第2話【酒の過ち】
「ん……どこよここ……」
ふかふかのシーツが、肌を優しく包み込む。まぶたの裏に、うっすらと影を落とす天蓋のシルエット。
鼻をくすぐるのは、清潔で、どこか高級なリネンの香り。
(……なんか、ベッド……やたら豪華?)
頭がぐらりと揺れる。まるで回転木馬に乗っているような感覚。
こめかみがずきずきと痛み、喉の奥は焼けるように乾いていた。
「うぅ~~~……頭がぐるぐるする……み……みず……」
かすれた声でつぶやいた次の瞬間、すっと差し出されたのは――冷えた一杯の水。
「……ありがとう……」
差し出されたグラスを、震える手でなんとか受け取り、ごくごくと一気に飲み干す。
喉に流れ込む冷たさが、まるで命の水のように染み渡る。
「ぶはぁ……っ、生き返る……。って……え?」
顔を上げた、その瞬間だった。
漆黒の髪。彫刻のように整った横顔。
そして、青く鋭い眼差しが、まっすぐにこちらを見下ろしていた。
氷の貴公子――アヴェル・ディートリード。その人だった。
「…………え」
思考が一瞬で止まり、時間が凍りつく。
喉が、乾くより先に固まった。
「…………っ」
口元にまだ水滴を残したまま、エディティはぱちくりと瞬きを繰り返した。
その様子を見下ろしながら、アヴェルは低い声で口を開く。
「目が覚めたか。気分はどうだ、令嬢」
冷ややかな口調。けれど、その言葉の端に、ほんのわずかに柔らかさが混ざっているような気がした。
「き、きぶ……あ、あああ……あのっ、わ、私、な、何かやらかしました!? まさか、まさかその、も、もしかして……っ」
声が裏返る。記憶を必死に掘り起こすが、アルコールと嘔吐の靄に阻まれて断片すら出てこない。
「吐いた」
「………………………………は?」
アヴェルは淡々と、天気予報でも伝えるかのような無表情で続けた。
「それも、あれほど正確に男の急所を狙い澄ました嘔吐は初めて見た」
「…………」
完全に、エディティの目から光が消えた。
(うそでしょ。うそでしょ……!?)
膝を抱え、ベッドの上で小さく丸くなる。
まるで公開処刑を待つ囚人のように、震えながらアヴェルを見上げた。
「……名前は?」
低く、よく通る声。決して怒鳴りはしない。けれど、それが逆に恐ろしい。
まるで感情を殺しながら斬首命令を出す処刑人のようだった。
「エ、エディティです……っ、ミ、ミラース伯爵家の、れ、令嬢でして……!」
「ミラース。聞いたことはある」
その言葉にほんの一瞬、安堵しかけた。
――が。
「……では、エディティ嬢」
すっ。
アヴェルが一歩、彼女に近づいた。
その気配だけで、エディティの背筋がびくんと跳ねる。
「おっ、お詫びはなんでもしますっ! 奴隷でも、下働きでも、掃除でも、なんでも! あの、股間への攻撃の件は、わ、悪意はなかったんですぅぅぅ!!」
叫ぶように懇願しながら、エディティは必死に頭を下げる。
だが、アヴェルはその慌てふためく様子を、じっと見つめて――
「ああ……見ればわかる。あれが狙ってできるなら、もはや芸術の域だ」
「え、や、やっぱり怒ってるぅぅぅぅ!!!」
「落ち着け。誰も君を斬首にすると言っていない」
アヴェルは微かにため息をつきながら、テーブルの椅子へと腰を下ろす。
その手には、さきほどのグラスがあった。
彼は無言で水を注ぎ、それをまた彼女の前へと差し出した。
「……飲め。顔色が悪い」
おそるおそる、差し出された水を両手で受け取る。
冷たいグラスの感触が、妙に現実味を帯びていた。
「……あ、ありがとうございます……」
ぺこりと頭を下げてから、一口。喉を潤すように、ゆっくりと。
――が。
「なんでもすると言ったな」
ぶふっ。
水が盛大に噴き出した。
「ぶっ!? げほっ、ごほっ……!」
咳き込みながら口元を拭うエディティ。顔面蒼白。
その前で、アヴェルはごく自然に、そして容赦なく言い放った。
「おい、飛ばすな」
低い声に、背筋がぴしりと凍る。
この人、やっぱり怖い……。
「す、すみません……っ!」
震えながら謝罪するエディティ。だが、次の瞬間――
「結婚だ」
「…………………………は?」
時が、止まった。
空気がぴくりとも動かない。頭の中に響くのは、自分の鼓動だけ。
「俺と結婚しろ。ミラース伯爵令嬢」
「…………えっ」
耳を疑う。え、結婚?今、ほんとに“結婚”って言った?
脳内で繰り返される単語に、エディティは思わず自分の頭をぺしぺし叩いた。
(え? なにこれ幻聴? 二日酔いの幻覚? それともまだ夢の中!?)
「な、なんでもって……け、結婚って……今、結婚って言ってます?」
「……あぁ。そうだ」
アヴェルは当然のように頷いた。声はいつも通り冷たく、しかし明瞭。
まるで「今日の夕飯はパンだ」とでも言うかのように。
「い、いやいやいや~~っ!? わ、私のこと、ちゃんと調べました!? よりにもよって結婚とか、一番選んじゃいけない人ですよ、私!!」
「調べた。五度の婚約破棄を言い渡され、酒に溺れ、各所の舞踏会で粗相を繰り返し、貴族社会の多くから出禁にされている」
「…………ッ!?」
(よくそんな短時間で……って、あれ? 名前も知らなかったんじゃ…。)
「で、でしたら~~!? むしろ結婚なんてやめたほうが!! 絶対後悔しますよ!? むしろ損しますよ!!」
必死にまくし立てる彼女の視界の端に――ちら、と黒い何かが映った。
ベッド脇に立てかけられた細身の剣。柄に、アヴェルの指が、ゆっくりと触れた。
(あ……)
目線だけが、無言のままそちらへ流れる。
「…………っ」
エディティはピクリと硬直した。
背筋をこれ以上ないほど伸ばし、グラスを放り出し――
「はいぃぃぃっ!! け、結婚でもなんでもしますっ!!!!!」
両手をバッと挙げ、そのままベッドの上で深々と頭を下げる。
すさまじい勢いの土下座である。
それから――
ほんの小さく、口の端が持ち上がった。
氷の仮面のような美貌に、ひと筋だけ浮かんだ微笑。
誰もが凍りつく“氷の貴公子”が、わずかに、ほんのわずかに――笑ったように見えた。
「……よろしい。では、その言葉に偽りがないと信じよう」
低く落ち着いた声が、部屋に静かに響く。
エディティは顔を上げ、がたがた震えながら必死に頷いた。
ああ、私、終わったかもしれない――。
そう思いながらも、エディティはその笑顔を見てしまった。
氷のような男の、たったひとつの“綻び”を――。
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