第23話
略奪の作業は、ほぼ終わりを迎えていた。
武器、弾薬、医薬品、保存食──
使えるものは片っ端から選別され、運搬用の箱に詰められていた。
そして今──
それらを本拠地へと搬入する作業が始まっていた。
「よっ……と!」
大柄な団員のひとりが、大人ひとり分はありそうな箱を軽々と担ぎ上げる。
隣ではソフィアが工具の入った箱を片手で持ち上げ、
ネリアやベルモットも無言で次々と積み上げていく。
アミラまでもが黙々と、重たい医療器具の詰まった包みを片腕で担いでいた。
その様子に、拓海も遅れまいとひとつの箱に手をかける。
「……よし、いける……いけ──っ、あ、うわっ、重っ……!?」
ぎりぎり持ち上がるかと思った瞬間、
バランスを崩して片膝をついてしまう。
そのすぐ横から、大きな影が伸びてきた。
「おいおい、無理すんなよ、坊主」
ヨミだった。
斧ではなく、今は金属箱を片手で軽々と持ち上げている。
「まだまだだな、拓海。そりゃあ剣は振れるようになったかもしんねーけど、
こういう力仕事は別の話だろ?」
そう言って、ヨミは拓海を片手で軽く押しのけ、
彼が持とうとしていた箱を奪うように肩へ乗せた。
「へへ、精進しな。で──」
彼女は振り返り、少し顎をしゃくる。
「代わりに建物の中、もう一回見といてくれ。取りこぼしがないか確認してこい。
細かいのはお前の得意分野だろ?」
「……了解。任されたよ」
拓海は苦笑しつつ、ヨミの背を見送りながら歩き出した。
すでに箱を運んでいくその姿は、背中で笑っているようだった。
「……ここ、まだ見てなかったか」
拓海は薄暗い通路の先、
西棟の一角にある古びた部屋の扉を開けた。
埃の匂いと、かすかな薬品の残り香。
棚やタンス、工具の積まれた箱が無造作に置かれた、
倉庫のような一室だった。
「さて、取りこぼしは……」
拓海が歩を進めたその時──
ふと、床の木材に不自然な擦れ跡があることに気づいた。
「……ん?」
タンスの下、床の木目に沿うようにして、
左右へ引きずったような跡が薄く残っていた。
前に進み、しゃがみ込む。
タンスの横から覗くと、
板と壁のあいだに、ほんのわずかな隙間がある。
「……まさか、隠し部屋?」
目を凝らすと、タンスの下部、
床との接地面のすぐそばに、金属のような出っ張りがあった。
拓海は慎重に足を伸ばし、
つま先でそれを──ぐっと踏み込む。
「カチッ」
軽い金属音とともに、
タンスの足元がわずかに浮いた。
“ブレーキ”のような仕組み。
手を添え、タンスを押してみると──
今度はするりと、滑るように動いた。
重たい音を響かせながら、
巨大な木製家具が横へずれていく。
その奥に現れたのは、
真っ暗な隙間と、奥へ続く石の階段だった。
「……おいおい、マジかよ」
まるでホラー映画の導入みたいだ──
拓海は苦笑しながらも、視線を奥へ向ける。
微かな冷気。
床下へと続く闇。
そして、何かが“隠されていた”気配。
彼は一度だけ振り返り、
誰もいないことを確かめてから、そっと階段へ足をかけた。
拓海は背中から曲刀を抜き放つ。
鞘から滑るように現れた刀身が、
わずかな光を受けて、青白く鈍く光った。
地下へと続く階段は狭く、湿り気を帯びていた。
足元の石板はところどころ黒ずみ、
空気は重たく澱んでいる。
一歩ずつ、慎重に降りていく。
やがて──
奥のほうから、微かにすすり泣くような声が聞こえた。
「……っ」
拓海の手が、刀の柄を握る力を強める。
その声はか細く、そして途切れ途切れに、
