第18話

──朝は、音もなく訪れた。


空にかかっていた雲は消え、

東の地平から、橙色の光がゆっくりと差し込んできた。


遺構の石の隙間から漏れる光が、

仮設テントの内側を淡く染める。


誰からともなく起き上がり、

言葉もなく荷物をまとめはじめる。


拓海は寝袋から抜け出し、

立ち上がったとき──ふと、振り返った。


“ザラリス”。


その名を刻んだこの場所に、

もう一度だけ視線を向ける。


「……行こう」


小さな声だった。

だけど、その声にセファもアミラも、静かに頷いた。


火は完全に消され、痕跡を最小限に整える。


ザラの名前を汚さないように。

この場所を、再び誰かが見つけたとき、

「確かにここに“生があった”」と伝えられるように。


全員が背を向け、

遺構を後にする。


朝の冷気が肌を刺し、

柔らかい風が後ろ髪を引いた。


でも、誰も立ち止まらなかった。


──歩く。

ザラが導いたその道を、

また次の誰かに繋ぐために。


盆地に差し掛かった時、

拓海は思わず足を止めた。


昨日、命を削るように歩いたこの地が、

今はまるで──別の世界のように見えた。


「……全部……焼けてる」


セファが呟く。


地面は黒く焦げ、

キノコは炭のように朽ちて、崩れていた。

瘴気に霞んでいた空気も、どこか薄まり、風が通っている。


アミラが、足元の地面を指でなぞる。


確かに、

昨日の彼らは、一本一本、松明で足場を焼き、

瘴気を祓いながら、命がけで進んだ。


だが今は──


「……誰かが道を、残してくれたみたいだな」


拓海の言葉に、

二人は無言で頷いた。


それが“誰か”じゃないことは、

誰の胸の中にも、答えとして刻まれている。


ザラが、命と引き換えに、

この“帰り道”を残してくれた。


「……ありがとな」


拓海は、そう口に出して言った。

誰に聞かせるでもなく。

ただ、その焦げた大地に向けて。


三人は、

その炎の道を、静かに、確かに、踏みしめていった。


──ザク、ザク。


焼け焦げたキノコの残骸を、

慎重に踏みしめながら、三人は歩いていた。


誰も、何も言わない。


言葉が必要な空気じゃなかった。


ただ、

風が流れるたび、黒い灰が舞い上がり、

どこかで木の裂ける音が響く。


鳥の声はない。

虫の羽音もない。


この盆地に残っているのは、

ただ“昨日の火”の記憶だけだった。


炭になった蔦の上を歩くたびに、

乾いた音が小さく跳ねる。


(……こんなに、静かだったんだな)


