第4話

空はすっかり青く染まり、木々の間から差す日差しは、まだどこか冷たい。


拓海は手を軽く拭って立ち上がり、

「ちょっと歩いてきます」とだけ伝えて、焚き火台から離れた。


空腹が落ち着き、ようやく呼吸も深くなってきたところ。

だけど、心の奥にはまだ──どこか“落ち着かない感覚”が残っていた。


「……せめて、何か出来ることがあればな」


テントの外縁をなぞるように歩いていく。

地面には靴跡、削れた草、火薬の残り香。

そこかしこに、“生活”と“戦い”の痕跡がある。


拠点の外周は、自然の木々を利用して囲まれていた。

一部には粗い木の柵が組まれ、ところどころに“見張り台”のような足場もある。


そのうちの一つに、弓を構えて座っている団員の姿があった。

あれは──ネリア、だったか。


(……あんな高いところで、ずっと待機してんのか)


視線を外し、さらに一周。


地面には罠と思しき踏み板。

下草を刈ってある一帯、たぶん“魔物が入り込みやすいルート”だろう。


鳥のさえずり、風の音。

だが、静けさの中にすら、どこか“音が足りない”と感じる。


(……やっぱり、ここって“壊れてる世界”なんだな)


拓海は、枯れた木の根に腰を下ろして、少しだけ深呼吸した。


遠くで、誰かが斧を振るう音が聞こえた。

薪割りか、訓練か、それとも……


──この一時の静けさも、いつ崩れるかわからない。


けれど、

“今この瞬間だけは、息を吐いてもいい”。


そう思いながら、拓海は空を仰いだ。


拓海は焚き火場から少し外れた斜面をゆっくりと歩いていた。

食後の休憩──というには、空気がどこか冷たい。


そのときだった。


──ツン、と鼻を刺す刺激。


その臭いを頼りにしばらく風上へと歩いていく。


すると地面の草が少し不自然に潰れていた。

そこに、黒ずんだ塊があるのに気がついた。


「……何だ、これ……?」


乾きかけたフン。

草繊維や骨片のようなものが混じっていて、匂いは異常に濃い。

だが、見た目以上に──不気味だった。


さらに数歩進むと、またひとつ、

木の根元に、そしてその先にも。


“点”ではなく、“線”で残されていた。


(まるで……拠点を囲むように)