地に落ちた希望のように響いていた。
暗がりの先に、金属製の扉。
取っ手に手をかけ、
一呼吸──それから、そっと押し開ける。
──ぎぃ……。
扉が重く軋みながら開くと、
中には小さな松明の明かりが灯されていた。
そして、そこで拓海は“それ”を見た。
錆びた鎖に繋がれた、数人の女たち。
裸ではない。だが、衣服は破れ、痣があり、
膝を抱えて床にうずくまっていた。
その目には、焦点がなかった。
すすり泣いていた者は、声を聞かれてもなお反応しなかった。
拓海は一歩踏み出し、空気が変わったのを感じた。
湿っている。
汚れている。
生き物の空気じゃない。
“弄ばれていた”空間の匂いだった。
そして、悟る。
──慰み者にされたんだ。
感情が、腹の底から逆流してくる。
怒り、呆れ、嫌悪。
そして、どうしようもない悔しさ。
拓海は曲刀を手にしたまま、
ただ、部屋の中を睨みつけるように立ち尽くしていた。
「……ふざけんなよ」
拓海は低く唸るように言い、
背中の曲刀を構え直した。
刀身にまとわりついた青白い霞が、空気をわずかに震わせる。
目の前に繋がれた女たち──
その手足を縛る、錆びた鎖。
拓海は一歩ずつ近づき、
最初の鎖へ、無言で一閃。
鋼が霞に包まれて滑るように振るわれ、
金属音すら出さずに鎖が断たれた。
次々と、淡い霧を纏った刃が鉄を裂いていく。
鎖はまるで意思を持っているかのように、静かに音もなく崩れた。
「誰かっ!! 地下だ! 人がいた!! すぐ来てくれ!!」
叫んだ声が石の階段を反響して駆け上っていく。
そして──
数十秒後。
扉が静かに開いた。
入ってきたのは、セファだった。
黒の外套を翻し、
光の少ない地下の空間に、その姿が自然に馴染む。
セファは一歩だけ部屋に入り、
空気に触れた瞬間──眉をわずかにひそめた。
彼女は言葉を発さない。
だが、霊を感じるその瞳が、
すでにこの場に染みついた“何か”を読み取っていた。
すすり泣く女たち。
千切れた鎖。
傷跡、汚れた衣服、湿った床。
しばし沈黙ののち、セファは小さく呟いた。
「……重い怨嗟が、残ってる。ここ……ずっと、使われてた」
拓海はうつむいたまま、手にした曲刀を見た。
「全部、こいつらの仕業だ」
セファは無言で頷き、
近づいて、うずくまる一人の女性の前にしゃがんだ。
その額に、そっと手をかざす。
「……安心して。もう、終わったから」
その声はまるで、
怨霊に語りかけるように静かだった。
すすり泣く声の中、セファが女性の額に手を当てると、
微かな霊気が空気を撫でるように流れた。
そこへ──
階段の上から、複数の足音が聞こえてきた。
「こっちか……!? 叫び声が……!」
「下からって報告が……!」
数名の一般団員たちが、次々と地下室に駆け込んでくる。
彼女たちは一瞬、場の異様さに言葉を失ったが、
すぐに互いに頷き合い、手早く動き始めた。
「……大丈夫、立てる?」
「無理しなくていいから。ゆっくり、ね」
何も言えない女性の腕をそっと取り、
肩を貸しながら一人、また一人と──
鎖から解かれた女性たちが外へと連れていかれる。
誰も泣き止まず、
誰も言葉を返さない。
だが、彼女たちは確かに“生きて”そこを出ていった。
拓海は、曲刀を鞘に戻しながら、
その光景をじっと見送っていた。
ふと、自分の手を見る。
血はついていない。
でも、確かにあの刀は人を斬った。
迷いもなく、怒りのままに。
だが今、拓海の胸には、
わだかまりのないひとつの感情が浮かんでいた。
