第19話
沼の民たちが、沈黙の列をなしていた。
男も女も、ただ静かに、三人の旅立ちを見送っている。
その姿はまるで、
“言葉のない祈り”のようだった。
「……じゃあな」
拓海が小さくそう呟いた。
返事はない。けれど、それで十分だった。
ひとりの老人が、一歩だけ前に出て、
長く澄んだ口笛をひと吹きする。
それは“また夢で会おう”という別れの挨拶。
記憶の声がかつてそう教えてくれた旋律だった。
木と縄で編まれた足場を降り、
三人は沼の外縁へと足を踏み出す。
水面には霧がかかり、
木々の影がぼんやりと揺れている。
「……こっちだ。たしか、“双葉の水草が生えている場所を選べ”って言われてたな」
拓海が呟くように言い、先頭に立つ。
昨夜、記憶の声から手渡されたのは、
獣皮に刻まれた抜け道の“印”だった。
方角ではなく、水草の形、音の反響、地盤の沈み具合──
そんな“自然の記号”で伝えられた道順だ。
アミラが無言のまま周囲に警戒を配り、
セファはぬかるみを踏みしめながら黙って後をついていく。
沼は息づいていた。
どろりとした水の下から、
ときおり気泡が「ぼこっ」と浮かび上がる。
地面は確かに柔らかいが、
“選ばれた道”を辿っている限り、沈むことはない。
「……静かだな」
拓海がぽつりと呟くと、
後ろのセファが、少し間を置いて返す。
「なんか……ここ、すごく静かすぎて、逆に変な感じがする」
「……ああ。わかる」
風の音。水の音。
それらが“音”として聞こえてこない、
まるで世界が耳を塞いでいるような沈黙。
「急ごう」
拓海が言い、三人は歩みを早めた。
沼の民に導かれ、
神の残響を背負い、
霞を知った者たちが──
沈みゆく沼の外へ、確かに足を進めていた。
ー ー ー
ぬかるんだ地面が次第に固まり、
湿った風が乾いた熱へと変わっていく。
三人は、確かに“沼”を抜けていた。
拓海が足を止める。
その先、瓦礫と立ち枯れた低木の間に、人影があった。
「……止まれよ、旅人さん」
声は落ち着いていたが、空気は一気に凍る。
影は三人──いや、四人。
それぞれ銃を構え、顔の半分を布やゴーグルで隠していた。
手製の装備に身を包んだ彼らは、かつて別世界で戦場を渡った兵士たちだろう。
だがその目は、金の匂いに濁っていた。
「……通りたいなら、通行料を払ってもらおうか」
先頭の男がそう言った。
肩に掛けたカービン銃を見せつけるように軽く揺らす。
「この辺りは、俺たち“クラッシュ・タグ”の管理下だ。
初見割引でいい」
「……ふざけんな」
拓海の口から、自然と声が漏れた。
「そんなもの、払う理由がない。ここは誰のものでもないはずだ」
男たちが笑う。
「そう言う奴は多いさ。けど、“銃を構えてるのは俺たち”ってことだけが現実だろ?」
セファが一歩後ろに引く。
アミラは無言のまま、既に短剣を抜ける構えに入っていた。
「なあに、ちょっとした話だ。金がなきゃ装備でもいい。
そっちの無口な嬢ちゃんのヒジャブなんか、いい品に見えるぜ」
男がニヤリと笑った瞬間、空気が変わった。
──カシャン。
アミラが、鞘から静かに短剣を引き抜く音が響いた。
拓海は剣の柄に自然と手が伸びていた。
霞はまだ現れていない。だが、息づいていた。
「……金も渡さねぇし、お前らに通行権も渡す気はない」
拓海が冷たく言い切った瞬間、男たちの指が引き金にかかる。
「──なら、教えてやるよ。“この世界での正義の通し方”ってやつをな!」
──銃声。
だが、弾は当たらなかった。
アミラが即座に動いた。
その脚は地を蹴るというより、滑るような加速。
次の瞬間には、木々の間へと身を投げ込んでいた。
背丈のある低木を斜線上に挟み、
