第3話
夜の空気を裂くような、銃声。
──パンッ。
続いて、男の悲鳴。
だがその声はすぐに、何かに叩き潰されたように止んだ。
廃道に散らばる死体。
火のついた車体。
濁った瘴気が漂う中、破壊と蹂躙の音だけが響いていた。
「おいおい、せっかく生け捕りにしたんだぜ?」
「もうちょっと泣かせてやれよ、兄弟」
金属バットを片手に笑うのは、背中にポセイドンの“錨”を模した刺青を入れた男。
革ジャンにチェーン、髪はモヒカン。
歯がほとんど欠けているのに、やたらと笑う。
彼の周囲には、似たような恰好をした異形の“バイカー集団”──
サンズオブポセイドン
「俺らは娯楽のために生きてんだよォォッ!!」
「死ぬまで踊れよォ、傭兵ちゃんよォォオオ!」
地面を這いながら逃げようとした傭兵が、背後からショットガンで吹き飛ばされる。
血が霧のように舞う。
「おい、あんたら傭兵のくせに反撃すらロクにできねえのか?」
ひときわ大柄な男が、ライダースの下から火炎放射器のトリガーを引く。
炎が地面を走り、倒れた兵士の装備が黒く焼ける。
「“商売敵”減らして悪いな。これが俺らの営業妨害ってやつよ」
後方から銃撃を試みた傭兵がいた。
だが、その頭を一発で撃ち抜いたのは、女性の狙撃手だった。
サンズオブポセイドンの中でも数少ない女性メンバー。
眼帯をした細身のシルエットが、無言で銃を下ろす。
「やりすぎだ。これ以上は……」
「……言ったよなあ、アンタ。生かしてどうするって?」
モヒカンの男が笑う。
「こいつらは、誰にも助けられず死ぬべきゴミだ。
そして俺たちは、それを“演出”してやる正義の使者ってわけだ。違うか?」
笑い声。
燃え上がる車両。
そのすべてが、夜の空に映える“闇の火花”だった。
ー ー ー
──ガンッ!
何かがテントの支柱を殴る音。
反射的に跳ね起きた。
「おい、起きろクソ坊主! 生きてんのか!」
ヨミの怒鳴り声だった。
声のボリュームで言えば軍隊レベル。
まぶたの裏がまだ粘ってるのに、体が先に反応する。
「うわっ……なに……朝……?」
「朝だ? 甘えんな。ここじゃ“夜が終わったら働く”んだよ。太陽なんて関係ねぇ」
テントの裂け目から顔を出すと、森の上にはまだ薄い藍色の空。
星がいくつか残っていて、夜明けすら迎えていない。
「今から薪運び。半分でもサボったら、ソフィアの金槌が飛ぶからな」
「……了解です……」
隣で寝ていたリィナが小声で笑う。
「ふふ、頑張って。あたしも初日は死ぬかと思った」
「勇気出るけど……その言い方だと余計怖ぇな……」
寝袋をたたみ、ジャケット代わりの布を羽織る。
足元の冷たさが地面から這い上がってきて、頭がようやく覚醒した。
「つべこべ言わずに歩け。口が動くなら脚も動く」
ヨミは歩きながら、肩に斧を引っ掛けている。
まだ夜と朝の境界線で、森は静かだが──そのぶん、不気味でもある。
「今から薪場まで片道30分。あたしは護衛兼監督。
あんたとリィナ、それと今日の当番が先に待ってる。2人1組で組んで、全員で運ぶ。……ちゃんと役割こなせよ」
「……はいはい」
「聞こえなーい!」
「了解ですッ!!」
森の奥へ続く小道。
その先で、初めての“働く一日”が始まろうとしていた。
森の奥、伐採済みの切り株が並ぶ広場。
冷えた空気のなか、まだ夜明け前の闇がわずかに残っていた。
「……うへぇ。こんなにあるのかよ」
拓海の目の前には、太ももより太い丸太が十数本。
斧も用意されていたが、明らかに“素人に優しくない形状”だ。
「割るのと、運ぶのと、二人一組な。ペアは──」
「おーい、やっぱ私がコイツと組むのかい?」
声が割り込むようにして入ってきた。
そこに現れたのは、上半身裸に近い状態で布を巻きつけた女。
腕には黒い刺青。口には木片を噛んでいて、髪は派手な金色──
だが、それ以上に目を引いたのは、妙に上機嫌な顔だった。
「おう、初対面だな? あたしはベルモット。あんたは……“男の新入り”ってやつか」
「卜部拓海、です。よろしく……って、服着たほうが──」
「暑いんだよ!これでも鍛冶場の隣で働いてるからな。体温高ぇんだ」
「で、あたしは薪割り担当。あんたは運搬な」
「あ、はい……」
「よし!いっちょいくか!!」
そう叫ぶと同時に、ベルモットは巨大な斧をぶんと振り上げ──
バコォン!!
