第24話

空はほんのりと朱に染まり、

まだ朝露の残る地面に足音が静かに響いていた。


拠点の中央では、山のように積まれていた木箱がきれいに整理され、

数人の団員が空になった樽や袋をまとめている。

 

「……徹夜で終わったのか」


歩きながら拓海はつぶやいた。


物資班が交代で夜通し作業をしていたことは知っていたが、

ここまで早く終わるとは思っていなかった。


一人一人の手際と執念。

この世界で生きる者たちの“逞しさ”が、またひとつ刻まれていた。 


拓海はその様子を横目に、

訓練用の木製柵の先──クレアの稽古場へと足を運んでいく。 


朝の冷気が肌を刺す。

けれど、足取りは軽い。


昨日の疲れが完全に抜けたわけではない。

それでも、今の彼には剣を握る理由があった。 


(……負けたくない、って思ったんだ)


戦場でも、焚き火でも、洗濯場でも。

仲間たちと並ぶには、自分も“前に出られる”存在でなければならない。 


木柵の向こう、

薄明かりの中で、すでにひとつの影が静かに立っていた。


銀の髪と、凛とした背筋。

いつものように、そこに──クレアがいた。 


拓海は立ち止まり、深く頭を下げる。


「……おはようございます。今日も、お願いします」


クレアは目を細め、静かに頷いた。


「よく来たな。身体は動くか?」


「はい。ちゃんと温めてきました」


「なら、今日は一段階上げる。

 そろそろ“技”の意図まで読めるようにしろ。

 ……斬るためだけが、剣じゃないんだ」


クレアの声が、朝の空に溶けていく。


拓海は柄に手をかけ、

静かに構えを取った。


朝の冷たい空気が、木剣の握りに染みる。


拓海は息を吐き、深く構えた。


対するクレアは、

義足の重心を無駄なく据え、寸分の隙も見せない静の構え。


「始めるぞ。初太刀を取ってみろ」


クレアの声が静かに響いた。


拓海は足を滑らせるように踏み込み、

木剣を水平に振り出す。


──が、


「甘い」


その一言の直後、クレアの木剣が

拓海の剣の軌道を正確に弾き、手首を軽く打つ。


「っ……!」


「速さで押すなら、“先”を取れ。

 剣は筋力勝負ではない。お前は“まだ待っている”側だ」


打たれた手を押さえつつ、拓海は息を整える。

だがその言葉に、今までとは違う“納得”があった。


(……そうか。待ってるうちは、もう遅れてるんだ)


