一章④

「――?」

 ノエルは目を丸く開き、そして瞬かせた。

 怪物が消えた。というよりも絵に吸い込まれていったように見えた。

「――っ!!」

 何が起きたのか。そこに気を取られている間に、新たな怪物が彼女に狙いを定めていた。

 咄嗟に身を引く。踵を返し走り出そうとしたそのとき、声が耳朶を打った。

 状況にそぐわない気の抜けた笑い声が。

 ノエルは堪らず足を止める。つんのめって倒れそうになった彼女は、声を気にする素振りも見せず迫ってくる、怪物の姿を間近に捉えてしまった。

「――」

 一瞬。その一瞬が致命的な隙を生んでしまった。或いは、声はこのために発せられたのではとも思った。

 何かを取り戻せた。気がしたのだ。

 これから、失っていたものの続きを描いていけると思ったのだ。

 楽しいと、久々に思えたのに。

 昏い、闇よりも尚昏いものが視界を埋め尽くし、染め上げていく。

「ん――――とうっ!」

 肌に感じていた濃密な死の気配が、風に吹かれたように遠退いた。遅れて先程の笑い声に似た声が、彼女の耳朶を再び打つ。

 怪物が身を反らしている。まるで風にはためく布のように。そして

「…………」

 華奢な背中がノエルの前にふわりと降り立った。

 見覚えのある服装、髪型、その後ろ姿の全てに。しかし誰であったが分からない。

 見惚れる彼女の前で小さな頭がくるりと回り、その顔が明らかになる。大きな目が彼女を映す。

 整った顔はまるでまるで誰かに作られたかのよう。一際目を惹く瞳はその中でも特異で、塗料を厚く塗り重ねたように、光彩がぐちゃぐちゃと波打っている。

 そうして見詰め合っていた時間は数分にも感じられた。怪物の静かな咆哮がそれを遮り、二人は同時にそちらへ顔を向ける。

 ノエルははたと我に返る。怪物は消えたわけではなかったのだ。動ける限り、怪物はヒトを見付ければ襲い掛かる。そして倒すためにはが必要だ。

「ああの、逃げましょう!あいつは――」

「――んんっ……ぱわーーーー!!」

 唐突にでかい声を上げる少女。それは先程聞いた、あの間の抜けた声に相違なかった。珍妙なポーズが異様さに輪を掛けている。

 怪物が身をうねらせ、波濤のように少女へ襲い掛かる。

 反射的にノエルの足は少女の元へ駆け付けようと動いた。ものの数歩の距離が、怪物の速さの前には途方もない道のりとして彼女の前に立ちはだかる。

 間に合わない。一瞬を何十倍にも引き延ばした時間の中でノエルは焦燥と無力感に苛まれる。

 守らなければ。この少女だけは。その思いに対し、現実はただどこまでも現実でしかない。

――――

 獣の激しい唸り声が大気を迸り、一帯に立ち込めた霧をも震わせた。

 瞬間、少女の腰から胴が、肢が飛び出した。

 脊髄を連想させる、幾つもの部品で構築されたそれは蜈蚣のものに相違なかった。

 少女の華奢な身の丈などゆうに越して、重厚で禍々しい尾は瞬く間に成り赤銅色に鈍く輝く。

「――」

 くるりと少女が回る。可憐ともいえる仕草が生み出したが生み出したのは遠心力という破壊力。ノエルは背筋を駆け上がった寒気に咄嗟に足を止める。

 また獣の唸り声が、轟音と豪躯が夜霧を怪物諸共乱暴に引き千切った。

「……っ!」

 暴風に頬を掻き毟られる中ノエルは現れた少女の認識を、より危険で警戒すべきものへと改めていた。

 一方で破裂しそうなほどに高鳴る鼓動には、恐怖以外の何かを感じていた。 

 見覚えのある出で立ち、面相。そして特徴的な瞳。少女はまるで

「――あー」

 怪物を一撃の下に倒した蜈蚣の胴は外套の裾の下に吸い込まれるように消える。徐に振り返った少女はノエルと目が合うなり視線を明後日の方向へ彷徨わせ、そして彼女を捉えた。

 自身の胸に手を当て少女は、ノエルにやや口籠りつつ尋ねるのだった。

「このコを描いたのは、あなたで?」

「――っ」

 存外に低い、中性的な声だった。得心と驚嘆、そして疑念にノエルは瞠目する。やっぱり、なぜ、どうして慎重に言葉を選び組み立て、そして開いたままだった口を閉じ唇を濡らし答える。

「そうだ、けど」

 戦地のど真ん中に居ることを忘れるような沈黙が、ノエルに重く圧し掛かる。

 全身が強張り気が遠くなる。瞬きにさえ制限が掛けられてしまったような緊張に、彼女は少女がすぐ目の前にまで歩み寄ってきていることにもすぐには気付けなかった。

 少女が胸の前で親指を立てた。

「おれは好き。すごく良いと思う」

「――え?」

 先程までの珍妙な挙動から受けた印象からはやや外れた、抑揚に欠ける表情と声音の少女からそう告げられ、ノエルは堪らず素っ頓狂な音を漏らした。頭を殴られたような、強い光を浴びせられたような、そんな衝撃に心身共に強く揺さぶられた、そんな心地だった。