銃の有効距離と視界を巧みに切断していく。
その動きはまるで、弾道計算すら読んでいるかのようだった。
「チッ、逃げたぞ!」
「右へ回れ!」
男たちが焦り、視線を奪われた、その一瞬。
拓海の身体が、前に出ていた。
抜き放たれた曲刀が、霞を帯びる暇もないまま
真正面の男の腹部を斜めに斬り裂く。
「──がっ、はっ……!」
喉奥から濁った声が漏れる。
血と嘔吐の混じった飛沫が飛び、男が倒れた。
拓海はそのまま身を翻し、
近くの朽ち木の裏へと滑り込む。
銃声が炸裂し、木片がはじけ飛ぶ。
だが、拓海の影は既にそこにはなかった。
「っ、何だこいつら……!」
「やばい、散開しろ! こっちの射線を潰された!」
その混乱のさなか、
後方にいたセファが静かに両手を広げた。
空気が震える。
地表の影がもぞり、と蠢く。
「……出て」
その囁きに応じるように、黒く薄い霊たちが浮かび上がる。
尾を引く靄のような姿。
目も口もないそれらは、
男たちの背後から音もなく迫っていた。
「なっ、後ろ──!」
「うわあああっ!? 撃つな! 味方が──っ!」
霊体の一つが、男の銃を引っかき、
別の一人の足元にまとわりつく。
銃声が狂ったように乱れ、射線がぐちゃぐちゃになる。
「……邪魔」
セファは短くそう言い、
新たな“かたち”を召喚する。
ザラがかつて振るっていた、短槍。
このとき彼女が手にしたものは──
霊が形を取った、深灰色の結晶槍。
握った瞬間、霊たちが槍に吸い寄せられ、軋むような音を放つ。
槍が共鳴している。
セファの瞳が細くなった。
「……やってみようか。ザラみたいに」
──状況は、混戦。
敵は翻弄され、射線を保てず、陣形が崩れていく。
だがそれでも、彼らは銃を捨てない。
生き残るために、必死に抗う。
その瞬間を──
拓海たちは逃さない。
混乱の霧の中、
セファの足取りは、まるで舞うようだった。
濡れた地面を軽やかに踏みしめ、
身を沈め、旋回しながら間合いに滑り込む。
男の銃口が、霊の干渉でわずかに逸れたその刹那──
セファの手に握られた霊の短槍が、
真っ直ぐに男の胸を貫いた。
「……っが」
男の目が見開かれる。
霊がまとわりついた槍は、
刃ではなく“魂”そのものを突き刺すような衝撃を残していた。
男の身体は、音もなく崩れた。
だが──
その刹那。
「オラァッ!!」
別方向から、もう一人の男が銃を構えた。
標的は、セファ。
距離は近い。
照準は頭部。
引き金にかかる指に迷いはなかった。
──だが、その引き金が引かれることはなかった。
影が、上から降ってきた。
まるで枝から落ちる黒い羽のように。
それは、アミラ。
木上から滑空のように飛び降り、
短剣を男の喉元に静かに滑らせる。
その切れ味は、音すら殺す。
「ッ──ぐぶ……っ!」
男の手から銃が滑り落ちる前に、
血と命が喉から噴き出し、
そのまま、地面に崩れた。
アミラは一言も発せず、
そのまま屈むようにして地を蹴り、
再び闇のなかへ身を隠す。
残るは一人。
最後の男は、
銃を抱えたまま、信じられないという顔をしていた。
「な、なんだよこれ……ふざけんなよ……」
後退りする足音が、不規則に響く。
手が震えている。
銃が下がる。
目が泳ぐ。
「──くそっ、くそっ……!」
最後に残った男は、
視線を彷徨わせながら、
銃を抱えたまま背を向けて走り出した。
生存本能に突き動かされたその足取りは、
もはや隊列も秩序も捨てたただの逃走。
「……逃がさねえよ」
拓海は、鞘に収めた剣に手をかけることはなかった。
代わりに、腰からクロスボウを抜き放ち、素早く一矢をつがえる。
放つ意図は、殺すためじゃない。
“止める”ためだ。
走る男の膝下。