──やっぱり、殺しておいて正解だった。
そう思えた。
罪の報いを受けさせた。
心の底で、
確かな“納得”が、静かに根を張っていくのを感じていた。
ー ー ー
夕暮れの風が、二人の間を静かに通り抜けた。
空は茜に染まり、
背後に広がる“戦の跡”がゆっくりと夜に沈んでいく。
拓海は、セファと並んで歩いていた。
特に何かを話すわけでもなく、
ただ、同じ道を、同じ歩幅で踏みしめていた。
「……」
セファは相変わらず静かだった。
だが、時折こちらをちらりと見て、
何かを言いたげな表情を見せることもあった。
言葉にならないそれは、
たぶん、「無理してないか」とか「大丈夫?」とか──
そういう類のものなのかもしれない。
拓海はちらっと彼女を見やって、苦笑を漏らした。
「……ま、こういう日もあるさ」
そう呟くと、セファは目を細め、
ほんの少しだけ笑った。
歩く道は、血と怒りの匂いを振り切るには少し短すぎて、
今日という一日の重さは、まだ肩にずっしり残っていた。
けれど、こうして隣を歩く誰かがいるだけで、
“帰る”という言葉に、ほんの少しだけ救いが混じっていた。
拠点の明かりが、遠くに見えてくる。
ふたりの影が、それに向かって伸びていった。
「……戻ったか」
夕闇が迫るなか、見慣れた拠点の光が二人を迎えた。
木々に囲まれた空き地に、
仮設の灯籠や吊り下げられた布のランプが、風に揺れている。
拠点の一角では、物資班の団員たちが忙しなく動き回っていた。
運び込まれた箱を手際よく開けては、
食料、薬品、工具、そして武器類を種類ごとに分けて並べていく。
あちこちで命令が飛び交い、積み上げられる物資の山。
勝ち取った成果を、確実に“日常”へ変えていく作業だった。
一方で、広場の中央では──
焚き火を囲む戦闘組の団員たちが、静かに座っていた。
血と煤にまみれたまま、
誰も喋らず、火の揺らめきだけを見つめている。
ベルモット、ネリア、アミラ──
その中に、さっきまで命をかけて戦っていた者たちが、
何も言わず、ただ「戻ってきた」実感に浸っていた。
拓海はセファと並んで歩み寄り、
空いていた丸太の切り株に腰を下ろした。
「……ふう」
ようやく、深い息がつけた気がした。
隣に座ったセファは、
膝に腕を乗せたまま、焚き火の奥をじっと見つめていた。
言葉はなかった。
けれどこの場には、言葉よりも確かなものがあった。
──今日を生き延びた者たちの、静かな連帯感。
焚き火の静けさが、じんわりと心を温め始めた頃──
「──おーい!! 今日は“アレ”やるかァー!!」
低い地響きのような声が、拠点に響き渡った。
拓海が顔を上げると、
背後から現れたのは、ヨミだった。
斧を置き、上着を肩からはだけさせ、
満面の笑みを浮かべた豪胆な戦士の姿。
「マジで!? マジでやんの!?」「うぉーっ、きたああ!」
「待ってました! あれ、最高なんだよな!」
周囲の団員たちが、どっと色めき立つ。
焚き火の輪が一瞬にしてざわめきに変わり、
数名が駆け出していく。
やがて、木造の簡易小屋の裏から、
ゴロゴロと転がされるようにして、大きな桶が運ばれてきた。
直径は優に一メートルを超え、深さも十分。
大人が三人は入れそうな、まるで湯船のような巨大桶だ。
「よし、あとは湯を張って──火を焚く! 薪持ってこい、薪!」
「香草も入れろーっ! 昨日採ってきたやつな!」
団員たちは楽しそうに掛け合いながら、
次々に桶の周囲に薪を組み、火を焚き始めた。