クラッシュ・タグの拠点で戦ったとき──

斬る前に“敵の意志”を感じた瞬間が、いくつもあった。


呼吸、間合い、目線、重心の傾き──

“くる”と分かったからこそ、先に動けた。


「もう一度──」


今度は、ただ速く踏み込むのではなく、

クレアの視線と、足の置き方、肩のわずかな動きを読む。


そして、


「……今だ!」


拓海は先に剣を振り抜いた。


「……っ!」


クレアは受け太刀で逸らしたが、

木剣の端が、かすかにその肩へ届いた。


一瞬の静寂。


クレアの口元が、わずかに緩んだ。


「……気づいたな」


拓海は肩で息をしながら、額の汗を拭った。


「たぶん……少しだけ、分かってきた気がします」


「“剣は意志”だ。振るう前に、相手の意図を感じ取れるか。

 実戦を経験した者にしか見えないものがある。

 ……今のお前なら、理解できるはずだ」


拓海は木剣を構え直し、

もう一度、深く呼吸を整えた。


目の前のクレアは変わらない。

だが、自分の目に映る“距離”が、ほんの少し変わっていた。


「もう一度、お願いします」


木と木が再び鳴る。


剣を通して、意志が交わされていく時間が、

朝の光の中に広がっていた。


木剣の交差がいったん止まり、

クレアはすっと距離を取った。


彼女の目が、ふと拓海の手元に向けられる。


「……今の動きなら、ひとつ“発展技”を教えてやってもいいだろう」


「発展技……ですか?」


「曲刀では使いにくい技だ。だが、直剣や軍用剣のような重心のバランスが安定した刀身なら、有効に働く」


そう言いながら、クレアは手にした木剣を逆手に持ち替えた。


そして──刃にあたる部分をそのまま素手で握る。


「えっ、それ……握っちゃうんですか」


「もちろん、本来の刃なら鍔元に革を巻くか、

 籠手をしていなければ自傷する。だが、ここで覚えるのは“構造”と“意図”だ」


彼女は構えを変える。


右手は柄を、左手は刃の付け根──

つまり、鍔と柄で“打撃”を加える構え。


そのまま前に踏み込み、

“柄頭”を相手の側頭に突き出す形をとって見せた。


「これは“無力化”の技だ。殺さずに叩き伏せることもできる。

 剣の“斬る”という固定概念を捨てれば、

 柄も鍔も、立派な武器になる」


拓海は目を見開きながらも、

じっとその構えと足運びを見つめる。


「……戦場で、使える技ですね。

 距離を詰められたときにも、有効そうだ」


クレアは頷いた。


「そうだ。乱戦では斬る隙などない場面もある。

 そういうときこそ、剣を“道具”として使える者が生き残る」


彼女は木剣を戻しながら言う。


「お前の曲刀には向かない。湾曲した刃は握るには適さないし、

 重心が偏っている分、打撃には不安定だ。だが、“使い分ける”意識を持つといい」


拓海はしばらく考えてから、

黙ってうなずき、同じ動きを真似てみる。


木剣の刃を握り、踏み込んで──柄頭を突き出す。


不慣れな動きにバランスを崩しかけるが、

一度、二度と繰り返すうちに、わずかに安定しはじめた。


「……なるほど、斬るだけが剣じゃないって、こういうことか」


クレアは静かに頷き、

満足そうに目を細める。


「そうだ。剣は“技”より“意志”──そして、“運用”が全てだ」


朝の光が差し込む訓練区画に、

一つ一つの動作が、深く刻まれていく。



ー ー ー



「……ふう、いい汗かいた」


訓練区画を後にして、

拓海は肩にかけた上着を直しながら歩いていた。


木剣の感触がまだ手に残っている。

刃を握って打つという発展技は、腕の奥に妙な張りを残していたが、

不快ではない。それどころか、どこか誇らしい痛みだった。


腹が、鳴る。


「ああ……そういや、まだ何も食ってなかったな」


拠点の中心近く、

朝食の炊き出しが行われる場所からは、

香ばしく炙られた乾肉と根菜の香りが漂っていた。


すでに数人の団員たちが腰を下ろして食事を始めており、

鍋の湯気が朝の空気にふわりと広がっている。


「お、拓海! 早起きしてたんだな!」


「稽古帰りか? えらいなー!」


団員の誰かが声をかけてくる。


拓海は軽く手を挙げて応え、

木製の皿とスプーンを受け取り、列に加わった。


配られたのは、

干し肉と豆を煮込んだ濃いスープに、硬焼きのパン。

質素だが、体にしみる滋味がある。


そのまま、焚き火脇の丸太に腰を下ろし、

スプーンをすくって一口。