ぬかるみに足を取られたタイミングで、
拓海の腕が静かに引かれる。
──“シュッ”。
矢は風を裂き、
寸分違わず男の右脚ふくらはぎの裏に突き立った。
「ぎゃあああッ!!」
男の悲鳴が、広がる空に響く。
勢いよく倒れ込み、
泥まみれの地面をのたうつ姿は、
さっきまで仲間を指揮していた姿とはまるで別物だった。
「うぅ……くそ、足が……お前ら、何なんだよ……!」
そう吐き捨てる声には、もう戦意も秩序もなかった。
ただの痛みと混乱、そして恐怖。
拓海は静かに歩を進め、
距離を詰めながらクロスボウを降ろす。
その視線には怒りも憐れみもなかった。
ただ、“必要なことをした”という静かな意志。
「質問に答えてもらうぞ。
──ここで何をしてた。どこの勢力だ?」
倒れた男の足元に、
セファの霊たちが、再び影のように忍び寄る。
アミラは斜め後方から、無言のまま短剣を構え、
いつでも止めを刺せる位置にいた。
男は、逃げ場のない視線の包囲のなかで、
泥の中に顔を上げることしかできなかった。
「だからクラッシュ・タグだって言ってるだろうがよォ!!」
泥の中でもがきながら、男は叫んだ。
矢が刺さった足を引きずりながら、
銃を片手にすがるように振り回している。
その声には、威圧でも誇りでもなかった。
ただ、無様な“自分の所属”にすがる声だった。
「……こっちは正規の分隊だ。巡回中だっただけなんだよ!
ルールに従っただけだろ!? なあ、そっちが勝手にキレただけだろ!?」
その喚きに、
拓海はひとつ息を吐いて、足元の石を踏み締めた。
アミラが、首元に刃を当てようと半歩踏み出す。
だが拓海は、手のひらだけを上げて制する。
「クラッシュ・タグ……ね。名前は知ってる」
声は静かだった。
だが、その眼差しはどこまでも冷たい。
「なら、教えてもらおうか。
お前たちの“部隊の規模”、それと──この近くの拠点の位置」
「……っ」
男の目が揺れる。
質問の内容が、ただの報復ではないと察したのだ。
「言えよ」
拓海の声は、少しも荒れなかった。
むしろ、深い水面のように静かで、逃げ場がなかった。
「……く、くそ……」
男はついに銃を手放した。
泥にまみれ、肩を震わせる。
「……俺たちの班は偵察・徴収係。四人一組で各地に散らされてる。
この辺りは俺たちの持ち場だった……。後方基地は……北東の崖沿い……“ラストホールド”って呼ばれてる。
そこに武器も物資もまとめてある。人間は、二十か、三十……もう変わってるかもしれねぇが……」
その語尾が震える。
セファの霊が、彼の背中をなぞるように漂っていた。
それは、“もう嘘はつけない”という無言の圧力だった。
アミラは微動だにしない。
刀身は一瞬も逸れていない。
拓海は、男の顔を見下ろす。
その表情に、かつての自分――
“追放されたばかりの自分”を重ねることは、もうなかった。
「……ありがとう。お前のおかげで、こっちも正しい準備ができる」
男は、震えていた。
矢の刺さった足を抱え、
霊に囲まれ、短剣の影に脅え、
もう二度と銃を手にすることはない。
だが、それでもまだ――
その目には、“生き残れるかもしれない”という僅かな希望が残っていた。
拓海は、
ゆっくりと曲刀を引き抜いた。
刀身に、淡い光が走る。
それは炎ではない。
血を吸う刃でもない。
ただ、静かに“霞”が、刃に寄り添うように纏わりついていた。
それは光でも影でもなく、
空間の“境界”を削り取る、銀色の微粒子。
まるで星々の間を漂う宇宙の塵のようだった。
男がようやく言葉を絞り出す。
「ま……待ってくれ……もう、情報は……全部話しただろ……!」
拓海は、首を横に振った。
「……だからこそだ」