それはまるで儀式のようで、
けれど同時に、勝者の祝祭でもあった。
「……あれか、“湯浴み”ってやつ?」
拓海はぽつりと呟き、
隣のセファに目をやる。
彼女は珍しく、口元をほんの少し緩めて──
「うん」とだけ呟いた。
ー ー ー
「うおお〜〜っ!! 熱くていい感じだぜ!!」
「薪、もうちょい足せーっ!」
巨大桶の下にはすでに火が入り、
水面からはほんのり湯気が立ち上り始めていた。
その頃にはすでに、桶の周囲は全裸の団員たちで賑わっていた。
ヨミはタンクトップと迷彩のズボンを脱ぎ捨て、
真っ黒に焼けた肌と、腹筋がくっきり割れた上体をさらす。
そのまま髪をかきあげ、何の迷いもなく桶の中へダイブした。
「──っ、あっつ! でも気持ちぃな、これ!」
「はいはい、次〜!」
他の団員たちも次々に服を脱ぎ、
まるで訓練後のように、飾り気なく肌を晒していく。
その多くが鍛え抜かれた体躯を持つ女たち──
腕は太く、背中は広く、筋線維の浮いた腹筋。
見事な肉体が、湯気のなかで艶やかに照らされる。
「……っ」
拓海は、視線のやり場に困っていた。
いや、困るも何も、
最初に目に入ったのは、肩幅の広い背中と引き締まったヒップラインだったのだ。
息を呑んで思わず目を逸らす。
その様子を見逃さなかったのが──ベルモットだった。
「……あれ? もしかして拓海、顔赤くなってない?」
「なってねぇよ」
「ふ〜ん? へぇ〜?」
ベルモットは口元をにやにやと緩めながら、
上着を脱ぎ、そのままガバッと筋肉質な上半身を晒す。
肩から背中にかけて丸みと線が両立した、野生的なライン。
「ねえねえ? こういうのってさ、好みだったりするの?
“筋肉質な女”、見てて燃えちゃう系?」
彼女はわざと身体を伸ばして胸を張り、
悪戯っぽく拓海の視界に肉体を突きつけるようにしてみせる。
「……お、おまっ……やめろって……!」
火照った顔を必死で隠しながら、
拓海は焚き火側へと身を引いた──が、
団員たちは笑いながら次々と桶に飛び込んでいった。
祝宴は、思いがけず“熱い”ものとなりつつあった。
「ひゃーっ! こりゃ染みる〜〜!!」
「肩もみして〜! ちょっと!それ私の泡じゃない!?」
「おーい、誰か酒持ってこーい!」
桶のまわりでは、筋肉女祭りが全開だった。
屈強で陽気な女たちが豪快に笑い、
水しぶきを上げながら、湯とともに疲労を洗い流していく。
熱気と開放感に満ちた空気。
そして何より──
肌が…!!
(やばいやばいやばい……!)
拓海は、視界の端から映り込む肩、腕、腹筋、腰、そして──
強調された“質量”を前に、すでに理性がアップアップだった。
「あっはは、ねえ拓海〜、入らないの?
そっちにいると、逆に目に毒じゃないか〜?」
ベルモットが肩まで湯に浸かりながら、
ひらりと手を振って誘ってくる。
「──あああっ、いや、俺は、あれだ!そう!」
拓海は目を逸らしたまま、
すぐそばに置かれた衣服の山を、勢いよく抱きかかえた。
「みんなの服、洗濯してくるからっ!!」
「えっ!?」「……あ、それ助かる!」
「拓海、やさしい〜!」
「えらいえらい!」
団員たちの反応が混ざるなか、
拓海はもう、顔を真っ赤にしたまま一目散にその場を後にした。
背中には、桶の中から湧き上がる笑い声。
そして、謎の“勝った顔”をしているベルモットの声が、風に乗って聞こえた。
「ふふん、逃げたねぇ、坊や〜」
(ちくしょう……!もうちょっと修行積まないと、心がもたねぇ……!)