拓海はふと思う。


昨日は、叫びも、息も、戦いもあって──

それでも歩ききった。


でも、今はただ──

ザラが通った“そのあと”を歩いている。


彼女の残した黒い線をなぞるように。


セファも、アミラも、何も言わない。

けれど、それぞれの背に、重たい思いが揺れていた。


喉が渇いても、誰も止まろうとしなかった。


今、立ち止まるのは違う。


──だから、歩く。


沈黙の中を。

焼けた世界を。


森が近づき、

空が少しだけ広がった頃だった。


先を歩いていたアミラが、

ピタリと足を止めた。


その視線の先に、

“それ”は、いた。


焦げた草地の真ん中。

一本の、折れかけた木の影──


ゆっくり、

ぎこちなく、

フラフラと──“何か”が歩いていた。


「……う、そ……」


セファが、かすれた声を漏らす。


それは、

昨日この盆地で見た感染体──冬虫夏草の如く、

全身から白い菌糸を伸ばし、

肩や頭部には巨大なキノコが群生していた。


だが──


──腰に巻かれた、革の鎧。

──片方だけ失われたブーツ。

──黒く焼け焦げた短槍の残骸。


「……ザラ……?」


誰の声かも分からない呟きが、風に溶けた。


それは、

彼女だった。


否定したくても──

誰も、否定できなかった。


動きは鈍く、

知性の光はすでに感じられない。


だが、

姿勢だけが、背筋の通ったまま。


まるで──


まだ、歩いているかのように。

仲間を守ろうとする者の背で、

“死を越えて”歩き続けているかのように。


拓海の口が、乾く。


声をかけられない。

足が動かない。


世界が静まり返っていた。


ただ、風が吹いた。

ザラだったものの肩に生えたキノコの傘が、

柔らかく、揺れた。


──ザラだったものが、

こちらに顔を向けた。


視線は曇りきっていた。

眼窩の奥にあるはずの意志は、濁っている。


だが、それでも──

“確かに拓海たちを認識している”と分かる仕草だった。


片足を引きずるように、一歩。


腐ったような関節が、ぐぎりと音を立てて折れ曲がる。

その頭には、白く膨れたキノコがのしかかり、

背中には、かつての装備が焼け焦げたまま残っている。


「──ぁ……っ」


セファが、小さく息を呑んだ。


「やだ……いや……」


手が震える。

その腕は力を失って落ちかける。


「違う……ザラじゃない……でも……っ、ザラでしょ……!?」


声が裏返った。

呼吸が浅くなる。


「なんで、なんでそんな、そんなのになって、なんで歩いて……っ!」


目の前で、

“かつての憧れであり、恩人だった人”が、

ゆっくりと朽ち果てた足取りで、自分たちに向かってくる。


「うそ……こんなの、ザラじゃない、こんなの、ちが──っ!」


セファがその場に崩れ落ちる。

膝を抱え、耳を塞いだ。


「やだ……見たくない……やだ……っ!!」


その声にも反応するように、

ザラの成れの果てが、ぐるりと顔を傾け──


さらに、

一歩、また一歩と、距離を詰めてくる。


アミラが、無言のまま拓海の前に出た。

その左手の義手が、すでに短剣に掛かっていた。


「……っ!」


ザラだったものの、

その右足が、地面に沈み込むように止まった。


ぐらり、と体が傾ぐ。


ふらついたその腕が──

一瞬だけ、胸元へと添えられた。


まるで、

そこにあったはずの“仲間の紋章”を、

確かめるように。


拓海は、息を呑んだ。


「……いま……」


セファが震える声を漏らす。

涙で濡れた目が、きつく閉じられる。


「ザラ……?」


ザラだったものの頭が、微かに揺れる。


首が動く。

ノイズのような、くぐもったうめき声。


その動きは、

まるで──“否定”にも、“肯定”にも取れた。


アミラが、一歩前に出ようとする。

だがその時──


「──ぐ、ア゛アァァッ」


乾いた喉から、獣のような呻き声が漏れた。


次の瞬間。

その体が、再び前へと“引きずられるように”歩き出した。


菌糸がザラの脚を締め上げ、

肉の奥から蠢く白い腫瘍が脊髄を押し上げる。


意志は──

“残っていた”のかもしれない。

でも、“それ以上”のものに、もう身体は奪われていた。


「ザラ……!」


セファが、よろけながら立ち上がった。


足元はふらついていた。

息も浅い。

それでも、彼女は前に出ようとする。


「私が──っ、声をかければ……まだ──!」


だが次の瞬間。


「ダメだ……っ!」


拓海がその体を、背後から羽交い締めにした。


「離して! 拓海、やめて、やめてよ!!」


「……これ以上、近づいたら──

 お前が“殺される”ぞ、セファ……っ!」


振りほどこうと暴れる細い体を、

拓海は全力で押さえ込んだ。


セファの目から、

涙が止めどなく流れ続ける。


「まだ……まだあの人は……っ!