その異様さに胸がざわついた瞬間──


「何してる、こんな場所で」


背後からの声。

振り返ると、タンクトップ姿のヨミがいた。

いつも通りの無表情──だが、目だけは鋭かった。


「あ、ヨミさん。これ……変じゃないですか?」


拓海は地面の塊を指差す。


ヨミは黙って近づくと、枝を拾ってその表面を崩した。

匂いが立ち昇ると同時に、彼女の眉がわずかに動く。


「……これは、“人間のフン”だ」


「──え?」


「いや、違うな……“理性をなくした人間”のだ。

 ……こいつら、“狂人”だ」


拓海の背筋が凍る。


「狂人って……あの、“瘴気”にあてられた……」


「そうだ。一度狂った奴は戻らねぇ。話も通じねぇ。

 そして何より──追い込む前に“じっと見る”性質がある」


ヨミの声が低くなる。


「……複数いるな。移動してねぇ形跡もある。

 つまり、“昨夜から、ここを囲むようにして見張ってた”」


「……マジかよ……」


「まずいな。完全に“群れで拠点を狙ってる”」


ヨミはすぐ立ち上がり、鋭く言った。


「お前は戻れ。団長に伝えるのは私がやる。

 もし道中で何か見たら、すぐ大声出せ。分かったな?」


拓海はうなずいた。

その表情には、ただの恐怖ではない。


──自分が見つけたものが、“誰かを救う情報”かもしれない。


そんな責任が、胸に重く響いていた。


ヨミの姿が木々の向こうに消えたその数分後。

拓海は拠点への帰路を急ぎながらも、どこか神経が張りつめていた。


──“見張られていた”という事実が、地面の温度すら違って感じさせる。


だが、そのとき──


カサ……


小枝が折れる音。


拓海は反射的に立ち止まり、辺りを見回した。

風の音、葉擦れ──それだけ。だが……


カサ……カサ……


──もう一度。


「……誰か、いるのか……?」


返事はなかった。


代わりに──


木の陰から、のそりと姿を現した“何か”がいた。


背は低い。150cm程度。

だが身体は骨と皮だけのようにやせ細り、

皮膚には異様な黒い斑点と、爛れたような傷跡が走っている。


服らしいものはぼろ切れで、手には砕けた石のような鈍器。


何より──その目。


濁り切った白目のなかで、

拓海を見た瞬間、“明確な殺意”だけが灯った。


「……くっ」


拓海は、腰に差していた“皮剥ぎナイフ”を掴んだ。

ベルモットが貸してくれた、小さくても実用的な刃。


手が震える。

汗がにじむ。

それでも、逃げれば追われると分かっていた。


──戦うしかない。


「……来いよ、クソ野郎……!」


ナイフを低く構え、後ろ足に重心をかける。

完全に自己流。だけどやるしかない。


狂人は叫ばない。

ただ──


突っ込んでくる。


石塊を振り上げ、頭上から叩き潰すように突進!


「ッ──!!」


拓海は半歩横に躱しながら、

ナイフを、腹ではなく“腿の内側”へと滑らせるように突いた!


ジュッ──!


肉が裂け、狂人が唸り声を上げて膝を崩す。


だが、止まらない。

次の瞬間、顔面を狙って石塊が振り下ろされる──!