拓海は服の山を抱えたまま、
洗濯場へと駆けていった。
桶いっぱいの衣服を抱えた拓海は、
夕暮れに染まる洗濯場へと足を運んでいた。
泉の縁には、先客がひとり──クレアがいた。
岩に腰を下ろし、静かに目を閉じている。
呼吸は深く、指先まで一糸乱れぬ姿勢。
風に揺れる銀髪が、彼女の静寂をより際立たせていた。
「……クレアさん」
拓海が声をかけると、
彼女は目を開け、穏やかな瞳でこちらを見る。
「どうした。そんなに慌ただしい顔をして」
「すみません。ちょっと……聞いてもいいですか?」
「構わない」
拓海は真っ直ぐ尋ねた。
とげのない、純粋な疑問として。
「今朝の戦闘……なぜ参加されなかったんですか?」
クレアは一瞬だけ目を細めて──
そのまま、ゆっくりと右脚に手を添える。
金属の音がひとつ。
布の下から現れたのは、銀色の義足だった。
「私は……激しい戦いには、もうついていけないんだ」
そう静かに言って、
義足を取り外して岩の上にそっと置いた。
「昔は、少しは名の知れた剣士だった。
だが、周囲に嵌められてな。片脚を失った」
拓海は息を飲んで黙る。
クレアの声には怒りも悲しみもなく、
ただ“事実を受け止めた者の重さ”だけがあった。
「剣を振れなくなった私は、価値のないものになった。
あっという間に周囲は手のひらを返したよ。
……そういう世界だった」
彼女は義足を撫でながら、どこか遠い目をした。
「しばらくは、名前も顔も隠して生きてた。
だが──ウィンストンに拾われた」
「彼女は言ったんだ。『剣を教えてくれ』ってな。
それで私は、ここで“教える側”になった。
もう戦いの為に剣は振れないが、剣の意味を継がせること はできる」
静かなその声が、泉の水音に溶けていく。
拓海は頭を下げるように言った。
「……ありがとうございます。話してくれて」
クレアはわずかに口元を緩めた。
「大丈夫だ。
だがお前はもう、“剣を構える理由”を持ってるんだろう」
静かな空気が、ふたりの間を包んでいた。
クレアは手慣れた動きで、
そっと義足を持ち上げ、脚に嵌め直す。
金具がしっかりと収まり、
小さく「カチリ」と音を立てて固定された。
彼女はゆっくりと立ち上がり、
夕暮れの空に目をやる。
焚き火と香草、湯の混ざった匂いが、
微かに風に乗って漂ってきていた。
「……湯の香りがするな。賑やかだ」
クレアはそう言って、
拓海に横目だけを向ける。
「私は行くとしよう。
湯にでも浸かれば、少しは古傷も軽くなる」
拓海は頷いた。
「あまり長くは入らないさ。
……今夜は冷えるから、お前も体を冷やすな」
そう言い残して、
クレアは背筋を伸ばしたまま、静かにその場を後にした。
その足取りは、静かで、そして凛としていた。
拓海は彼女の背を見送りながら、
桶の中から衣服を一枚引き上げ、
泉の冷たい水にゆっくりと沈めていった。
泉の水は冷たいが、
手のひらに広がる“何かを洗う”という行為は、
奇妙に心を落ち着かせてくれるものだった。
拓海はゴシゴシと服の汚れをこすりながら、
湯気と遠くの笑い声を背中に感じていた。
そのとき。
「……あっ」
後ろから声がした。
振り返ると、リィナが立っていた。
軽い布の上着を羽織り、髪はほのかに湯の香りがしていた。
「洗濯……してるんだね」
「ああ、ちょっと逃げてきた感じでもあるけどな」
リィナは小さく笑って、
泉の縁にしゃがみ込んだ。
「朝の拓海……ちょっと、怖かったよ」
彼女は素直に言った。
「でも、今は──いつもの拓海だね」
拓海は苦笑いを返す。
「まあ、ああなるときもあるってことで」
リィナは近くの衣服を手に取り、
水に浸けてぎゅっと握る……が、あまり泡立たない。
握り方が弱く、力の加減もどこか甘い。