 動きが、あの人のままだった……

 なのに……!!」


「だから……だからだよ……!」


拓海は、震える声で絞り出した。


「……ザラは、まだ“お前を襲ってなかった”。

 その“わずかに残ってる彼女”を──

 “これ以上、穢すな”……」


セファが、泣き崩れるように力を失う。


その横で──


拓海は、顔を上げてアミラを見た。


「……頼む。

 “楽にしてやってくれ”」


その言葉に、アミラの目が細く揺れた。


何も言わず、

ただ一つ、頷いた。


左手の義手が静かに変形する。

手首から伸びた鋼線が、

伸縮する刃となってわずかに光を放った。


──風が吹いた。

白い胞子が一瞬だけ舞う。


そしてアミラは、

迷いなく、静かに、前へ進んだ。


ザラだったものは、

まだ歩いていた。


ふらり、ふらりと、

倒れそうな身体を支えるように、だが確実に、前へ。


それはもはや、

生きていた頃の彼女のように、鋭くも、猛々しくもない。


ただ、真っ直ぐだった。


その姿をアミラが見据える。


そして──

一歩、また一歩と、間合いを詰める。


刃は義手の内から静かに滑り出し、

音を立てずに、風と一体化した。


距離が縮まる。


ザラの肩先にあるキノコが、風に揺れた。

その下に──かつての、鋭い目元が、わずかに見えた。


曇っているはずの瞳が、

ふと、光を宿したように──


アミラの顔を、正面から見た。


そして、一瞬──

ほんの一瞬だけ。


その口元が、笑ったように見えた。


──刹那。


鋼が風を裂き、

白い菌糸を払う。


音はなかった。

ただ、風とともに過ぎた一閃が、

ザラの首を、正確に、静かに断ち切った。


その身体が、

何かに抗うように、一度だけぐらりと揺れて──


そのまま、

静かに、崩れ落ちた。


白い胞子がふわりと舞い上がる。

それは、まるで春の雪のようだった。


遺された身体は、

あまりにも軽やかに倒れ、

あのザラの巨躯が、

まるで“重さを手放した”かのように横たわっていた。


アミラは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


そして、

彼女の顔から一筋、涙が頬を伝った。


それでも、誰にも見られぬように、

マントの影に身を引き、静かに振り返る。


拓海とセファは、

声を発せずにただ見ていた。


火の道を遺した戦士。

仲間を守るために命を燃やした者。


──ザラ。


その名は、

風とともに消えなかった。


それは確かに、この盆地に──

この仲間の中に──

永遠に刻まれたままだった。


ザラの遺体は、

湿った大地のそばに、静かに横たえられていた。


炎ではなく──

土に還すことを選んだ。


彼女が守ろうとした場所。

彼女が踏みしめた焦げた道の終着点。


風が通る高台。

苔むした木々が周囲を囲む、

どこか“眠りにつくための場所”のように思えた。


「……ここに、する」


拓海の言葉に、誰も異論はなかった。


アミラは無言のまま、地面を削り始める。

セファも、震える指先で手伝いのスコップを取る。


土を掘る音だけが、空間に響いた。


湿った土の香り。

根の中に混じる白い菌糸。

それらを避けるように、丁寧に掘り続ける。


拓海も、黙って手を動かしていた。


誰かを埋めるのは、これが初めてだった。

だが──この世界で“それは特別なことではない”と、もう知っていた。


穴ができあがる。


ザラの体は、拭かれ、整えられていた。

膨れたキノコは取り払われ、

残った装備の断片は彼女の胸元に置かれた。


その表情は、どこか安らかで、

まるでようやく“任務を終えた兵士”のようだった。


セファはザラリスで摘んだ白い野花を一輪、そっと胸元に添えた。


「……ありがとう、ザラ」


それだけを、絞り出すように言った。


三人は、静かに土を被せていく。


ザラの姿が、徐々に大地に消えていくたびに、

心の奥にぽっかりと空いたものが、

少しずつ、“言葉ではないもの”で埋まっていくのを感じた。


──それは、喪失ではなく、継承だった。


埋葬を終えた後、

拓海はそっと短い杭を地面に打ち込んだ。


その上に、革片で作った“名前の印”を吊るす。


『ザラ』


そう刻まれていた。


風がそれを揺らした。

ゆっくりと、静かに、確かに。


「……行こう」


誰からともなくそう言って、

三人は再び歩き出す。


背後にある小さな墓標は、

もう見えなかった。