「ッッッあぶねえ!!」


ギリギリで肩をすらせて受け流し、

倒れ込むようにしてナイフをもう一度突き出した──


今度は、喉。


ヂュ、と粘る音。

血が噴き出し、狂人が震えるように後退した。


数歩、ふらついて──


バタリ、と崩れる。


──息が、荒い。


「……やった、のか……?」


初めて、人間を……いや、

“かつて人間だったもの”を、殺した。


震える手で、まだ刃を握ったままのナイフを見下ろす。


それでも──拓海は、その場から目を逸らさなかった。


狂人の死体を前にして、

血の匂いが湿った空気にしっかりと広がっていた。


そのとき、木々を抜けて──


「……いたか」


ネリアが静かに現れた。

弓を背負い、無駄な音を一切立てず、拓海の隣に立つ。


死体と、拓海のナイフに残る血を確認し──


「……やったな」


その一言には、驚きでも賞賛でもなく、事実だけを伝える重みがあった。


拓海が何か言おうとしたその時、

ネリアの眉がわずかに動いた。


「……まずい」


「えっ?」


ネリアはしゃがみ込み、血の染みた地面を指先でなぞる。


「狂人の血は……呼ぶ。

 仲間が嗅げば、“群れ”になる」


彼女は立ち上がり、周囲を一瞥。


「この個体……長くここにいた。

 群れは……近い」


静かな声。けれど、その瞳には明確な焦りがあった。


「作業、中止。今から“棘”を作る。……時間がない」


「棘?」


「木を削って杭にする。……獣も狂人も、踏めば裂ける」


そう言って、ネリアは短く指笛を鳴らす。

音が拠点の方へ走っていった。


「帰れ。……戻って、動け」


それだけを言い、ネリアはすでに木を見回して、

最初の一本を選び始めていた。


拓海は、彼女の言葉を反芻しながら──

自分の手に、まだ乾ききらない血の感触があることを、改めて感じていた。


拓海が拠点へ戻る頃には、

すでに空気が“変わっていた”。


テント群の周囲、

木々の根を切り出す音、杭を削る音、

それぞれの持ち場で、女たちが無言のまま動いている。


焚き火は消され、物音すら抑えられている。

──“気づかれた”のを、全員が察していた。


拠点の外縁には、地面に突すための防衛杭スパイクが積まれていた。

まだ乾かない木肌には、女たちの手の汗と土が染みている。


「……戻ったか」


ベルモットが斧で木を割っている手を止め、ちらりと拓海を見る。

その横ではリィナが、息を詰めながらナイフで角を整えていた。


「アンタ、狂人とやり合ったんだって?」


「……まあ、なんとか。刺しただけだけど」


「刺せりゃ十分だよ。今夜は、刺すどころか“刺されるか”の勝負だからな」


ベルモットは再び木に斧を振るった。


「ソフィアのやつは、入り口の落とし穴の再設置に回ってる。

 ヨミは森側の斥候ライン整理。団長は……地図とにらめっこ中」


彼女は言いながら、拓海の肩に丸太の束を押しつけた。


「手を動かせ。休むヒマはねぇ。

 防衛杭、掘って、尖らせて、立てる。……地獄の力仕事だ。男ならやれるだろ?」


「……が、がんばります……」


「うんうん、いい返事!」


一方、リィナは刃物を握りしめたまま、そっと呟く。


「……これ、ほんとに効くのかな……」


「効かせるんだよ」

ベルモットが力強く返す。


「お前らだって知ってんだろ。

 ──“今日の夜”が、いつもの夜じゃないって」


拓海は、手に丸太の重さを感じながら、

あの狂人の濁った目を思い出していた。


(──殺しに来る)


“奪う”んじゃない。“壊す”んでもない。

“ただ、殺すために来る”のだ。


だからこそ、今──

この針の一本一本が、命の線を引く“最後の境界”になる。


拓海は、汗を拭いながら杭の先端にナイフを走らせていた。

木の断面は固く、手に豆ができかけている。


それでも──作業は止まらなかった。


いや、止められなかった。


(……なんで、こんなに集中できるんだろう)


あの狂人と戦ったときの“震え”は、まだ腕に残っていた。

でも今は、それ以上に──


(ワクワクしてる……?)


杭を突き刺すための穴を掘るたびに、

手のひらに伝わる“土の重さ”が快感だった。


倒した木の重量、削る音、斧が弾く芯の感触。

全てが“生”を実感させるように響いてくる。


(俺、なにか間違ってるのか?)