そして、刀を振りかざすことなく、ただまっすぐに突き立てた。
──ズ。
滑らかな感触。
まるで水を貫くような手応えだった。
男の胸板に吸い込まれるように刀が沈み、
一切の抵抗もなく、心臓を超えて貫通する。
その瞬間、霞が拡がった。
青白い粒が、男の身体を包む。
それは痛みではなく、破壊でもない。
ただ、“削り取られる”。
皮膚が。
肉が。
臓器が。
骨が。
何もかもが、粒に還元され、風のように散っていった。
男の口が動いた。
だが声はなかった。
既に喉はなかった。
目が、ただ揺れていた。
最後に見たのは、自分が自分でなくなる瞬間。
そして。
そこに、何も残らなかった。
地面には血も骨も、衣すらもない。
ただ、霞がそっと舞い上がり、
空に溶けて消えていった。
拓海は、しばらく刀を見下ろしていた。
そこには、何の感情もなかった。
だが、“恐ろしい力”を自分が使ったという確信だけがあった。
セファは言葉を失い、霊たちを静かに戻す。
アミラは微動だにせず、
ただ、拓海の手元を見つめていた。
その目の奥にあったのは、警戒でも恐怖でもない。
──認識だった。
風が、止んでいた。
そこには死体も、血もない。
ただ、何かが確かに“あった”空気だけが、まだ残っていた。
「……い、今の……!」
沈黙を破ったのは、セファだった。
彼女は顔を上げ、拓海の曲刀に視線を吸い寄せられるように注ぐ。
その眼は驚きと、そして興奮に満ちていた。
「すごいよ、それ……!
あたしの霊たち、あの刀が近くに来た瞬間、逃げたような感じがした。
まるで“存在ごと否定される”ってわかったみたいに……」
彼女の肩にはまだ霊の残滓がまとわりついていたが、
それすらも遠巻きに身を引いていた。
拓海は、少し刀を見つめ、
それから静かに鞘に収める。
「……俺自身もまだ、よくわかってない」
「ううん、それでも……すごい。
あたしの霊術よりずっと深くて、ずっと強い。
ちょっと、こわいけど……でも、かっこよかった」
セファがにかっと笑って言う。
その笑顔には、恐怖ではなく──戦友としての興奮が宿っていた。
拓海は少しだけ照れくさそうに目をそらし、
逆に、彼女の手元にある短槍へと視線を向けた。
「……セファもだ。
あの突き、綺麗だった。ザラのやり方と違うけど……“君らしさ”がある。
華麗で、迷いがない。あれなら、何だって刺し貫けるよ」
セファの目が、一瞬だけ潤んだ。
「……ありがと。
ザラみたいに、とは思えないけど……でも、ちゃんと“自分のやり方”で戦えた気がした」
彼女は短槍を手の中で回し、
それがふっと霧のように崩れて消えていく。
「この槍……霊たちが協力してくれたの。
きっと、ザラの記憶も混ざってたんだと思う」
アミラは何も言わず、目元だけで二人のやり取りを追っていた。
その視線は、どこか満足げにも、静かな警戒にも見えた。
「……回収、始めるよ」
セファがそう言って、倒れた傭兵のうち形が残っている者たちに近づいていく。
アミラも頷くように無言で動き、
手際よくポーチや装備を剥ぎ取り始める。
銃器は全体的に旧式だが、メンテナンスは悪くない。
おそらく、何らかの補給ラインがクラッシュ・タグにはまだ残っているのだろう。
「この短機関銃、弾倉もほぼ満タンだ。
セーフティは甘いけど、修理すれば使えるかも」
拓海が確認しながら呟く。
セファが別の遺体から予備マガジンを拾い上げ、手のひらで重みを確かめる。
しかし、彼女はふと拓海の方に視線を向け、
苦笑いを浮かべて呟いた。
「……それにしてもさ、あの霞の刀で殺しちゃうと、遺体が残らないんだね。」
「……ああ」
「つまりさ、戦利品も消えるってことじゃない?