「……うん、うまい」


胃に温かさが広がると、

心までじんわりと落ち着いてくる。


戦いと鍛錬の朝。

そして、こうして戻ってくる“いつもの朝飯”。


それが、拓海にとっての“現実”になり始めていた。


朝食の香りが一段落した頃、

テントの陰からのそのそと這い出してくる影がちらほらと現れ始めた。


目をこすりながら、あくびを漏らし、

着崩れた上着を引きずって広場に歩いてくる団員たち。


「……ふぁ〜、もうそんな時間……?」


「寝袋から出たくなかったぁ……」


「いい夢見てたのに……酒場の樽が風呂になっててさ……」


すると、拠点の端にある大きめのテントから──

ウィンストンが現れた。


冷たい朝の空気をものともしない堂々たる足取り。


その場の空気が、瞬時に張り詰める。


「点呼を取る。全員、列に並べ」


その一声で、あれほど眠たげだった団員たちが、

驚くほど素早く動き始めた。


焚き火のそばで食事をしていた者たちも立ち上がり、

まだ口にパンをくわえたままの者も、

誰一人文句を言わずに所定の位置に立つ。


拓海も皿を片づけ、列の中に加わった。


整然と並んだ団員たちの顔ぶれを見渡し、

ウィンストンは一人ひとり、視線で確認していく。


「──今日の予定は追って通達する。

 まずは昨日の略奪品の最終確認と、

 新たに設ける備蓄用区域の整備にあたってもらう」


彼女の声は、低く、そして確実に全員に届いていた。


「遅れた者は、体罰だ」


軽く笑みを浮かべながらも、

その言葉に誰も笑わない。それが“本気”だからだ。



ー ー ー



「第一陣、準備完了しました!」


若い団員の報告に、広場に緊張が走る。


集まったのは十一名──

先頭を歩くのは、瘴毒盆地を越えザラリスへの道を知る拓海。


そのすぐ隣には、

大きな布鞄を両肩から提げ、地図と計測器で身を膨らませた技官・ハーミラ。

何かをぶつぶつと呟きながら、書きかけの設計図を必死に見直している。


そして列の中ほどには、フードを被った寡黙な斥候ネリア。

彼女の後ろには、選抜された腕の立つ団員たちが八名、緊張を湛えた面持ちで並んでいた。


「この部隊の目的は、ザラリスへの移住準備だ」


ウィンストンが静かに口を開く。


その声に、場の空気がさらに引き締まった。


「本隊が移動する前に、先行して拠点構築の下地を整える。

 物資の仮置き場、簡易防衛線、テント設営区域の測量。

 ……どれも、移住において致命的な作業だ」


彼女の目がハーミラに向く。


「お前が中心だ。慌てるな。だが、怠るな。

 お前がつまずけば、この任務ごと転ぶぞ」


「ひゃっ、ひゃいっ……! はいっ! 了解ですっ!」


ハーミラは震える声で敬礼し、メモの束を落としかけて慌てて掴む。


「ネリアは周囲の監視。敵対勢力や瘴気残留の有無を探れ。

 拓海は案内と現地判断。必要なら建築補助にも入れ」


「了解しました」


ウィンストンは視線を巡らせ、最後に一言を投げかける。


「──お前たちが、橋頭堡を築け。

 あとは私が、そこに人を送る」


その言葉に、団員たちの背筋がぴんと伸びた。


ザラリス──瘴毒盆地の彼方にある古の遺構。

そこに、“新たな始まり”を築くのは、この小さな先遣部隊。


拓海たちは静かに歩き出した。

未来の拠点を、その手で築くために。


出発から、およそ四時間が経過していた。


空を覆っていた木々の葉は少しずつまばらになり、

代わりに湿気を含んだ風が肌を撫でてくる。


地面の感触も変わってきた。

硬く締まった土から、足を踏み出すたびにじわりと沈む柔らかさへ。


「……もうすぐだな」


拓海は呟いた。

脳裏に、かつてくぐったあの木の根のトンネルや、

沼の民たちの奇妙な仮面が、ぼんやりと浮かぶ。


背後では、ハーミラが鞄を肩に揺らしながら、

必死で足を進めていた。


「ぅぐっ……ぐ、ぐぬぬ……ちょ、ちょっと湿気が……計測器が……!」


声を殺しきれずに呟いては、懐の道具をガチャガチャといじる姿は、

相変わらず騒がしい。


ネリアは無言。

だが、わずかに歩調を遅らせ、隊の背後を守るような位置取りに切り替えていた。


彼女が気配に敏いことを、拓海は知っている。

このあたりから、沼の民の“目”が森の奥からこちらを見ている気がするのも、たぶん気のせいではない。


同行する八名の団員たちもまた、

いつの間にか自然と武器に手を添えていた。