つい先日まで、普通の大学生だった。

それが今、女たちと一緒に“殺す準備”をしている。


だけど──心は、確かにどこか軽い。


「……おーい、新入り。

 あんまり黙りすぎると、狂人と会話し始めたかと思うぞ?」


ベルモットが冗談めかして言う。


「あ、いえ、ちゃんと削ってます!」


「いいねえ、働く若者は。それでこそ流刑者!」


拓海は微笑みながらも、頭の片隅に浮かんだ言葉を払えなかった。


──“ようやく自分の役目がある気がした”。


不安も、恐怖もある。

でもその奥で、何かがじっと目を覚ましている。


──この世界の“ルール”に、体が馴染みはじめている。


そんな、言い知れない“異常な実感”が、拓海の胸をそっと叩いていた。


丸太を割る音、杭を削る音、土を掘る音。


拠点は静かな緊張に包まれていた。

誰も無駄口を叩かず、皆が黙々と作業に打ち込んでいる。


──そんな中、ふと。


「……風にゆれて、草が笑う、

 獣は寝てる、嘘をついて──」


誰かが、鼻歌混じりに口ずさんだ。


それは、どこの歌かも分からない、

単純で、抑揚の少ない旋律だった。


一瞬、手を止める者が出た。

だけど、そのまま──


「夕日が沈めば、今夜も……

 また、私ら、目を光らせる……」


別の声が重なった。


リズムを取るように、斧が木を叩く。


「……風が、笑ってる……

 ──ああ、死んだふりをしてるだけさ……!」


今度は三人、四人。


いつのまにか、女たちの声が次々に重なっていった。


拓海は驚きながら、斜め前のベルモットと目が合う。


「……これ、何の歌なんですか?」


「ウチらの世界の“戦いの歌”だよ。

 “死ぬ前にしか歌わねぇ歌”とも言われてるぜ」


そう言いながらも、ベルモットは笑っていた。


リィナも口ずさむ。

ネリアですら、低く息を合わせるように、音を重ねていた。


「……でもさ、死なないときもあるんですよね?」


「ある。だから、歌うんだよ」


拓海は、削っていた杭の先端を見つめる。

その向こうで、歌声が広がっていく。


誰も指示なんてしていない。

それでも声は揃っていて、まるで何年もそうしてきたように響いていた。


「……夜が来る」


誰かがそう呟いた。


それでも──この声があれば、怖くはない気がした。


歌声が落ち着き始めたそのとき、

拠点の中央、焚き火台の傍に──

静かに、ひとりの女が歩いてきた。


──ミルラ。


民族調の薄布を身にまとい、

長い黒髪を背に束ねた、ウィンストン盗賊団の副長格。

背筋は凛と伸び、ただそこに立っているだけで、空気が変わる。


誰かが気づいて、手を止めた。

やがて全員が作業を止めて、彼女に視線を向ける。


ミルラは何も言わない。

ただ、そっと両手を胸の前で組み──

目を閉じ、低く、囁くような言葉を紡ぎ始めた。


「──リィ・エン・サファ・ナイル。

  ヘイラ・ロス・フィミール・アム……」


それは、どこの世界の言語かも分からない。

だけど、聞くだけで心の奥に穏やかな波が生まれる、そんな響きだった。


やがて──


「──セイル・アラン……ティル・ミリア」


最後の言葉が紡がれた瞬間、

ミルラの手から、柔らかな金の光が放たれた。


それは風に乗るように拠点を満たし、

杭を削る手、泥を運ぶ肩、

疲れきった脚や、呼吸すら重くなった胸を──

包み込むように癒していった。


「……あ、あったかい……」

リィナが目を瞬かせて呟いた。


「なんだこれ……腕が軽く……なってる……」

ベルモットが驚きと戸惑いの声を漏らす。


拓海もまた、

手のひらの痛みが、嘘みたいに引いていくのを感じていた。

背中の疲労が抜け、視界が澄んでいくような感覚。


(これが……魔法……)


ミルラは、光が拠点を満たすのを見届けると、

一言だけ、静かに言った。


「──命を削る前に、少し取り戻しておきましょう」


彼女の声には力はない。

でもそれが、何よりも強かった。


杭打ちの作業が終わる頃、

拠点の中心へ、ウィンストンが現れた。


黒と赤の中東風衣装、毛皮の肩掛け。

団員たちは自然と作業の手を止め、彼女の前に集まった。


「各員、ご苦労。防衛線は予定より早く整った。

 だが今夜は──奇襲を受けると見て動く」


彼女は手に持った地図(革製のもの)を地面に広げ、杭で押さえる。


「ここが拠点。西側と南に罠を集中。

 北と東には、スパイクと落とし穴、そして斥候を配置」


団員たちは神妙な面持ちで地図を覗き込んだ。


「狂人は集団行動をとるが、秩序はない。

 だが“血”があれば、それが指針になる。

 よって、誘導を兼ねて“焚き火”を囮として南端に配置。

 主力は北で迎撃──それで行く」


短く、要点だけの作戦。だが的確で迷いがない。


沈黙が広がる。


そのとき──


「……あの」


拓海が口を開いた。


「……この配置、危険です」


団員たちの視線が一斉に彼に向いた。

中には眉をひそめる者もいる。


だがウィンストンは目を細めただけで、制止しなかった。


「理由を聞こうか。」


拓海は一瞬たじろぎながらも、前に出て言った。


「……僕のいた世界に、“マラコール渓谷戦”という籠城戦がありました。

 敵は夜襲をかける前に、“明かり”に群がる性質を逆手に取って、

 火を囮に見せかけて……逆方向から本命を回り込ませたんです」


「……ふむ」


「焚き火が南にあるなら、敵も“そこに誘導しようとしてる”と読みます。

 なら“北側”に主力を置くのは、あまりに……読みやすい

 敵が狂人であったとしてもです。」


拓海は息を整えた。


「……誘導するなら、逆です。

 “北を開けておく”ことで敵に誘い込み、

 “南側に伏兵”を──つまり、こちらから襲い返す布陣が理想です」


静寂。


ウィンストンはじっと、彼を見つめていた。

団員たちも、誰もすぐには口を挟まない。


やがて団長は、唇の端をわずかに上げた。


「面白い。

 作戦立案の“素人”にしては──なかなか骨がある」


そして静かに言った。


「──では今夜、その案を採用しよう。

 だが、もし失敗すれば、最初に突撃するのは君だ。いいな?」


「……ッ、はい」


心臓が跳ね上がったが、それでも──

拓海は拳を握り、まっすぐ頷いた。


沈黙。


ほんの一瞬の静けさの後──

拠点の隅から、荒い声が上がった。


「……ちょっと待ってくれよ、団長」


声の主は、髪を刈り上げた大柄な女・ザラ。

元・傭兵風の風貌で、左腕には古い傷跡が目立つ。


「そいつ、来て一日も経たないだろ?

