一章➁

 それは事実上の死刑宣告だった。

「……」

 それを受け、ノエルはただ沈黙を以て命令を受諾する。

 そうするより他に、彼女に道などなかった。

 与えられた装備は任務の過酷さに反して至って簡素で、それを受け取る者の命がいかに軽く、安価であるかを分かり易く示している。

 不遇だと、非道だと思う気持ちはもう、彼女の中には残っていなかった。

 そんなものはもう削れて、潰れてなくなってしまった。

 そうして放り出されたのはのひしめく、ごみ箱とも呼ばれる森。ここに居るのは生きている英雄ケダモノか、死んだごみか、まだ命だけはある骸のいずれか。

 ノエルは、自身が後者であることを理解している。

 立ち込める死の臭い。そして霧。生い茂る禍々しい形をした樹木の陰に身を潜め、彼女はペンを握る。そこに至るまでに彼女の意思はもう殆ど無く、ただの習慣か癖か、或いは条件反射が体を駆っていた。

「…………っ!」

 しかし筆は何も描かない。まるで反発する磁石のように、地面に触れないぎりぎりのところで、握る手と一緒に震えるばかり。唇を強く引き結んだその表情は、何かに怯えているような、何かに耐えているような、いずれにせよ必死さに染まっている。

 ようやく筆先が地に降りるも、やはり何も描かない。

「――っ!」

 ノエルは筆を握る手を振り上げた。周囲を敵に囲まれていることさえ忘れているようだった。しかしその手は糸が切れたように力なく落ちた。

「なんでだよ……、なんなんだよ……っ!」

 異形の敵が蠢き、周囲が不吉にざわめく。慟哭さえも、何処にも届くことなく消えた。

 何で。どうしてこうなった。

 初めは、ただ絵を描くことが好きだった。それだけだったのに。

 今は何も描けない。

 描きたいものを否定された。

 もっと勇壮なものを。もっと神聖なものを。もっと猛々しいものを。

 怪物を打倒し得るものを描くようにと強制された。

 想いの籠らない絵には力など宿らない。ただ命令するだけのものには、そんなことが分からない。

 戦えそうなものを描くから強いのではない。強くあるようにと、何かを打ち倒せるようにと、護れるようにと願われたからこそ、戦えるのだ。

 描くことが恐くなった。絵は何かを傷付けるためのものではない。それは怪物であっても同じだ。

 しかし誰かを傷付けられない絵を、描けないものをは赦さない。

ついに何も描けなくなった。もうなにも描きたくなくなった。

 なのに。なのになのに。

「……っ」

 手はまだ筆を離さない。

 もう何もしたくないのに。ここで何もしなければ、痛いと思うよりも早く死ねるのに。

 また本能が足を動かした。飛び退いた場所が一瞬後には穴になる。

 悔しい。恐ろしい。死にたい。生きたい。投げ出したい。見捨てられたくない。混ざり合ったそれらが膨張して、ノエルを内側から圧迫する。気持ち悪い。

「――、――」

 胸がむかむかする。吐きそうだ。もう碌な食事も配給されていない中で、吐けるものなど、入っていないだろうに。

 気が狂いそうだ。そう思ったところでノエルは自嘲する。まだ正常なつもりでいたのかと。

 陰から顔を出して様子を窺う。怪物にはまだ見つかっていないようだった。

 怪物『霧魔ナイトメア』悍ましい姿をした何か。何処からやって来たのか。体の構造がどうなっているのか。誰にも未だ何も分かっていない。分かっているのはヒトを見付ければ襲いかかること。そして死骸は残らず、また捕えることも出来ない。

 霧と共に現れ、霧と共に消える。ということだけ。

 正気であることに、今更どれだけ意味があるのだろう。獣の腹を開いたような生臭い悪臭を孕んだ霧の中でノエルは思った。

 国のため、組織のため、世のため人のためと使い潰されて、正気だと思い込もうとしている自分は、何を恐れているのだろう。

 あんな風に狂ってしまえば、申し訳程度の食糧と尊厳に縋り付かずとも幸せになれるだろうか。

 笑えるだろうか。

 ノエルは地面に膝を着く。筆はやはり震えて、虚空で止まる。

 何がしたかったんだろう。

 分からない。

 足音が近付いてくる。背中を駆けあがった冷たく痺れるものに、ノエルは見付かったのだと直感した。

「――っ!」

 逃げる。何から?答えるよりも早く体が動いた。

 地面に線が引かれる。先頭を走る筆の後を追って。それは輪郭を描いていく。

 勇壮な戦士か。違う。強靭な獣か。違う。重厚な武器か。違う。どれも違う。

「――、描けた」

 つまらないしがらみも、押し付けられた建前も、近付いてくる濃厚な死の気配さえも振り切って、何も考えず、ただ手を動かして描き上げられたものは。

 もうずっと描いていなかった、ただ愛らしいだけの女の子だった。

 思っていたよりもずっと線は乱れて、構図も滅茶苦茶で、一瞬後になってしまえばなんだこれはと笑ってしまうような

 それでもずっと描きたかった、描いていて楽しいと思えていた、武器も戦う能力も何も持っていない、女の子。

「描けた」

 振り返って、ノエルは怪物にそう笑いかけた。自慢するように、見せびらかすように、無邪気に笑った。

 怪物は振り上げる。腕か尾かも分からないものが持ち上げられる。

 絵はただ絵のまま。ノエルを助けるために動き出すことなどない。

 別にそれで構わなかった。戦わせるために描いたわけではないのだから。

 妙に清々しい心持ちで彼女は怪物の攻撃を受け入れる。

 今度はもっと上手く描けただろうと、少しばかり残念に思いながら。

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