第4話【婚約ではなく、結婚です。】

 ミラース伯爵家の屋敷は、思ったよりも――いや、正直かなり地味だった。


 けれど、それは“貧相”という意味ではない。

 整えられた庭木、白を基調とした外壁。

 派手さはないが、隅々まで手入れが行き届いており、全体として落ち着いた品がある。


 (……どうしてこんなことに。)


 横を歩く男――アヴェル・ディートリードは、そんな控えめな佇まいをじっと眺めて、低くつぶやいた。


 「ふむ……悪くない」


 (なにが悪くないよ……本気で挨拶する気なの!?)


 うっかり口に出そうになるのをぐっと堪えつつ、私は彼の後ろに続いて扉をくぐった。


 案内されたのは、応接間。


 重厚な椅子。壁にかけられた絵画。飾られたティーセット――

 どれも年季こそ入っているものの、丁寧に磨き上げられていて、生活感と誠実さが滲んでいた。


 そして――


 「こ、これはこれは、アヴェル公爵殿……! 本日お越しくださるとは……っ!」


 バタバタと駆け込んできたのは、腹周りのベルトがはちきれそうな、年季入りの貴族然とした男性。


 額には汗。頬には紅潮。そして目には明確な動揺。


 「ミラース伯爵です。で、ですが、まさか本当に、ディートリード公爵様で……?」


 その横には、にこやかだが、どこか“待ちくたびれてました”といわんばかりの伯爵夫人。


 (そりゃそうなるわよね……。いきなり家に、アヴェル本人が挨拶に来るなんて)


 私はアヴェルの背後に立ちながら、内心で目を白黒させる。


 当の本人はというと、まるで何事もないかのように、静かに立ち上がった。


 「アヴェル・ディートリードです。本日は突然の訪問、失礼を」


 その一礼は、まるで王宮で王に謁見するかのように完璧だった。

 動作に一片の乱れもなく、空気ごと引き締まる。


 そして――


 「御令嬢・エディティ=ミラースとの結婚を前提としたご挨拶に参上しました」


 その一言で、空間の温度が一気に跳ね上がった。


 「っっっあぁ~~~~~っ!! やっぱりそういうことだったのですね!?!?!?!」


 叫んだのは夫人だった。

 隣の伯爵も、「娘が、娘があのアヴェル公爵と……!」と震えながら何度もうなずく。

 鼻血でも出すんじゃないかという勢いで。


 「さささ、どうぞお座りください! お茶でも何でも! 嫁入りのことなら、もう!今からでもッ!」


 「えっ!? ちょ、ちょっと待って!? わ、私まだ何もっ……!」


 私が慌てて声を上げるも、誰も聞いちゃいない。

 空気はすでに完全な“祝賀ムード”。


 「貴族社会が何を言おうと、私たち夫婦は娘を信じておりますとも! そして、公爵様のような誠実なお方なら、これ以上の相手はおりません!」


 夫人がぐっと私の肩を抱きしめる。涙まで浮かべて。


 (……くっ!! 父様も母様も、やっかいな娘を追い出したいだけじゃないの!?)


 「というかアヴェル様が娘を選んでくださるなんて、それだけで……ねぇあなた!」


 「うむっ! これでうちも公爵家と親戚だぞ……っ!」


 勝手に盛り上がる両親に、私はもう何も言えなかった。

 誰かこの暴走止めて――いや、無理だ。止まらない。歯止めが壊れてる。


 アヴェルはというと、いつものように微動だにせず、紅茶をすっと口に運んでいた。


 「ご理解に感謝します。エディティ嬢を、私なりに大切にいたします」


 静かに放たれたその言葉に、夫人はついに両手で頬を覆い――


 「きゃ~~~~っ!! か、かっこいい……っ!」


 完全に乙女の目になっていた。


 (なんでこうなるのよぉぉぉぉぉ!!)


 エディティが内心で「なんでこうなるのよぉぉぉぉぉ!!」と絶叫していたそのすぐ隣で、

 アヴェル・ディートリードは静かに、そして優雅にティーカップをソーサーに戻した。


 「……では、早速。書類にサインを頂きたいのですが」


 ぱちん、と指を鳴らす。

 その音は、空間を裂くように鋭く響いた。


 次の瞬間――


 「失礼いたします、公爵様」


 音もなく扉が開き、現れたのは黒髪を後ろで束ねた痩身の男。

 彼こそ、アヴェルの忠実な執事・リダ。


 静かな足音を響かせて応接机へと歩み寄ると、無駄のない所作で重厚な封筒を次々に並べていく。


 「……これは?」


 ミラース伯爵が眼鏡をぐいっとかけ直し、書類を手に取る。

 その顔が、見る間に青ざめ、そして――


 「こ、これはまさか……っ! 結納金の記載と、婚姻成立後の財産配分、保証人の署名欄……!? も、もしかしてこれは……結婚のっ――!?」


 「はい。“婚約”ではなく、“婚姻契約書”です」


 アヴェルはさらっと爆弾を投げた。

 しかも無表情のまま、紅茶を再び一口含んでいる。


 「手間を省くために、最初から正式に入籍する形を取りました」


 「う、うわああああっ!? けっ、けっけっけっ……結婚だってぇぇぇぇぇっ!?!?」


 今度は夫人のほうが悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちそうになる。


 「ほ、本当に!? そんな、まさか……娘が……あの娘が、ちゃんと“嫁に行く”なんて……!」


 「いやいやいや、“嫁に行く”どころか、これもう拉致なんだけど!?」


 ついにエディティの理性が音を立てて崩れ、怒鳴り声が部屋に響いた。


 しかし――


 「さすがアヴェル公爵様……このように用意万端でいらっしゃるとは……っ!」


 「ちょっと待って!? え、え、え!? 私の意志ってどこ行ったの!? ねぇ、あったよね、存在してたよね!? 今どこ!?」


 エディティは立ち上がり、ほぼ転がる勢いで書類にすがりつく。


 「これって“婚約”じゃなかったんですか!? “仮”とか“お試し”とかじゃなくて!? どうしてもう“結婚”になってるんですか!!?」


 アヴェルはわずかに眉をひそめると、冷たく、理路整然と返した。


 「“婚約”などと言った覚えはないが? 結婚と言っただろう」


 「こ、婚約が普通では……?」


 「それもあるが――」


 ふっと、アヴェルの蒼い瞳が鋭さを帯びた。


 「……既に、ディートリード公爵家の皆には通達してしまったのでな」


 「は?」


 エディティの口が、ぽかんと開く。

 音もなく、世界が静止した気がした。


 「というわけで、書類には速やかに署名していただきたい」


 「やだ、やだやだやだ! 待って!!」


 エディティは完全にパニックである。

 だが、現実は容赦なく進む。


 「名前は……この位置でよろしかったですか?」


 「うん、筆跡も美しいわ!」


 両親が、にこにこと婚姻契約書に名前を書いていた。

 もう、涙も出ない。


 (終わった……。私の“自由で堕落した隠居生活”が……)


 誰よりも必死に婚約破棄を勝ち取ってきた女の、あっけない終焉。


 呆然と座り込み、契約書の上でうつ伏すエディティの背中を、アヴェルは一瞥して――


 「……さて。次は結婚式場の調整か」


 地獄の追撃は、まだ止まらない。

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