でも──彼らの歩みに、

それは確かに、力として残っていた。


かつては瘴気に満ち、深くぬかるんだ泥の沼地だったはずのその一帯は、

今では黒い大地が露出し、足元は乾ききっていた。


先を進むたび、足音が響く。

“ズブッ”という泥の音ではなく、“ザッ”という硬い踏み音。


それがどれほど希望を与えるものか──


誰も口には出さなかったが、

拓海も、セファも、そしてアミラさえも、わずかに歩幅が広がっていた。


「……助かったな」


低く、拓海が呟いた。


誰にともなく放たれたその言葉に、

背後から、セファの小さな声が返る。


「うん……ザラ、最後まですごい……」


彼女の声には、まだ震えが残っていた。

けれど、それを飲み込むように、前を見据えて歩いている。


アミラは何も言わなかった。


ただ、ずっと先頭に立ち、風の中を進んでいた。

義手の中に収めた刃は、もう露出していない。


それでも彼女の背中には、戦士の緊張感と、どこか柔らかな影が差していた。


「ねえ、タクミ」


セファがぽつりと拓海に話しかける。


「……ザラって、あのとき、笑ったよね?」


拓海は足を止めかけ──けれど、そのまま歩を続けた。


「……ああ。見間違いじゃないと思う」


「……そう、だよね」


ふたりの間に、それ以上の言葉はなかった。


ただ、風が通り過ぎ、

焼け焦げた地に白い胞子が、ほんの僅か舞っていた。


まるでそれが──

道しるべであるかのように。


その後の行軍は、驚くほど順調だった。


ザラの炎が切り拓いた抜け道は、

瘴毒の霧すらも晴らし、地形の危険すらも焼き払っていた。


通常の偵察なら半日以上はかかるであろう盆地の横断を、

彼らはわずか一時間と少しで達成しようとしていた。


──そして、ついに。


見えてきたのは、盆地の縁。

黒い湿地が終わり、再び草の根が広がる、東側の丘陵帯。


拓海はそこで立ち止まり、

振り返って、焦げた道の先をしばし見つめた。


「……ありがとな」


誰にともなく、誰よりもはっきりと。


その言葉が風に乗って、黒い大地へと消えていく。


だが──


その“赤き軌跡”は、

もう二度と、誰にも踏み消すことはできなかった。



ー ー ー



再び渡る、朽ちかけた木橋。

そこに、沼の民たちの姿が現れる。


仮面。

貝殻と木の根で編まれた、異様な美しさを持つ装飾。


音もなく現れた彼らは、静かに道を空けた。


その仮面の下にある“本当の顔”を、拓海は知っていた。

男はぬめるような皮膚と、ナマズを思わせる平たい顔。

女はあまりにも整った顔立ちと、首元のエラ。


彼らは人であって、人でなかった。


だが――

彼らと、拓海はすでに一度“誓い”を交わしていた。


村の中央。

かつて儀式が行われた、根の祭壇の前。


そこに、記憶の声が立っていた。


長老は以前と変わらぬ、朽ちた衣と装飾をまとい、

その仮面越しに、拓海たちを静かに見下ろしていた。


「……“虚無の印”の持ち主よ。

 またお前の歩みが、この地に満ちたか」


声は低く、どこか水底で響くようだった。


拓海は首元に手をやる。

粗末な革紐に吊るされた、虚無のペンダントが、わずかに冷たく感じられた。


「……帰ってきたよ。瘴毒盆地を越えて」


「火の者が、道を遺したな」


記憶の声は、静かに頷いた。

その所作は、まるで“未来を既に知っていた”者のようだった。


「その者の命は、道となり、風となり……

 いずれ、我らの歌に加えられよう」


周囲に集まる沼の民たちは誰一人、声を上げない。

けれど、全員が仮面の奥で、何かを感じているのがわかった。


「……少し、休ませてくれないか?」


拓海の問いに、記憶の声はゆっくりと杖を地に突く。


「汝らに、拒む理はない。

 水の者たちよ、客人を迎えよ」


その言葉を合図に、何人かの若い沼の民たちが近づいてきた。

誰も言葉を発さず、仮面のまま、無言で案内を始める。


仮の寝床へ、静かなるもてなしへ──

再び、奇妙な“異界の人々”との時間が始まろうとしていた。


夜だった。


湿った風が、木の幹を撫でている。

ぬるく、重く、それでいてどこか懐かしい匂いを運ぶ風。


拓海は、仮の寝床にされていた“木の幹の住まい”の内側から、

静かに扉を押し開けた。


軋む音ひとつしなかった。

この家は、生きた木を彫り抜いたもので、どこか心臓のような柔らかさを帯びていた。


階段を下りると、湿った根が地面に絡みついている。

その先へ──月光の差す外へ、ゆっくりと歩いていく。


 


