第3話【鬼畜男に拉致されて】
しばらくして、私は馬車の中にいた。
豪奢な内装。天井には揺れる天蓋。窓辺には刺繍入りのカーテン。
座席は上質な革張りで、座っているだけで尻が高貴になりそうなフカフカさだ。
――が。
そんな空間のありがたみなんて、今の私には一ミリも感じられなかった。
「……本当に、家に帰さないつもりですか?」
私は不機嫌そうに眉を寄せて、隣に座る男を睨みつけた。
アヴェル・ディートリード。冷血貴公子。氷の美貌に氷の気配。
彼は優雅に新聞を広げたまま、顔を上げずに淡々と答える。
「……あぁ。君は逃げるのが得意なようだからな。結婚すると言いながら、家に帰れば一目散に逃げてしまいそうだ」
「っ……!」
ギクリ、と背筋が跳ねた。
(な、なんでバレてるのよ……!?)
私は――妖艶で奔放な美貌、とよく言われる外見とは裏腹に、社交界が心底苦手だ。
光も、音も、人混みも、陰口も、建前も、愛想笑いも、ぜんぶ!うんざり!!
本音を言えば、一生書斎に引きこもって、
執事にお茶を運ばせながら本を読み、寝たいときに寝て、食べたいときに食べて、
そんなゴロゴロ人生を満喫していたいのだ。
けれど、それを許してくれないのが“貴族の娘”という立場。
だから私は、あえて“悪女”を演じた。
男を翻弄し、酒に溺れ、粗相に粗相を重ね――
見事、五度の婚約破棄を勝ち取った“計画的敗北者”である。
(なのに……! 今回の相手が、悪すぎるっ!!)
そう、今回の相手――このアヴェルとかいう冷徹貴公子。
全然逃げ道をくれない。さっきの「結婚だ」発言に続き、今度は拉致まがいに馬車へ。
心のどこかで“お詫びすれば忘れてくれるかも”とか思っていた私は、もう、馬鹿だった。
気まずい沈黙が流れる。
ガタン、ガタン。馬車が石畳を踏みしめる音だけが、空間に響いていた。
……やばい。気まずい。距離が近い。なんか静か。怖い。
思わず口を開いた。
「……あの、ちなみに、ご両親は……どういった方で?」
すると、新聞のページをめくりながら、アヴェルが淡々と答える。
「父は私が成人したと同時に爵位を譲り、母と共に山奥の領地へ引きこもった。嫉妬深い男だったよ。私が母に抱きつくだけで、剣を抜きかけたほどにはな」
「え、えぇ……」
会話の温度差が凄まじい。普通の人なら一拍おいて「え?抱きついたの?」とか聞くやつじゃない?
っていうかそんな家庭でどうやって育ったのよ、この人……。
「愛情というものは、一方的であれば毒になる」
新聞の陰から投げられたその言葉に、私はぴたりと口を閉ざした。
「君はそれを回避し続けてきた。見事な策士だ。だが私…いや、俺は、毒でも飲み込む覚悟がある」
「…………」
何この人、さらっと言ってるけど、言葉の一つひとつが重すぎる。
(毒って……飲み込む覚悟……。え、つまり私が毒?)
私はじりじりと座席の端ににじり寄りながら、心の中で思わず頭を抱えた。
「……って、私がわざと婚約破棄に持ち込んだこと、どうして分かったんですか?」
口をついて出た疑問。いや、正確には、つい漏れてしまった疑問だった。
アヴェルは読んでいた新聞を片手で半分に折り、ちらりとこちらに視線を向ける。
「……そんなもの、わかるだろう?」
その口調はいつもどおり冷静で、抑揚に欠ける。
なのに、なぜか不思議と説得力がある。ほんとうに、いちいち腹が立つほどに。
「本当の悪女なら、もっと俺に金をたかる。美貌を利用して、縋りつき、貪欲に身分を求める」
彼の声は淡々と響く。だがその奥には、あきらかな“観察眼”が潜んでいた。
「それに――」
ふっとアヴェルは目を伏せ、口元をわずかに緩めた。
「俺を狙うはずだ。君はそれどころか、俺に怯え、俺から距離をとりたがっている」
「……さようですか……」
言い返せる言葉が、ひとつも浮かばなかった。
そっと視線を窓の外へ向ける。馬車は街道を進み、季節の花が咲く林道を抜けていく。
車輪の音が規則的に響き、妙に心に染み込む。
(……まあ、たしかに。図星すぎてなにも言えない……)
悪女を演じていたことなんて、自分以外は誰も信じていないと思っていた。
なのにこの男は、まるで“見抜くのが当然”みたいな顔で指摘してくる。
「ちなみに、どうして私と結婚を?」
唐突に聞くのもどうかと思ったけれど、気になったのだ。
なぜ、数ある令嬢の中で、よりにもよって“出禁五冠”の私を選んだのか。
「言っていなかったか?」
新聞をもう一度広げながら、アヴェルはさらりと答えた。
「君は数々の貴族に嫌われ、出禁にされている。つまり、君が伴侶となれば、俺はこれ以上、不要なパーティーに出席せずに済むからな」
「…………え、それだけのために?」
「……あぁ。そうだ」
その答えはあまりにも潔く、そして淡泊すぎた。
「それほどに、色々あるのだ。昨夜のパーティーでも、こぞって媚香をふりまく令嬢が多くてな。あれに耐えるのは……正直、苦労した」
「………男も、色々大変ですね」
皮肉でも同情でもなく、思わず本音がこぼれた。
彼の苦労も、まあ、わからなくはない。昨夜の地獄絵図は、確かにきつかった。いや、むしろ私もきつかった。
……と、そのとき。
「……あれ?」
視界の先に、見知った景色が広がった。
「え、ちょっと待って……あれって、私の家じゃない!?」
屋敷の外壁。庭の樹木。見慣れた門柱。
絶対に間違いない。あのボロくなって補修中の噴水も、うちの名物だ。
「やっぱり帰してくれるんじゃないですかぁ!!」
思わず喜びが顔ににじみ出た。
体中の力が抜け、ホッと息をついて、口元が自然と緩んでしまう。
が――
「……ああ。挨拶はしておかないとな?」
「…………は?」
涼しい顔でそう告げたのは、隣の氷の貴公子。
「荷物もあるだろうしな。なにも、身一つで拉致するほど鬼畜ではない」
「………………あぁ、はいはい。ご丁寧にどうも」
その瞬間、希望がポロリと崩れた。
まるで砂糖菓子のように。触れたら溶けてなくなる希望だった。
(そうよね、そうだった。この人、そういうやつだった……!!)
私は半ば脱力したように座席にもたれかかり、天井を見上げた。
華やかな刺繍のある天蓋が、ゆっくりと揺れている。
(もう逃げられない。ああもう、どうしてこうなったんだろう……)
その横で、新聞のページをまた一枚、アヴェルが静かにめくる音がした。
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