丸太が真っ二つに割れる。
乾いた音と共に、木片が跳ねて辺りに散った。
「お、おぉ……すげぇ」
「すげーとか言ってねえで、はい、これ運べ」
「3往復したら10分休憩、ルールな。じゃないと筋肉がだれる」
「なんだそのルール……」
「筋肉の声を聞くんだよ!生きたければ、筋肉に従え!!」
完全に調子が狂う相手だったが、
拓海は無言で薪を担ぎ上げた。
肩に食い込む重さ、ふくらはぎにたまる負荷。
それでも、彼は一歩一歩、歩き出す。
「……意外とやれるじゃねえか」
ベルモットが鼻で笑う。
「筋肉、案外裏切らねえからな」
ー ー ー
「よし、これで三往復め……」
「っと、筋肉的にはギリオッケーライン……ってとこか?」
ベルモットが斧を肩に乗せて、軽く息を吐いた。
その直後──
「……あ?」
草の茂みが、突然ざわついた。
“ザ、……ザザ……ズリ……ズチャ……”
明らかに風ではない。
地を這うような湿った音。
森の奥の茂みから、何かが踏み出してくる。
次の瞬間、拓海の目に飛び込んできたのは──
血肉で形作られたような、赤黒い猪のような獣。
だが、その目は焦点を結ばず、
皮膚は裂け、筋肉が外へと膨れ上がっていた。
口からは涎ではなく、糸を引いた“血塊”が滴っている。
生き物というより、“失敗作のような肉塊”。
「な、なんだあれ……」
「……これが、魔物?」
拓海が後ずさると、ベルモットは目を輝かせた。
「うっひょー……出たな、“赤喰い”!」
「赤喰い……?」
「生肉しか食わねぇ。死肉は興味なし。
つまり──コイツを狩れば、まだ“食える肉”が手に入るってわけだ!」
「いやいや、待て! 危ないだろアレ!」
「だからラッキーなんだって! 肉は貴重なんだよ、こんな吹き溜まりじゃ!」
ベルモットは斧をくるりと回して構えを取った。
彼女の顔には笑み。だがそれは、興奮に近い本能の顔だった。
「おい、新入り! 今は下がってろ。
でもちゃんと見ておけよ──この世界で“生きる”ってことを!」
魔物が、低い呻きと共に地を蹴った。
血のような唾を撒き散らしながら、突進してくる──!
赤喰いの突進は、地面を引き裂くような音を立てながら迫ってくる。
「そっち、任せたよ──筋肉2号!」
「誰が2号だ。バカ!」
声と同時に、ヨミの巨体が横から割り込むように飛び出す。
タンクトップの肩が軋み、踏み出した片脚が土をえぐる。
「──来いや、クソ猪!」
咆哮とともに赤喰いが突進。
その巨体を真正面から受け止めるのは無謀に思えた──だが、ヨミは避けない。
代わりに、左足をぐっと引き、肩を下げてその突進を受け流すように半身を捻る!
赤喰いの肉塊が彼女の脇をすり抜けた瞬間──
「今だ!!」
ヨミの掛け声と同時に、
ベルモットが後方から“振りかぶりの最上段”で斧を構える。
「ッッッらあああああぁぁッッ!!」
刃が風を裂く。
狙いは──後脚の付け根。
硬化した肉の境目、腱の部分を斜めにぶった斬る!
ゴギィッ!!
重く、湿った裂ける音。
赤喰いの脚が宙で弾け、巨体が地面に崩れた。
だがそれでも、魔物は止まらない。
「生きてんのかよ、コイツ……!」
返すように赤喰いがのたうち回りながら、口から黒ずんだ血を噴き出し、歯をむき出しにして突進してくる。
ヨミはすでに構えていた。
鉄球付きの鎖を腰から抜き、唸りをあげて振り回す!
「調子乗んな、肉ダルマ──ッ!!」
鎖が魔物の顎を絡め取り、引き倒すように地面に叩きつける!