「……うーん、こう?」
「いや、それじゃ全然落ちてないぞ。
もっとこう、力入れて……って、あーもう」
拓海は手を伸ばし、彼女の動きを直そうとするが、
リィナは顔を赤くして、慌てて手を引っ込めた。
「ちょ、ちょっと! 今覚えてるから!」
ふたりの間に、ちょっとした笑いが生まれる。
水の音、洗剤の香り、そして沈んでいた感情が、
ほんの少しだけ軽くなるような──そんな時間が、そこにあった。
水面をぱしゃぱしゃと叩く音が、
沈んでいた心に少しずつ隙間を作ってくれる。
リィナはようやくそれなりに泡立てることができるようになり、
拓海の横で黙々と洗っていた。
ふと、彼女が口を開く。
「ねえ、拓海って──私より少し上くらいの歳、だよね?」
「……たぶん、そうだな」
「じゃあさ、拓海の世界だと、私くらいの子って……何してるの?」
拓海は手を止めて、少しだけ考える素振りを見せた。
「んー……俺の世界だと、“学生”ってやつかな。
毎日、学校ってとこに通って、勉強するんだ」
リィナは目をぱちくりさせる。
「べんきょう……? なんか、聞くだけで眠くなりそう」
拓海は思わず笑った。
「まあ、人によっちゃそうだな。でも、数学とか歴史とか──
紙に文字を書いて、覚えたり解いたりするのがメインかな」
「文字、かぁ……読み書きはできるけど、
あたし、“覚える”のって苦手なんだよね。
動いてるほうが、なんか楽でさ」
「だろうな。お前、走ってるか弓引いてるかしか見たことねぇ」
リィナは口をとがらせて、
「失礼だなあ」と呟きながらも、笑っていた。
「でも、学生っていいな。
なんか、そういうの──ちょっと憧れるかも」
拓海は空を見上げた。
彼女の世界では、それは“ありえない日常”なのだと、あらためて思った。
「……ねぇ、拓海」
リィナがぽつりと口を開いた。
その声は、さっきまでの笑いとは違って、
少しだけ遠くを見ているようだった。
「私。小さい頃から、ずっとここにいるんだ」
手にしていた布を、水に沈めながら言う。
「私が物心ついたときには、もう……戦があって、争いがあって。
でもね、怖くはなかった。だって──彼女たちがいたから」
賑やかに笑う団員たちの声を背に、
リィナは静かに語りだす。
「ソフィアが、ものの作り方を教えてくれて。
ネリアが、狙いをつけるときの呼吸を教えてくれた。
ヨミは……斧の持ち方を。ちょっと怖いけどね」
拓海は黙って聞いていた。
言葉を挟まないのは、
その声が、“今だけのもの”だと直感したからだった。
「勉強っていうのは、知らないけど──
私には、そういう人たちが“先生”だったんだと思う」
彼女は少し笑った。
でも、その笑みににじんだのは、ほんのかすかな寂しさだった。
「だからさ、学生っていいなって思ったんだ。
屋根のある部屋で、字を読んで、昼休みにお菓子食べたりして。
……そういうの、ちょっとだけ、羨ましいんだ」
沈んだ水の中で、彼女の手が布をそっと絞った。
その小さな手は、武器を握るにはまだ細い。
けれど、もうとっくに“戦場の空気”を知っている手だった。
拓海は、静かに水の音に耳を澄ませていた。
胸の奥で、言葉にならない何かが、
ゆっくりと揺れていた。
リィナの手元から、水のしずくが静かに落ちる。
その横顔は、どこか遠い場所を見ていた。
そんな彼女の話を聞き終えた拓海は、
布をぎゅっと絞りながら、ぽつりと呟いた。
「……でもさ、もしお前が学生だったら──」
リィナが顔を向ける。
拓海は少しだけ口元を緩めて、続けた。
「……たぶん、勉強はあんま得意じゃなさそうだな。
部活ばっかやってそう。弓道部とか、陸上部とか?」
「な、なにそれ! ひどーい!」
リィナは笑いながら抗議する。