周囲には、誰の気配もない。

だが、どこかで短く“ピィ”という口笛が聞こえた。


それは言葉ではなかった。

沼の民たちが眠る前に交わす、挨拶のようなものかもしれない。


拓海は応えなかった。


ただ、足を止めて、

首元に吊るされたペンダントを手に取る。


虚無のペンダント。


儀式の時。

名も知らない神と邂逅を果たしたその証。


小さなガラス玉のようなそれは、

月光を浴びると、まるで内側から淡い青を滲ませた。


拓海は、そっとそれを持ち上げ、

ペンダントの向こうに、空を見た。


──星があった。


しかし、それは地上から見る星ではなかった。

光は明滅せず、形も規則的ではなく、

それぞれが“異なる時を生きている”かのように、

不規則に揺れ、瞬き、流れた。


「……これは、星なのか……?」


ぽつりと呟く。


だが応える者はいない。


ただ、ペンダントがかすかに震えたように思えた。


そしてその時──


まるで視界の奥に、誰かの記憶が流れ込んできた。


燃える森。

呻き声。

泥に沈んだ塔。

青い羽根。

赤子の泣き声。

 

「……っ」


拓海は思わずペンダントから手を放した。

それはゆっくりと胸元に戻り、沈黙を取り戻す。


「夢……か? それとも……“誰かの声”……?」


自分自身にも問いかけるように言う。

けれどその声すら、夜の風に溶けていった。


拓海は静かに目を伏せ、

そして、再び空を見上げた。


仮面の者たちが眠る、

この異質な村で。


──彼だけが、空を見ていた。


先ほどのビジョンが頭から離れない。

火の記憶。青い羽根。赤子の泣き声。


なぜ、それが自分に見えたのか。

なぜ、ペンダントが反応したのか。


わからない。だが──落ち着かない。


「……少し、動こう」


拓海は背に背負った曲刀の柄に手をかけ、

無言のまま、それを引き抜いた。


夜の湿気を裂く、金属の響き。


そして──無心で、振る。


一太刀。

もう一太刀。


ゆるやかな円を描くように。

だが、迷いなく鋭く。


刀身の重みを、身体にしみ込ませるように。


呼吸が整い、意識が研ぎ澄まされるその刹那。


拓海は、かすかな違和感を感じた。


──刀が、光っている。


正確には、刀身の周囲を淡い青白い“霞”のようなものが包んでいた。


それは煙ではない。炎でもない。


ただ、どこか宇宙の塵のような、微細な粒子が浮遊しているようだった。


煌きと、静寂。

そして、その中心にあるのは──虚無。


「……これは、まさか」


拓海は思わず視線を落とす。

胸元のペンダントが、かすかに震えていた。


いや、刀と共鳴している。


それがはっきりとわかる。


彼は一度、刀を振るのをやめ、構え直す。


青白い霞は、なおも刀にまとわりついていた。


その光は、まるで深淵の星々を内包したような輝きをたたえている。


もう一度、振る。


──“ザッ”。


空気が裂けた瞬間、

刀身から放たれた霞がわずかに拡がり、周囲の闇を淡く照らした。


それは光ではない。

ただの明るさではない。


“存在しないものを照らす”かのような、不可視の光。


その時、彼の中で何かが囁いた。


それは言葉ではなかった。

だが、確かに彼の心の奥に落ちてきた。


──“刻め”