そこへ、ベルモットの斧が連撃で叩き込まれる。
喉、胸、脇腹──的確に急所を狙い、
“肉”を切るのではなく“止める”ために叩くような攻撃。
ズシャッ!ズバッ!ズガァン!!
「おらァァァッ!! 止まれッッ!!」
最後の一撃は頭蓋を断ち割るように真上から。
刃がめり込み、骨の奥で硬い音がした。
──赤喰いは、ぐらりと揺れ、
黒い血と肉の塊を吐きながら、動きを止めた。
深い静寂。
息を整えるヨミと、立ち尽くしたまま肩で笑うベルモット。
「ふーっ……やっぱ筋肉って、裏切らねぇな……!」
「……ふん。少しはマシだったよ」
そう言いながら、ヨミは軽くベルモットの肩を叩いた。
「お前も、ちょっとは脳筋じゃないってわかった」
「褒め言葉と受け取っとく!」
──肉の塊が、ぐずりと音を立てて沈黙する。
ヨミは無言で鎖を巻き戻し、ベルモットは斧の血を振り払う。
全身から蒸気が立つような熱気と、
肉と鉄の匂いが風に溶けていく。
「……終わり、か」
誰が呟いたのかも分からない。
拓海は、その場に立ち尽くしていた。
心臓が速く、重い。
呼吸が浅くなり、口の中が乾く。
それでも、目は逸らせなかった。
──この2人は、俺の世界にはいない。
タンクトップの裾から覗くヨミの腹筋は、まるで彫刻のようだった。
ベルモットの腕は、まるで鉄を叩いたような硬さがあった。
その動き、その呼吸、その戦い方。
すべてが、あまりにも“現実離れ”していた。
ただ力が強いだけじゃない。
命を奪う動作に、ためらいがなく、洗練された美しさがある。
それは恐ろしいほどの“適応”だった。
この世界に、あの魔物に、
そして、“死”という日常に。
「おい、新入り。鼻水垂らしてないか?」
ベルモットの笑い声で、我に返る。
「……いや、すごいなって……その、あんたら」
「ん? あたしら? そりゃまあ」
「こっちは、“生きてる”年数が違うからな」
ヨミが低く呟く。
「ここに来て、誰かを殺して、生き延びて……。
気づけばこうなってたってだけだ」
「でも、あんたもすぐ慣れるさ」
ベルモットがウィンクして言う。
「生きてさえいればな。──な?」
その“笑顔”には、どこか底知れないものがあった。
拓海は、笑い返せなかった。
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
──この世界では、“生きる”ことが、まるで戦場の技術みたいだった。
魔物──“赤喰い”の体は、地面に血だまりを広げながら沈黙していた。
「よーし、肉の時間だ」
ベルモットがナイフを腰から抜く。
刃先は鋭く、反射する朝日が赤黒く揺れる。
「これ、食える部位どこだ?」
「背肉、腹、前脚の上部、あと心臓だな」
ヨミが短く答え、すでに袖をたくし上げている。
拓海はそれを見て、思わず唾を飲んだ。
──これが、“食料”。
さっきまで唸っていた生き物の肉を切り裂いて、
それを焼いて、皆で食べる。
それが日常。
「……俺も、手伝うよ」
そう口にした時、自分でも驚くほど声が震えていた。
「ほー、やるじゃん坊や」
ベルモットが軽口で返す。
「じゃあ、まず皮剥ぎからね。ここ、刃を差し込んで……こう!」
ザクッ。
肉と皮膚の間をナイフが滑る。
内部からぬるりとした体液が溢れ、
腐敗しかけた肉の匂いが風に乗って広がった。
──その瞬間。
「……っ!!」
拓海の喉が、きゅう、と絞まる。
胃の奥が逆流するような感覚。
一歩、後ろに下がって膝に手をつく。
「う、わ……っ、オエッ……!」
こみ上げてくる吐き気に耐えながら、
なんとか地面に崩れ落ちるのだけは避ける。
「……っ、くそ、なんだよこれ……」
「ちょっと!」
ベルモットがナイフを止めて覗き込む。
「マジか、アンタ、初回でやる気出すとか正気じゃねえと思ったけど……案の定じゃん!」
「悪い、俺、平気だと思ってたんだけど……」
「いや、別に悪いとは言ってねぇよ。むしろ普通だろ」
ヨミが無表情に、淡々と言い放つ。
「私も最初はめっちゃ吐きそうだった。
