狂気猫

ハル

 

 その猫を見たものはみな、狂気に陥るという。


 どんなに高価な宝石もかなわない、神秘的で透徹した虹彩。

 明るいところにいるときやリラックスしているときは細く、暗いところにいるときや興奮しているときは大きくなる、伸縮自在の瞳孔。

 ふっくらと丸みを帯びた顔。

 血管が透けて見える薄い耳。

 いつもしっとりと濡れている鼻。

 オメガのかたちをした口。

 テグスのような張りのあるひげ。

 なめられると痛気持ちいいザラザラの舌。

 優美な曲線を描き、狭いところにも液体のように収まる柔軟な体。

 やわらかくてつややかな毛並。

 クリームパンにたとえられる足先。

 ぷっくりした肉球。

 嬉しいときはピンと立ち、いらだっているときはせわしなく動き、驚いたときはぶわっとふくらむ感情豊かな尻尾。

 俊敏でしなやかな動き。

 甘えるような高い鳴き声。

 日なたを思わせる懐かしい匂い。

 ときには赤ん坊のように無邪気で、ときには運命の女フアム・フアタールのように妖艶な表情。

 目を細めて体をすり寄せていたと思えば、次の瞬間にはぷいと去っていって部屋の隅で丸くなってしまう、自由奔放でつかみどころのない性格。


「猫はみんなそうだろう。何も特別なところなんかないじゃないか」


 と、あなたは言うかもしれない。

 そのとおりだ。

 猫を家に迎えてしまった人間は、しもべとして猫にお仕えし、決して猫の意思には逆らえないようになる。

 猫のおなかに顔をうずめてくんかくんかしなかった日は、夜中にむくりと起き上がり、


「ねこを……ねこをすわせてくれぇ……」


 とつぶやきながら、生ける屍のごとく家中を徘徊するようになる。

 全国各地の猫カフェには、大枚を払ってでもお猫様のご尊顔を拝したい、あわよくばの一筋になりと触れさせていただきたいと願う人々が押し寄せ、さながら通勤地獄。

 猫を――あるいは猫画像や猫動画を一目でも見れば、ふだんはどんなにクールな人間でも気難しい人間でも、


「ねこちゃんねこちゃーん、かわいいでちゅねー。どうちてそんなにかわいいんでちゅか……えっ、ねこだから? そうでちゅよね、とうぜんでちゅよねー」


「うおっ、何だこれは! 眠くてたまらないのにまだ遊びたい仔猫だと!? 破壊力高すぎだろもはや殺人的だろってかオレいまもう死んだキュン死とはこのことかあああっっっ!!!」


 などと、ジキル博士も真っ青の豹変ぶりを見せ、「いいね」ボタンを乱打せずにはいられない(乱打したところで、その数のぶん『いいね』できるはずもないのだが)。

 そのうえ拡散ボタンまで押し、より多くの人々にこの狂気を伝染させてしまうのだ。


 つまり、この世の全ての猫は「狂気猫」なのである。

 人類の大半が、すでに猫による狂気に冒されているのである。

 ただし、これが極めて幸せな狂気であるということも、言い添えておかねばなるまい。


 あっ、「あなたへのおすすめ」に猫動画が……なになに、初めてお刺身を食べてテンション激ヤバの猫? にゃにゃにゃっ!? にゃんにゃんにゃにゃーん、にゃんにゃんにゃにゃーん、うにゃにゃーうにゃにゃーうにゃうにゃにゃー、みゃっみゃみゃっみゃみゃーん、みゃっみゃみゃっみゃみゃーん!


〈了〉

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狂気猫 ハル @noshark_nolife

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