「色は、申し訳ない。勝手に着けさせてもらったけど、いかがかな?」

「いい、と思う。……うん」

 くるりと少女が身を翻せば、灰色の髪が、着崩された黄色の外套の裾がふわりと宙に踊る。ノエルは呆然とただ思ったことを零した。

「あの、さっき――」

「――あー今更なんだけど」

 ノエルが言葉を続けようとしたところで、少女は後ろを振り返りその言葉を遮った。彼女の視線の先では怪物が鎌首をもたげている。

 一体、二体、ノエルが見詰める先で延べ五体の怪物が彼女たちを捉えた。

「あれって、ぶっとばして良かったやつ?」

 そんな怪物たちを指差し少女が訪ねる。ノエルが首肯すると少女は短く「そか」と呟いた。

「じゃあ残りも片付けまっす」

 続く呟きにはほんの僅かに力が籠っていた。

「――」

 知らず喉を鳴らすノエルの前で、少女は大きく足を開き背中を丸める。

 まるでケモノのように。

 蜈蚣の胴だ。しかしノエルの予想通りにはならず、外套の裾が、袖が、靴が端から毒に蝕まれるように黒く染まって、ぼこぼこと不吉に泡立った。

 怪物が少女目掛けて殺到する。その様はまるで獅子や狼が自身よりも大きな獲物に襲い掛かっているかのよう。少女を速やかに討伐しなければならないものとして認識したかのような、ある種の必死ささえ窺われた。

――――

 また獣の唸り声。そして袖口から板がずるりと、勢いよく這い出した。それは毒に濡れて妖しく輝きを放っている。

「剣……ちがう。鋸……?」

 鋩は鋭く尖ってはおらず、刃はぎざぎざとささくれ立っている。ノエルの知るものの中ではそれが最も近い姿をしているが、それとも何かが異なっている。

「――」

 大きく前へ踏み出されている右脚とは反対に、鋸を怪物から隠すように後ろへ引く。そして怪物が肉迫し、刹那。

 ――――

 鋸が鋭く咆哮し、ノエルの目には刃が消えたように見えた。

 猛々しい嘶きに反した流れるような動きで、少女は鋸で弧を描いた。その線上に怪物の巨躯が重なる。

 邪気と質量の雪崩が少女を攫う、その筈だった。しかしその寸手のところで怪物の群れは勢いを失って、足下に僅かな砂礫と塵を残して消えてしまった。

 戦いとも呼べぬ、掃除のような一時。眠るように沈黙してしまった鋸が、元の鮮やかな色を取り戻した少女の外套が、一層その光景から現実味を失わせる。

「……」

 辺りの空気が軽く、呼吸がし易くなっていることにノエルは気付き、近くにはもう怪物が居なくなっていることまでも悟った。

「えーと、何の話でしたっけ?」

 鋸が袖口に吸い込まれていった。踵を返した少女の顔もまた、先程の出来事がなかったかのように、至って平静だ。

「絵のこと。――そう。僕が描いたものだよ」

 そうはっきりと口にしたノエル。その声は少し震えていた。

 少女が静かに彼女の下へ歩み寄る。やがて互いの手が届くところまで近付いた。

「いいね!」

 相好を崩した少女はただ一言そう言って親指を立てた。

「――ぁ」

 そのたった一言がノエルの胸をぎゅっと締め付けた。

 しかし辛くはない。寧ろ抱き締められたような、安心と幸福を伴う、むず痒い快感。

「ありがとう」

 震える声でやっとそう一言押し出した。頬に引き攣ったような違和感がある理由が、彼女には分からなかった。

「――⁉あの、申し訳ない。傷付けるつもりはなかったんですが、あの、何か、すみませんっ!」

 突然慌てて謝る少女。その顔がみるみる滲んでよく見えなくなっていく。

「あのすいません。ハンカチとか持ってなくて」

 そんな少女の声にまた胸が締め付けられる――

――違う。膨らんでいく何かが内側から溢れ出そうになっている。この感覚はきっとさっき絵を描いたときと同じものだ。

 なにかが体を突き動かそうと暴れている。

 もどかしい。けれど嫌な気分ではない。

 どうすればいいのか。答えはこの胸の高鳴りがきっと知っている。ただ身を任せればいい。

「ええと――――?」

 ノエルは徐に少女を抱き締めた。

 もう少女が何者であるかなど、彼女にはどうでもよくなっていた。

 ただ陰鬱だった心を照らしてくれた。胸の高鳴りを思い出させてくれた。その感謝を、この喜びを伝えたくて、その一心で抱擁をした。

「――」

 少女の体の感触が、抱き締めた一瞬後には失われていた。まるで泡が弾けるように一瞬で。

「……」

 腕には、胸には黒いインクが残って、感触の名残と共に少女確かに存在していたことを、ノエルに伝えている。

「……」

 よくあることだ。得られた理解を一瞬で失くすことなど、よくあることだ。

 しかし失望よりも死別の方が、胸に去来する喪失感はずっと大きい。

 ぴたりと止んだところでようやく、ノエルは先程まで自分が泣いていたことを知った。

 そのまま彼女は糸に吊られるように踵を返し、拠点へ戻る。

 霧は薄れ奇怪な植物群はまるで何かの冗談であったかのように、本来の草木の姿を取り戻していく。夜明けが近い。が大型の怪物を殲滅したことも、或いは手伝っているのだろう。

 そんなことなどノエルにはもうどうでもいいことだった。喪失感に苛まれる彼女の心には一日、一夜無為に生き延びてしまったという事実だけがひどく重く圧し掛かっている。

 どうでもいいと思ってしまう程に、彼女の心は虚ろだった。

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