ベルモットなんか、吐き散らかしてたろ」
「ちょ、言うなよそれ!? あれは“脳の防衛反応”だから!」
拓海は、少しだけ笑ってしまった。
「──じゃあ、あとは任せな。
あんたがここで倒れて肉に落ちたら台無しだしな」
ヨミがそう言ってナイフを構え直す。
拓海は、遠巻きに座って、
彼女たちの手際よい動きを見つめた。
──自分は、まだまだ“生き方”が下手くそだ。
森の奥の作業場から、荷を背負ってゆっくりと戻る一行。
拓海は、太腿ほどの薪を麻紐で束ねて肩に担ぎ、
その隣ではベルモットが血の滴る肉塊を網袋に詰めていた。
ヨミは軽々と薪束を二つ抱え、無言で先を歩いている。
「……俺らめちゃくちゃ働いた気がするんだけど」
「まだ朝なんだよな?」
「カレナ=ヴェイルの一日は、長いんだよ。
日が昇ってからが“本番”だぜ」
ベルモットが肩越しに笑う。
空はすでに明るみを帯び、
木々の間から金色の光が差し込んでいた。
地面の湿り気が乾いていく匂いが、鼻をくすぐる。
──そして、見覚えのある影が見えてきた。
「おーい!」
駆け寄ってきたのはリィナと、もう一人の団員。
薪を同じく担いでいて、顔は土と汗で汚れている。
「拓海ーっ、大丈夫だった?」
「うん……なんとか。ていうか、そっちは?」
「こっちもね、倒木があって、けっこう大変だったけど……」
彼女はふと、ベルモットの網袋に目をやった。
「……って、それ、もしかして……!」
「赤喰い。朝イチで“狩りの女神様”が微笑んでくれたってわけ」
「すごっ!……えっ、拓海も一緒に?」
「いや、見てただけ。途中で吐きそうになって……」
「あはは、そうなんだ」
リィナは笑ったけど、それは馬鹿にした笑いじゃなかった。
少し安心したような、柔らかい笑い。
「でも、拓海のことだから手伝おうとしたんでしょ? すごいよ」
その一言が、重い薪の重さを、少し軽くしてくれた気がした。
「よし、じゃあ帰ろっか。ウィンストンたち、朝の点呼やってる頃だよ」
朝の森を、荷物を担いで歩く女たち。
その最後尾に、ややよれた足取りでついていく拓海。
──まるで、
“見えない鎖の輪に、少しだけ入れてもらえた”ような気がしていた。
森を抜けて、拠点が見えてきた。
テントの合間にはすでに人の気配。
焚き火の煙が数本立ち上がり、鍛冶小屋のほうからは金属を叩く音も聞こえる。
「おーい、帰ったぞー!」
ベルモットの大声が飛ぶが、拠点の空気はどこか緊張していた。
数人の団員が、中央の空間に整列していた。
その中央には──黒と赤のスカーフを纏った女。
ウィンストンだった。
「おい、点呼中だぞ」
ヨミが声を低くして拓海たちを制止する。
すぐに、隊列の脇に並ぶように促される。
周囲には、昨日の夜に見た顔ぶれ。
ソフィア、ネリア、そしてまだ名を知らない者たちも含まれていた。
ウィンストンは静かに視線を巡らせ、声を上げた。
「──昨夜の見張り班、北側ルートにて異常接触あり。
……追跡時、リーダー班の一人、“サーヤ”が──死亡した」
静寂。
誰も、声を出さなかった。
「詳細は後ほど記録班にまとめさせる。
だがひとつだけ確認する。
……ここにいる者たちは、彼女の死を“明日の我が身”として受け取れるか?」
誰も、返事をしなかった。
それでもウィンストンは構わず言葉を続ける。
「昨日いた者が、今日いない。それがカレナ=ヴェイルの現実だ。
忘れるな。私たちは“いつでも最前線にいる”」
そう言って、彼女はひとつ深く息を吐く。
「以上、点呼完了。解散。午前の作業は予定通り実施。
食材班、収穫物の確認と報告を。……以上」
言い終えると、ウィンストンはその場を去る。
団員たちも、誰とも言葉を交わさず、散っていく。
──拓海はその場に立ち尽くしていた。
まだ、“昨日”の感触が背中に残っていた。
あの焚き火の温もり、リィナの笑顔、ヨミやベルモットの戦い。
けれど、それらが一瞬で剥がれ落ちるようだった。
「……こういうとこだよ」
リィナがぽつりと呟く。
「別にさ、泣いたり叫んだりしたいけど……