会話はない。だが空気が変わったことは、全員が感じ取っている。


視界の先、樹々の間から覗く低い霧──

水音の気配──

湿った木の根が這い出たような道──


「……そろそろ“沼地”だ」



ー ー ー



ねっとりとした地の感触と、仄かな硫黄臭。

水面に影を落とす奇妙な木々を抜けると、

霧の中に、あの村が姿を現した。


木の幹をくり抜いた家々。

垂れ下がる貝殻の飾り。

そして、沈黙のままに佇む仮面の人々。


「……少し、休ませてもらうだけだ。すぐに出る」


拓海が小さく頭を下げてそう告げると、

最前列の一人が口笛のような音を短く響かせた。


その音を合図に、他の仮面の者たちも静かにうなずき、

道を開けるように左右に避ける。


「書を継ぐものよ……」


息のような口笛とともに聞こえたその声に、

隊の数名が肩をびくりと震わせた。


だが、彼らに敵意はなかった。


ただ、敬意と畏れが入り混じった空気が、

広場の空間全体を静かに包んでいる。


拓海たちは集落の中央、木の櫓が組まれた円形広場に腰を下ろした。


仮面の民たちは距離を保ちつつ、無言で見つめている。


それはまるで、神聖な場を見守る祭礼のようでもあった。


「……食うか」


誰かが呟き、鞄から取り出したのは、

クラッシュ・タグから鹵獲した戦闘用の携帯食料。


銀色の真空パックを破くと、

中にはペースト状の乾燥塊や、カロリーに特化したクラッカーが詰まっている。


「……見た目も味も、終わってんな……」


拓海は小声でつぶやきながらも、

黙々とそれを噛み砕く。


口の中で広がるのは、粉っぽさと無理やりねじ込まれた塩気、

そして微かなスパイス風味のなにか。


「……うぇ。なにこれ、味、死んでない?」


ハーミラがひそかに泣きそうな顔で言い、

それでも腹に入れているのは、任務中という意識の表れだろう。


ネリアは無言のまま、静かに口に運び、

咀嚼音すら立てないほど慎重に食べている。


仮面の民たちは、それをまるで異世界の儀式でも見るように、

じっと見つめていた。


霧の中に、口笛のような風が吹く。

そして静かに時が流れる。


仮面の民たちに見守られながら、

拓海たちは食事を終えようとしていた。


粉っぽい携帯食料の後味を、苦い記憶とともに飲み下したそのときだった。


──ザッ……ザッ……。


湿った地面に、はっきりとした足音が近づいてくる。


広場の外縁、霧に包まれた通路から現れたのは──

仮面をつけた女戦士だった。


貝殻と木の根を組み合わせた、複雑な鎧。

肩から背にかけては、泥と灰で描かれた刺青が浮かび、

腰には削り出された骨の装飾が鈍く揺れている。


沼の民にしては珍しく、足取りに迷いがなかった。

静かに、しかし確かな意志をもって、拓海の前に立つ。


そして──


「……ぴぃ……ぅー……ぅぅぃ……」


それは、口笛言語だった。


高く低く波打つ音色の中に、

はっきりとした“問い”が込められていた。


拓海は戸惑いながらも、すぐに意味をとる。


「……旅に同行させてくれ…?」


彼女は微かに頷いた。


「ど、どうする? ちょっと怖くない……? でもかっこいい……!」

後ろでハーミラが身を縮めながら小声で言う。


拓海は小さく息をつき、彼女に問いかけた。


「……連れて行っても、大丈夫か?」


ハーミラは目を泳がせつつも、慎重に頷いた。


「し、しっかりしてそう……ですし、戦力は多いほうが……き、拠点の防衛にも、ね!」


拓海はもう一度、女戦士に向き直る。


「……なぜ、俺たちに?」


その問いに、彼女は短く笛を吹いた。


そして、その音はただ一つの言葉に変換された。


「──書を継ぐものが何を為すのか、見たい」


その声には、敬意と信仰のような重みがあった。


まるで、ただの護衛ではない。

証人であり、見届け人として。

彼女は、“役割”を担いに来たのだ。


「……わかった。よろしく頼む」


拓海が手を差し出すと、

女戦士は仮面の下で何かを呟きながら拓海と手を重ねた。


その女戦士は、

一度深く首を垂れ──

そして、ゆっくりと仮面を外した。


露わになった顔は、沼の民の女性らしく、整った造形と微かなエラの膨らみを持っていた。

肌は湿った木肌のように滑らかで、

目元には細かい線状の刺青が刻まれている。


「……名を、シャ=ルマッカ。

 沼の流れを渡る者の家に生まれた。

 今は、ただ“見る者”でありたい」

 