これからはできれば普通に斬ってくれるとありがたいかな、なんて」
軽口だった。
でも、そこには本音も混ざっていた。
「いや、まあ……一理あるけどな」
拓海も思わず苦笑する。
「次は気をつけるよ。消えるのが銃器やポーチじゃなくて、頭蓋骨だけで済むように」
「それはそれで怖いってば」
セファが笑って答える。
アミラはそばで、
一つのライフルを手に取り、弾倉を抜き、状態を確認した。
そして何も言わず、拓海に視線を送る。
それは、「どうする?」という問いだった。
「……まだこいつらの拠点、“ラストホールド”が残ってる。
奪える物があるなら、そこで回収した方が早いかもな」
「……だが、今じゃないな」
拾い上げた短機関銃を手にしたまま、
拓海はぽつりとそう呟いた。
セファが目を上げる。
「“ラストホールド”、行かないの?」
「行くさ。……でも、今は引く。
斥候隊だけで基地突入なんて無茶だろ。
戻って、情報を渡す方が先だ」
地図もない。地形も不明。
戦力差も読めないまま突っ込むには、
得た情報が多すぎた。
それを無駄にしないことの方が大事だと、拓海は思っていた。
「……判断としては、正しいと思う」
セファも素直に頷く。
アミラは無言のまま立ち上がり、銃を担ぐ拓海の姿を目で追っていた。
彼は、拾った短機関銃を両手に構えてみる。
ぎこちないながらも、
肩に当て、照準を目で追うようにして──
「……こんな感じ、かな。合ってるかは知らないけど」
その姿を、セファがじっと見ていた。
やがて小さく首を傾げる。
「……それが、銃?」
「うん。正確には“短機関銃”って言って、
小型で連射ができるタイプのやつだな。こいつは……たぶん古いやつだけど、近距離なら強い」
「へぇ……飛び道具ってことは知ってるけど、
扱える人の話を聞くのは初めてかも」
セファは銃に手を伸ばしそうになって、指を止める。
「あまり無闇に触ったらまずいんだよね?」
「うん。弾入ってる可能性あるし、暴発したら笑えない」
アミラも、片手に拾った拳銃のようなものを持っていたが、
構え方が明らかに“刃物と同じ”だった。
おそらく、遠距離で撃つというより、金属製の鈍器のように見ているのだろう。
「慣れてるわけじゃないけど、俺の世界ではこっちが主流だった。
……でも、ここじゃ弾も道具も限られてる。下手に撃つと詰む」
「うわ、やっぱ厳しいんだね」
セファが苦笑しながら言った。
拓海は銃を肩から下ろし、
しっかりとセーフティを確認してからスリングに肩を通す。
「ま、とりあえずは“飾り”程度に思ってくれ。
本命はあくまで──これだ」
と、背に帯びた曲刀を軽く叩く。
霞を纏ったその刃は、
血も霊も、音も、存在さえも断つ。
そして今は、
その力を制御する自分自身を──ようやく、拓海も信じ始めていた。
「……帰ろう。道はわかってる」
三人の歩みが、再び動き出す。
背後には、静かな死と、武器と、灰色の粒が舞う空気だけが残されていた。
ー ー ー
太陽はすでに森の端へと傾きかけていた。
濃い橙色の光が木々の間を抜け、
湿った地面に長く細い影を落としている。
歩みは重かった。
戦闘の疲労が脚に蓄積し、言葉も自然と減っていた。
それでも、誰も弱音は吐かなかった。
セファは途中で一度だけ霊たちを呼び出して、
空気の流れを読み、正確に方角を示した。
アミラは一貫して
だがずっと前方の影と足跡を観察し続けていた。
そして拓海は、背中に抱えた短機関銃の重みを感じながら、
時折、周囲に何かの痕跡がないかを確認していた。
……だが、空気に混じって漂ってきた焚き火の匂いが、
彼らの歩みをわずかに軽くさせた。
湿った土と葉の匂いに混じる、
焦げた薪と獣脂の、“帰還の匂い”。
木々の間から、赤い布のはためきが見える。
そこにあるのは──
ウィンストン盗賊団の仮設拠点だった。
粗雑に編まれた幕、民族柄のタープ、
天幕の隙間から漏れる焚き火の橙、
遠くから聞こえる低い笑い声と、鍋をかき混ぜる金属の音。
セファが、小さく安堵の息をつく。