してたら、次は弱い自分がいなくなるから」
その言葉には、年齢にそぐわない重みがあった。
拓海は、拳を静かに握る。
──生きるということは、誰かの死を“上書き”して進むことなのか。
それでも、自分は今、ここに立っている。
拠点の西側、乾燥処理と食料管理のテントへ。
その前にはソフィアが腕を組んで立っていた。
額に汗、口元にはいつもの不機嫌そうな険。
「……その臭い、まさかとは思ったがな」
「その“まさか”だよ。朝の森で赤喰いに遭遇。ヨミと一緒に仕留めた」
ベルモットが得意げに網袋を掲げる。
「焼きと干し、どっちに回す?」
「心臓と背肉は焼き。残りは燻製と乾燥。手ェ抜くと腐るぞ、早ぇからな」
そう言いながら、ソフィアは無言で拓海を一瞥する。
「報告書、ちゃんと記録しとけよ。
重量、処理法、それと……“誰が関わったか”だ。な?」
「え、いや俺は……見てただけで……」
「見てただけでも、“その場にいた”ってのは大事なんだよ。
逃げなかったんなら、それで上等だ」
拓海は思わず黙る。
ソフィアは手早く袋を受け取り、匂いを嗅いで確かめると、低く唸るように言った。
「──よし、処理入るぞ。血抜き、洗浄、カット。
手ェ貸せ。鈍くさくても手伝えることはある」
ベルモットが肉を運び、拓海も言われるがままに板へ並べていく。
ソフィアは慣れた手付きで肉を裂き、内臓を取り分けながら呟く。
「忘れんな。こういうのは全部、誰かが“命賭けて持ち帰った”ってことだ。
腐らせたら殺すからな」
魔物の肉を処理場に並べ終えたところで、
ソフィアは濡れ布で手を拭きながら、ちらりと拓海の耳元に顔を寄せてきた。
「……おい、新入り」
「ん?」
「お前、団長の寝床……“本気で直すことになった”らしいぞ」
「──は?」
ソフィアの口角が少しだけ上がった。
「昨日の“枕直してくれ”ってヤツ、冗談じゃなかったみてぇだ。
今朝の仕事表に、名前しっかり書かれてた。“補修:団長テント、拓海”ってな」
「うそだろ……?」
「ウソじゃねぇよ。あの人、一度口に出したことは忘れねぇタイプだ。
それにな──」
ソフィアはちょっとだけ、いたずらっぽく笑って言った。
「たぶんあれ、“試し”だな。団長なりの。
“こいつ、拠点の一部として機能するか”って」
拓海は、気付けば天を仰いでいた。
「……俺、なんで流刑された先で、団長の枕直してんだ……」
「文句言うな。女の寝床いじれるなんて幸せだと思え、変態」
「ひでぇ!!」
ソフィアはゲラゲラ笑いながら、肉の血を布で拭き続けた。
ー ー ー
テントの布を捲り上げて中に入ると、
ほんのわずかに、火薬と革の匂いが混ざった空気があった。
内部は予想以上に質素だった。
獣皮を敷いた床、簡素な机、手製の棚。
そして奥、毛布と枕のある“寝床”の隣──
団長・ウィンストンは、無言で地図を広げていた。
それは紙ではなく、革布に墨で描かれたもの。
縫い合わせられ、所々補強された、まるで“呼吸する地図”。
拓海は声をかけずに、そっと床にしゃがみ、寝床の補修を始める。
破けた毛布の縫い目を探り、枕の中身が偏っているのを手で揉んで確認。
針を取り出し、ゆっくりと手を動かしていく。
静寂。
針が布を通る音と、革地図をめくるわずかな音だけが重なっていた。
──数分後。
「……お前の世界は、どんなだった?」
不意に、ウィンストンが口を開いた。
拓海は針の手を止めずに、少しだけ目線を上げた。
「……え?」
「その目。あんたの目は……“今でも信じきれていない”目をしてる」
ウィンストンは地図から目を離さず、ただ静かに言葉を続ける。
「私は、この吹き溜まりに来てから、ずっと“今ここにいる理由”を探してる。
だから他人の話を聞くのも、意味があると思ってる」
沈黙。
拓海はしばらく言葉を探してから、低く口を開いた。
「……俺の世界は、便利だった。どこでも物が買えて、誰とも連絡がとれて。
でも……誰かのせいにすれば、何でも済む世界だった」
針がまた布を貫く。
自分の言葉を、縫い付けるように。
