになる”って思ってるだけ!?)
怒りと羞恥と混乱で、顔の筋肉が全部忙しい。
そんな私をよそに、アヴェルはすっとナイフを置き、リダへと告げる。
「……なら今日は、普通の料理を出してください」
「かしこまりました、公爵様」
返事と共に、すぐに運ばれてくる真っ当な料理たち。
肉じゃが風の煮込み、軽めのスープ、そして香ばしいパン。
見れば、アヴェルは微かに口の端を上げていた。
(……からかわれた!?)
「お願い、ほんとに! 冗談か本気か分からなさすぎる!!」
私は天を仰いで叫んだ。
その横で、メイドたちは優しく微笑む。
「まあまあ、仲睦まじくて何よりですね」
「ふふ、お似合いですわ」
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