アミラは目元だけで、それを確認するように頷いた。
拓海も足を止め、
ゆっくりと肩の力を抜いた。
「……戻ったな」
その言葉が、風に乗って拠点に届くより早く、
見張り台の上から声が飛んだ。
「おーい、帰還者だ! ヨミ、ミルラ、見ろ、無事だ!」
声を張ったのは、若い女の団員。
その報せは数秒のうちにテント全体へと広がり、
焚き火の音が止み、
いくつかの人影がテントから顔を出し始めた。
セファは笑い、アミラは身を引いていつもの沈黙へ戻る。
そして拓海は、
再び重い一歩を踏み出した。
三人は、過酷な任務から帰ってきた。
ようやく仲間たちの輪の中へ戻ってきた。
「おい、無事だったかよ!」
「帰ってきたじゃねえか、バカ!」
「足、大丈夫?水とか……いや、とにかく座れ!」
囲むように集まったのは、いつもの顔ぶれ。
見張り役のラタ、狩猟組のベル、調理係のミナ。
誰もが、まるで自分が戻ったかのように騒いでいた。
湿っぽい空気はなく、
口笛のような笑いと、叩き合う音が飛び交う。
拓海も軽く笑みを浮かべ、
セファは背中を軽く押されながら火のそばへと向かう。
アミラは一歩引いた位置で周囲を見ていたが、
その姿はいつもより“柔らかかった”。
「冗談抜きでアミラが連れてるのが拓海で合ってるか、確認してたからな。
ヨミ姉なんか“似た顔の敵かもしれん”って」
「あはは、マジで? ひでえ」
セファが笑い、肩の緊張が抜けたように見えた――その時だった。
「──でさ、ザラは?」
軽い調子だった。
悪気のない、一言。
それを口にしたのは、まだ若い団員の一人だった。
皆の視線が、一瞬、そちらに向く。
笑い声が途切れる。
セファの動きが止まった。
火の光が、彼女の横顔を照らす。
楽しげだった表情が、すっと陰を帯びた。
目は落ち、唇は僅かに震える。
声は出なかった。
だが、その沈黙がすべてを物語っていた。
「……あっ、ごめ……っ」
言いかけた少女が、目を見開いたまま言葉を詰まらせる。
その背後で、焚き火の爆ぜる音だけが響いていた。
誰もが、その名の重さに気づいた。
ザラ。
仲間だった。
強くて、面倒見が良くて、誰よりも前を歩いていた。
そして、もう戻らない。
「……ザラは、最後まで戦ったよ」
拓海が静かに言った。
その声は優しくもなく、慰めでもない。
ただ、事実としての“報告”。
「俺たちは……その姿を、目に焼きつけた。誇り高い彼女らしかったよ」
誰も言葉を挟まなかった。
セファは顔を背け、火を見つめていた。
その瞳は、泣いてはいなかったが──
言葉より深く、喪失を語っていた。
沈黙。
ザラの名を口にした誰もが、
そしてそれを聞いた者たちも、
火を見つめ、視線を交わせずにいた。
セファの表情だけが、時間の流れを止めていた。
そのときだった。
ゴツ、ゴツ、と
地を踏み鳴らす音が、
ゆっくりと近づいてきた。
木々の隙間から、
焚き火の光が照らすその姿。
タンクトップと迷彩ズボン、傷ついた片目。
ヨミが、歩いてきた。
誰もが視線を向けた。
自然と、道を空ける。
彼女は何も言わないまま、
焚き火のそばまで来て──
セファの隣に、無言で立つ。
その大きな手が、
セファの肩に、ぽんと置かれた。
押し潰すでもなく、慰めるでもない。
それはただの、
そこに在る、という重さだった。
セファが目を伏せる。
彼女は言葉を探していた。
けれどヨミは、何も求めなかった。
静かな夜のなかで、
その手がすべてを語っていた。
ザラの死を、彼女は静かに受け止めていた。
言葉がなくても、
誰よりも深く、それを理解していた。
焚き火が、またひとつ爆ぜる。
その音を合図のようにして、
静かだった仲間たちが、少しずつ火のまわりに戻っていった。
誰もが何かを抱えたまま、
けれど、それでも火の傍にいた。
火に一番近いスペースが空いていた。
それは、ザラがいつも座っていた位置だった。
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