「俺は、誰かの“責任”にされたんです。
あの異世界旅行の事件で、転移失敗で、魔物が出て……。
俺は……ただ、当たっただけだったのに」
ウィンストンは、ゆっくりと地図を畳んだ。
「理不尽だったか?」
「……はい。死ぬほど、理不尽でした」
「なら──こっちは、“死ぬより少しマシ”って思うようにすればいい」
ウィンストンはそう言って、ついに拓海の方に目を向けた。
その視線は、昨日のような“隊長”の目ではなかった。
どこか、一人の流刑者として、同類を見つめる目だった。
「……枕、直ったか?」
「ええ。羽毛が片寄ってたんで、しばらくは持つはずです」
「そうか」
短い返事。
だがその声音は、わずかに柔らかくなっていた。
補修を終えた拓海は、
綺麗に整えた枕をそっと毛布の上に戻そうとした──そのとき。
「……ん?」
枕の奥、毛布の陰から、
何か柔らかそうな布のかたまりが少しだけ覗いていた。
拓海は無意識にそれを摘んで持ち上げる。
「……これって──」
それは、手縫いの小さな人形だった。
丸い目、ほんの少し傾いた口。
生地は粗いが、糸の色を変えて髪まで表現されている。
胸には小さな赤い布のリボン。
──明らかに、“愛されて作られた”ものだった。
「──あっ……」
「……見るな!!」
低く、鋭い声が飛んできた。
拓海が顔を上げた瞬間、
ウィンストンは地図を勢いよくたたんで立ち上がり、
一瞬でその人形を拓海の手から奪い取った。
「あれは──……保温用の……布だ」
「いや、明らかに手縫いの人形で──」
「……け、怪我人が出た時に使う“精神安定用資材”だ。
私が所持しているのは、あくまで管理目的だ。誤解するな」
「……めっちゃ言い訳してるじゃないですか……」
「黙れ」
ウィンストンは頬をぴくりと引きつらせながら、
人形を毛布の奥にそっと“戻し”、
表情を無理やり元の冷静さに戻した。
「報告は済んだな。退出してよし」
「えっ、あ、はい……」
拓海は背を向けながらも、背後からの“視線圧”をひしひしと感じていた。
(……今の、絶対に忘れたふりした方がいいやつだ……)
ー ー ー
拠点の東側、石を囲んで作られた焚き火台。
煙の上がる鍋の前に、早朝班の面々がぽつりぽつりと集まり始めていた。
木製の皿に盛られるのは──
今朝狩った赤喰いの肉のスープ煮込み。
臭みを抜くための香草と根菜が、
この世界で育てられた“代用品”であるにもかかわらず、驚くほど香ばしく鼻をくすぐった。
「……いただきます」
拓海は、少し緊張しながらスプーンを手にした。
皿の中では、薄く切られた赤い肉が湯気の中に揺れている。
隣ではリィナがすでに一口食べて、
「ん~、臭くない。ソフィア姐さん、うまい!」と感嘆の声をあげていた。
「そりゃそうだろ」
向かい側から聞こえたぶっきらぼうな声。
ソフィアは皿を片手で掴み、スープを啜りながら一言。
「俺が仕込んだ。文句あんならもう作らねぇぞ」
「ないですッ!」
リィナがすかさず首を振る。
ベルモットは笑いながら肘をついて言った。
「まー、朝から一狩りしたわけだし。これは労働者の権利ってヤツだよなぁ。な、坊主?」
「……確かに。なんか、ちゃんと“働いた分の飯”って感じがする」
拓海が一口スープを啜ると──
肉は少し野趣があったが、確かに“旨味”があった。
塩気は控えめで、素材そのものの味が生きていた。
「なあ、あの赤喰い……」
ふと誰かが言いかけて、言葉を飲み込んだ。
──“命”の話を、食卓に持ち込むのは少し野暮だと、誰もが無言で感じていた。
リィナが静かに火を見つめたまま、小さな声で呟いた。
「……サーヤ、一昨日の夜、私の隣で寝てたんだよね。
……まだ、信じられないや」
誰も、その言葉を否定しなかった。
拓海もまた、黙ってスプーンを握ったまま、
スープの湯気越しに、リィナの横顔を見ていた。
──人は、こんなふうに“死”と“飯”を共に飲み込んでいくのか。
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