でも、その頬は、ほんの少しだけ紅くなっていた。
拓海は肩をすくめて、
「いや、でもさ──たぶん、モテるだろうなって思っただけ」
「……っ!」
一瞬、リィナの動きが止まった。
「ど、どこが……?」
「え? そういうとこだよ」
「な、なによそれー!」
照れ隠しのように水を跳ねさせるリィナ。
拓海はそれを避けながら、笑う。
夕暮れの水面に映るふたりの姿は、
少しだけ揺れて──
けれど確かに、すぐ隣にあった。
「──拓海ーッ! 湯、空いたぞーっ!」
遠く、焚き火の方から誰かの声が飛んできた。
桶風呂の湯加減がちょうど良くなったらしい。
「おっ……呼ばれたな」
拓海が顔を上げると、
リィナは水に浸けた布をもう一度揉み直しながら、小さく笑った。
「……行ってきなよ。残りは、あたしがやっとくから」
「え、いいのか?」
「うん。たまにはちゃんと温まらないと」
どこか“保健委員”みたいな口調だった。
拓海は一瞬だけ彼女の横顔を見つめ、
ゆっくり立ち上がった。
「……じゃ、任せた。助かるよ」
「うん。いってらっしゃい、学生さん」
リィナが手を振ると、
拓海は背中で「おー」と応え、湯気の立ち上る方向へと歩いていく。
振り返らずとも、
その場にまだ、優しい視線があることを感じながら──。
ー ー ー
湯気がふわりと立ち上る桶のまわりには、
すでに数人の団員が服を干し、湯の余韻に浸っていた。
拓海は桶の横に設置された脱衣スペースで、
装備を外し、シャツとズボンを脱ぎ──
急いで腰に布を巻きつけた。
「……よし。これで見えねぇな」
少し念入りに確認してから湯の方に向かおうとした、そのとき──
「ブーーッ!!」
どこか陰になったテントの裏手から、
抑えきれない吹き出すような笑い声が響いた。
「な……っ!?」
拓海はその場で固まり、
即座に布の端を押さえて物陰の方を睨む。
「……お前らァーッ!!!」
湯気の奥、布の隙間からチラリと覗く影。
きっとあの声は──ベルモットかソフィアか、
あるいは二人組か、いやまさかのヨミまで加勢して──!
「見てねえ!見てない見てないって!」「拓海の素肌〜!」
「ぐっ……この筋肉女ども……!!」
桶の手前まで歩きながら、拓海は心の中で叫んだ。
(くそ……!温まるどころか、血が沸騰する……!!)
だが、湯の中に足を入れた瞬間──
その熱さに、すべてがどうでもよくなる。
「あっつぅ……でも、……はぁ、……生きてるって感じするな」
まるで、日常が戻ってきたような。
そんな錯覚に包まれながら、拓海は静かに湯へと沈んでいった。
湯に肩まで浸かると、
耳の奥まで静けさが染み込んできた。
戦いの喧騒も、
洗濯場の水音も、
仲間たちの笑い声も──
すべてが少しずつ遠のいて、
湯気とともに、夜が深まり始めていた。
拓海は、頭を後ろに傾けて空を見上げた。
星が、思っていたよりもずっと近くに感じられた。
あの夜空とは違うけれど、それでも綺麗だった。
「……静かだな」
口に出した声も、湯気の中に溶けていく。
日本の空は、
もっと人工的な光に覆われていた。
空を見上げる余裕なんて、あまりなかった。
電車、授業、バイト、夕方のコンビニ、
教科書とスマホに挟まれた毎日。
「あっちはあっちで、退屈じゃなかったけど──」
今ここにあるのは、
剣の重さと血の匂い。
だが、その中にある仲間の声と、焚き火の温もり。
泥だらけで、
命が軽くて、
だけど──
「……案外、悪くないな」
湯に揺れる星明かりが、
静かに水面を照らしていた。
ここが地獄でも天国でもなく、
ただ生きている場所だと、今は思えた。
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