言葉はぎこちないが、明確だった。

口笛言語を介さずに“人の言葉”を使うその姿に、

隊の面々がわずかに目を見開いた。


その響きは、まるで風と湿土が交わるような抑揚を持っていた。

彼女の声にはためらいも謙遜もなかった。


ただ、“戦士としての名乗り”だけがそこにあった。


腰から背にかけて担がれた長柄武器──

彼女はそれをすっと抜き、目の前に掲げてみせる。


捻れた木の根でできた柄。

その先には、鋭く研がれた巨大な白い貝殻が、

骨と縄でしっかりと固定されていた。


穂先は波打つような曲線を描きながらも、

まるで水を裂く刃のような殺気を漂わせていた。


「我が得物、ツ=グレイヴ。

 沈んだ獣の背を貫き、動かぬものに言葉を止める」


彼女はそれだけ言うと、再びグレイヴを背に収め、

仮面をつけ直した。


その動作すら、儀式の一部のように静かだった。


「書を継ぐ者が歩むなら、私はその傍に在る」


それは問いではなかった。

宣誓だった。


拓海は静かに頷き、

少しだけ口元を引き締めるように言葉を返した。


「……分かった。シャ=ルマッカ。お前を受け入れる」


その名は、部隊の中にまだ馴染まぬ音として響いた。


「う……うわぁ……」

シャ=ルマッカの姿が視界から離れた瞬間、

後方でハーミラが小さく悲鳴のような声を漏らした。


「な、なにあの人……見た目からして絶対強いし……あの武器……あれ、斬れ味凄そうだよね……?」

ハーミラは肩をすくめながら、拓海に寄ってくる。


「た、拓海さん……わ、私がもし怒らせたら、あの貝で真っ二つですよね?え、私、気をつけた方が──」


「落ち着け。そんなことしねぇよ、たぶん」


「た、たぶんが一番こわいんですけど……!」


その横では、ネリアが無言のまま、じっとシャの背を見ていた。


やがて、ネリアが一歩近づき──

ほんのわずかに、顎を引いて会釈する。


「…………」


シャは仮面越しに一瞥をくれたが、

何も言わず、また視線を拓海へと戻した。


その無言の“そっけなさ”に、ネリアはとくに気を悪くした様子もなく、

ただ軽く頷き返し、再び周囲の霧へ視線を移した。 


「……ま、あの子にしてみれば、私なんか塵みたいな存在かもしれないね……」


ハーミラがぼそっと呟き、荷物を抱え直す。


「でもでもでも、あの動きと武器の構造、ちょっと興味あるかも……あれってどこを支点に回すんだろ……」


「ほら、口動かす前に足を動かせよ。あと5分で出るぞ」


「ぴえっ……! はいっ!」


そんな中、シャ=ルマッカは拓海のすぐ近くで静かに待機していた。

他者との距離は保ちつつも、“選んだ立ち位置”は確かにそこだった。


出発の列が整い、

拓海たちが村を離れようとしたそのとき。


拓海はふと足を止め、

背後の静寂に意識を向けた。


まるで彼の意図を読んでいたかのように──

記憶の声が、木の陰から現れた。


白濁した仮面と、

ゆっくりとした足取り。


その姿に、他の団員たちは静かに距離を取ったが、

拓海は一歩、彼のもとへと近づいた。


「ひとつ、お願いがあります」


その言葉に、記憶の声は仮面をわずかに傾ける。


「……近いうちに、俺たちとは別の集団がここを通ると思う。

 女たちの隊だ。……俺の、仲間たちだ」


仮面の奥でまばたきのような沈黙が落ちる。


「沼の民を……警戒させないでほしい」


風が、湿った地表を撫でて通った。


やがて、記憶の声は、低く答えた。


「……お前が“書を継ぐもの”であるなら、

 その言葉もまた、書の一部だ」


「“開け”と命じよう。

 水も風も、通すべき縁は知っている。

 その者たちが、お前の“流れ”であるならば──」


その声には、問いはなかった。


信頼でも命令でもない、

ただ“認める”という、古の静かな合意があった。


拓海は頭を下げる。


「……感謝する」


「道が乱れぬように。

 そして、書の頁が途切れぬように」


その言葉を最後に、記憶の声は再び霧の中へと溶けていった。


拓海はその背にひととき視線を残し、

それから仲間たちのもとへ戻った。


ねっとりとした泥に足を取られながらも、

拓海たちは一本道のように続く沼地の抜け道を進んでいた。


空は薄曇り。

風もなく、音もない。


だが──それは、前触れだった。


「……っ、来る」


ネリアが静かに足を止めたその瞬間。

空気が低くうなり、風のない空から羽音の奔流が降りてきた。


「ッ、蚊──かよ……!」


だが、それは“ただの蚊”ではなかった。


人の拳ほどもある異様に肥大化した吸血昆虫の群れ。

金属のように硬質な羽音を響かせ、

螺旋を描きながら群れごと襲いかかってくる。

前に出会ったものとはサイズが違い、またより群れている。

おそらくは別種だろう。


「ちっ──!」


拓海は背中から曲刀を抜こうと手を伸ばしかけた。


その瞬間──


「……動くな」


低く鋭い声。


視界の端で、シャ=ルマッカが一歩、前へ出ていた。


彼女は背中からツ=グレイヴを引き抜き、

泥の上で片膝を軽く曲げた。


そして、次の瞬間──


「……ッ!」

 