「……っ」


拓海は、思わず刀を地面に突き立てた。


霞はすっと引き、刀身はただの鋼に戻る。


だが、彼の手の中にはまだ──

あの“異質な何か”の残滓が、確かに残っていた。


「……ただのペンダント、じゃないのか……?」


それとも、自分の中に“何か”があるのか。


彼はしばらくその場に立ち尽くした。


夜は深く、空はただ静かに瞬いていた。



ー ー ー



夜が明けた。

村にはまだ朝のざわめきもなく、

ただ淡く光苔が滲む時間。


拓海は一人、聖域へと向かっていた。

太古の大木の根元、“記録の根”と呼ばれる地下への螺旋階段を、ゆっくりと。


下りきった先、静謐な広間。

そこに──それは変わらず横たわっていた。


“神骸”。


十数メートルはあろうかという巨躯。


あらゆる方向に裂けた触手のような器官が、絡まり、絡まり、

その中心に、潰れたような半球形の頭部らしき器官が沈黙している。


鱗とも皮膚ともつかぬ外殻は、鈍い銀色。

一部は時間により風化し、

しかし別の一部は、未だに生々しいぬめりを帯びて光を反射していた。


動かない。

語らない。

それでも、“そこにある”というだけで、この空間を支配していた。


「……やっぱり、昨日の感覚は偶然じゃなかった」


拓海は、胸元のペンダントに手を添えた。


その時、背後から静かに声が届く。


「――“書を継ぐもの”よ。神の夢を見たか」


振り向くと、記憶の声が立っていた。


仮面をつけ、根のような杖を持ち、

まるで自分自身もこの大木の一部であるかのように、そこに“生えて”いた。


「昨夜、霞が……剣に、集まった。

 あれは、お前たちの力か?」


「否。

 それは“彼”の残した想念。

 触れた者を選び、器に宿る。

 そのペンダントは鍵だが、開かれた扉の先にあるのは光ではない」


拓海は視線を神骸に向ける。


「……何も語らないのに?」


「語らぬ。だが、“記される”のだ。

 汝は書を継ぐもの。

 見るものではなく、記す者。

 霞とは、存在の余白に刻まれた“記憶のちり”」


その言葉を聞きながら、拓海は剣の柄に触れる。


「……なら、使いこなせば何かを残せるってことか」


記憶の声は、一歩だけ前に出る。

神骸の足元にまで歩み、仰ぎ見るように言う。


「霞を振るうということは、神の見る夢に介入するということ。

 それは代償なくして叶わぬ。

 お前の精神、肉体、記憶の層が崩れ去るかもしれぬ。

 命を賭して、なお“刻まれざるもの”になる可能性すらある」


「……それでも、俺はここにいる」


「だからこそ、神はお前を選んだ。

 “継ぎ手”よ、行くがいい。

 汝の剣で、神骸に“名”を刻め。

 それが、新たな頁となろう」


拓海は無言で剣を抜いた。

その刃に、うっすらと──昨夜と同じ霞がかかる。


青白い、それでいて底知れぬ宇宙の塵のような輝き。


ゆっくりと歩み寄る。

神骸の胸、空洞となったその“核”に、剣先を添える。


そして、刃を滑らせる。


名もなき存在に──

この世界でただ一つ、自分の言葉で名を刻むために。



ー ー ー



大木の根元から、拓海は静かに地上へと戻った。


仮面の民たちはすでに目覚めていたが、

その誰もが、彼に道を譲った。


何かを“終えた者”に対する、畏敬のように。


 


村の外れ、湿地帯に面した開けた場所。


そこには、アミラとセファが待っていた。


まだ朝の光が濃く差し込む前の時間。

濡れた葉の匂いが風に混じっていた。


 


「……遅かったね」


先に気づいたのはセファだった。


軽く汗をかいているのか、額にかかる前髪が湿っている。


アミラは何も言わず、ただこちらを見ていた。


拓海は二人の前で立ち止まり、少しだけ躊躇する。


昨夜のこと。

そして今、神骸に刻んだ“名”。


言葉で説明できることではなかった。


だから──拓海は、刀を抜いた。


「……ちょっと、見せたいものがある」


そう言って、静かに構えを取る。


霞が……出るかどうか、わからない。

だが、感じる。胸の奥がざわめいていた。


一息、吸って──

曲刀を、振る。


その瞬間。


刀身に、あの青白い霞がふわりと立ち上った。


空気が震えるわけではない。

音が鳴るわけでもない。


だが、確かに“何かが削られた”感覚が、世界に走った。


まるで、空間の一部が剥がれ落ちたような錯覚。


「……!」


セファが小さく息を呑む。


その目は驚きと戸惑いに揺れていた。


アミラは──何も言わなかった。


だが、ほんの一瞬だけ、足がわずかに動いた。


それは、即座に抜刀できる体勢に入る前の一歩。


つまり、彼女ですらこの力を“危険”と判断したということだった。


「……大丈夫。制御は、できる」


そう言った拓海自身の声が、少し震えていた。


彼自身、この力が何なのかをまだ理解していなかった。


だが、恐れているだけではいけないということだけは、わかっていた。


セファが、そっと口を開いた。


「……それ、“霞”だよね。

 あたし、霊を扱ってるから……少しだけ、似た気配を感じる。

 けど、これは──“もっと深いもの”に繋がってる……そんな気がする」


アミラはその言葉を受けてもなお黙っていた。

そしてその瞳を、拓海の刀から彼の目へとゆっくり移す。


しばらくして、かすかに首を傾げ──ほんの、僅かに、頷いた。

 

それは、“認識”と、“警告”の両方だった。


「……行こう。まだ終わりじゃない」


拓海はそう言い、刀を納める。


霞はすっと霧散し、空気はもとに戻った。


だが、二人ともわかっていた。


この男は、もう“か弱い青年”ではない。

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