 戦場を歩いたこともねぇ、ただの優男だぜ?」


空気が変わる。


数人が目を伏せ、数人がザラを見やる。

でも、誰も言葉にはしない。


「俺たちは、何年も生き延びてきた。

 “火を囮に”なんて手口で何回もうまくいってきた。

 それを、“歴史の話”で塗り替えんのかよ?」


拓海は口を開きかけたが──ウィンストンが手で制した。


「……言いたいことはわかる。だが、私は判断した。

 “知らぬ視点”こそが、時に戦場をひっくり返すこともある」


ザラは歯を噛みしめた。


「……チッ。あんたが言うなら従うよ、団長。

 けど、死んだら地獄で説教だからな、新入り」


言い捨てるように、ザラはその場を離れた。

木を叩くようにして杭の確認に戻る。


拓海は言葉を失い、ただその背を見つめる。


(……当たり前だ。

 “正論”を言ったって、命がかかってる現場じゃ、邪魔にしかならないこともある)


だが──

ウィンストンは拓海を一瞥すると、短く言った。


「……立てた言葉は、立てた者が守るんだ。

 “伏兵班”、ネリアの下に付け。

 ……失敗は、許されないぞ」


その言葉に、拓海はもう一度だけ、静かに頷いた。



ー ー ー



夕陽が、森の端を赤く染めはじめていた。

空にはまだ明るさが残るが、木々の影は長く、地面には深い緋色が広がっている。


風の匂いが、少しだけ乾いてきた。

それは、この地で“夜が来る”合図だった。


「こっちだ」


低く、ぶっきらぼうな声。


ネリアが先頭を歩く。

その背中に続いて、拓海は斜面の外れにある伏兵用の崖下ルートへと向かっていた。


草が擦れる音、遠くの杭を打つ最後の音。

拠点が少しずつ“動”から“静”へ移り変わるのが、肌でわかる。


斜面を下ると、そこには既に三人ほどの女たちが待機していた。

いずれも弓や短槍を携え、体を低く伏せている。


「拓海、これを」


ネリアが手渡してきたのは──湾曲した鉄の刃だった。


「……曲刀?」


「両刃よりは振りやすい。

 それに“斬りながら引ける”のが利点。

 ……お前に合ってる」


受け取ると、手にずっしりと重みが伝わる。

鉄が冷たい。


刃は若干鈍いが、柄は革巻きで滑りにくい。

刃渡りは70センチ程度──だが、殺すには十分すぎる長さだった。


「……これ、本当に……俺が?」


ネリアは一瞥し、わずかに目を細めた。


「戦場に立つ者は、武器を持つ。それだけだ」


短い言葉のなかに、“信用”と“責任”の両方が込められていた。


拓海は、柄を握り直し、静かにうなずいた。


空が、朱から群青へと変わっていく。


──もうすぐだ。

 風が変わる。

 ……“奴らの夜”が来る


刃を下げ、息を殺し、来たる一撃を待つ。


それが、今夜の役目だった。


太陽が、森の端に沈んだ。


まるで誰かが合図したかのように──

空気が、一変した。


「……風、止んだ」


リィナがぽつりと呟いた瞬間だった。


──オォォォォ……オ、オオ……ォォォ……!


森の奥から、獣でも人間でもない“叫び”が、重なるように響いてきた。

一つ一つは掠れた呻き。だがそれが、

何十、何百という数で折り重なると──地鳴りにも似た咆哮となって広がってくる。


風がなくても、木々がざわめいた。


「ッ、数が……多い」

誰かが、喉の奥でかすれた声を漏らした。


ネリアは弓を握ったまま、低く言う。


「……来る。

 けど、“今”はまだ動くな。

 目視で確認できるまでは──音に飲まれるな」


拓海は、草に伏せたまま、

曲刀の柄を無意識に握りしめていた。


音が近づいてくる。

踏みしめる足音ではない。

這うように、笑うように、囁くように。


でも確かに──それは殺意だった。


(こいつら、“人間”だったのか……?)


鼓動が、うるさい。

だけど引き返す選択肢はない。


(やるしかない……)


誰もが黙り込んだ。

森の奥にいる“何か”の存在を、ただ、耳で感じながら。


戦は、まだ始まっていない。

──だが、息はもう、戦の中にある。

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