音がなかった。


ただ、風の流れだけが、変わった。


蚊の群れが襲いかかる瞬間──

シャの身体がふわりと宙に舞い、

グレイヴの長柄が弧を描く。


一閃、二閃。

刃のように鋭い貝殻の穂先が、的確に胴体と羽を切断する。


刺すこともなく、

喚くこともなく、

ただ──潰れた羽音だけが、周囲に落ちる。


シャ=ルマッカは言葉を発さない。


だが、グレイヴの回転は止まらない。


右に捌いては左へ滑り、

泥に足を取られることなく、舞うように軽やかに群れを切り裂いていく。


数秒で、残った蚊たちは狂ったように散り、

泥の上にいくつもの黒い塊が落ちていった。


静寂が戻る。


シャは軽く身を翻し、

再びグレイヴを背に収めた。


そして何も言わず、

ただ一瞥、拓海の方を見る。


その目は──

「これが私だ。見たか」とでも言いたげだった。


拓海は苦笑する。


「……お見事」


蚊の群れが潰え、湿った静寂が戻ってきたその刹那──


「……っ!」


ネリアが、反射的に矢をつがえかけた。


だが、シャ=ルマッカの足が、一歩だけ滑るように前へ出た。


泥の中に溶けるように、

黒光りする巨体が姿を現す。


それは──巨大なサンショウウオだった。


地の色に似たぬめり気を帯びた皮膚、

岩のような背中と、濁った双眼。

蠢く舌が湿地の香りを掻き回す。


だが、シャは恐れる様子もない。


静かに──再びツ=グレイヴを引き抜いた。


その瞬間、何かが“変わった”。


捻れた木の根でできたはずの柄が、

軋むような音を立てて、しなり始める。


まるで生き物のように、

木の根が水を吸い、筋肉のような柔軟さを帯びていく。


柄は湾曲し、鞭のようにしなる長柄へと変化した。


「──……ッ!」


掛け声もなく、シャは一閃する。


空気が、裂けた。


まるで稲妻のような速度で、

グレイヴの穂先が湿った空気を切り裂き、

しなりきった弧が、サンショウウオの胴を走る。


刹那の沈黙。


遅れて──

サンショウウオの巨体が、音もなく泥の上に崩れ落ちた。


斜めに断ち割られた胴が、

ぬめりを残して二つに割れていく。


シャ=ルマッカは動きを止め、

そのまま静かに、グレイヴを背に戻した。


柄は再び木の根の硬質へと戻り、

先ほどまでの“変化”がまるで幻だったかのように、何事もなかったような姿を見せている。


「……今の、見た?」


後方でハーミラが喉を引きつらせながら呟く。


「今、柄が……しなった、よね……? あ、あんな木材ありえない……どうなってるの……っ」


拓海は一歩前に出て、

切断されたサンショウウオの死骸と、その先に立つシャの背中を見つめた。


彼女は、こちらを振り返ることもなく、

まるで“当然のこと”をしただけのように、また歩き始めていた。


──彼女はただの“戦士”ではない。

沼が形を与えた刃。

自然と共に戦い、生きるために編まれた者。


拓海は、彼女の名を改めて思い出すように呟いた。


「……シャ=ルマッカ」


「ま、待って、待ってくださいっ!!」


一息ついたところで、突如として声を上げたのは──


「今のっ! あなたのその武器──どうやって柄がしなるの!?

 木材の繊維構造が急激に柔軟性を帯びたってこと?

 それともあれは“木”じゃない何か!?えっ!?何!?!?」


──ハーミラだった。


顔を真っ赤にしながら手帳とペンを取り出し、

まるでスイッチが入ったかのようにシャ=ルマッカにまくし立てる。

 

「湿度?圧力?それとも意思疎通!?道具との共鳴とか!?

 あのグレイヴって何素材!?水分調整できる木とか使ってる!?それとも生体……」


シャ=ルマッカは立ち止まり、

ぬるりと振り返る。


仮面の奥からこちらをじっと見つめ──

そして、たった一言だけ答えた。

 

「──そんなものだ」


「えっ……え、そ、そんなものって、えっ!?!?」


ハーミラはペンを持ったままフリーズした。


あまりにも素っ気ない返答に、

質問の勢いが根こそぎ奪われたようだった。


「そ、そんなものって……。あれは物理法則を無視して……っ、ど、どういう……ひえぇ……」


結局、それ以上の返答はもらえず、

シャ=ルマッカは拓海の方へと無言で歩を戻した。


その背は、まるで“追及は無意味”と語っているかのようだった。


「……ふ、不思議な人だね、ほんと……」


ハーミラが項垂れつつも、

手帳には何かをびっしりと書き込んでいた。

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