第十五話:買い物の約束

 葵の「特別」という言葉に、俺は少なからず動揺していた。彼女の言葉は、まるで俺の心の奥底に、これまで意識してこなかった感情の種を蒔いたようだった。だが、そんな俺の気持ちとは裏腹に、現実は目まぐるしく過ぎていく。




 『イノベーション推進室』は、社内で確固たる地位を築き、次世代ワークスタイル改革プロジェクトも順調に進んでいた。俺は室長として、新たな企画の立案や人員の調整で、目が回るような忙しさの中にいた。会社の顔として注目されることは喜ばしいが、その分、時間的な余裕はどんどんなくなっていった。




 そんなある日のことだった。




「吉野さん、あの、ちょっとご相談があるんですけど…」




 ジムでトレーニングを終えた後、休憩スペースで水を飲んでいると、葵が少し遠慮がちに切り出してきた。




「どうした、葵ちゃん。また何か面白い企画のアイデアでも浮かんだ?」




 俺がそう尋ねると、葵は少し困ったように笑った。




「いえ、そうじゃなくて…その、吉野さん、最近、すごく体形が引き締まってきましたよね?」




「そうかな? まあ、なんだかんだでジムで鍛えさせてもらってるからね」




 俺は少し照れくさそうに頭を掻いた。彼女の言葉はいつもストレートに斬り込んでくる。




「はい! だから…その、新しい服を買った方が良いかもしれません」




 葵の言葉に、俺の表情は固まった。まさか、自分のファッションについて指摘されるとは。俺は自分の着ているジャージに目をやり、それから葵の顔を見た。




「買った方がいいか…? 別に、今のままでいいんじゃないか?」




 俺は抵抗した。服なんて、着られればなんでもいい。これまでそう思って生きてきた。




「ダメですよ! せっかく吉野さん、体も引き締まって、すごく格好良くなってるんですから! もっと、吉野さんの魅力を引き出せる服、選びませんか?」




 葵は俺に真っ直ぐに訴えかけてくる。その瞳は真剣そのものだ。まるで、俺の未来がかかっているかのように。




「魅力を、引き出す…?」




 俺は腕を組み、困惑した。データ分析でどんな難題にも対応するつもりだが、服選びとなると途端に及び腰になる。自分でも呆れる。




「はい! 吉野さんは、もっと素敵な服を着れば、さらに周りの人が吉野さんのことを見る目が変わりますよ! きっと、藤原さんも、もっと吉野さんに注目しちゃいます!」




 葵は、あの藤原あかりの名前を出すと、俺の顔色を伺うように少しだけ微笑んだ。ビジネスチャンスに繋がるという言葉には、俺も弱い。それが葵の戦略だと分かっていても、抗えないものがあった。




「うーん…でも、俺はそういうの、よく分からないし…」




「だ・か・ら、私が付き添いますよ! 私、吉野さんのこと、一番よく知ってるんですから! 吉野さんにいちばん似合う服を、きっと見つけられます!」




 葵は畳みかけるように言った。彼女の熱意は、まるで嵐のようだ。この純粋な好意と、俺を輝かせたいという彼女の想いを、俺はもう拒絶できなかった。




 俺はしばらく葵とジャージを交互に見比べていたが、やがて観念したように大きくため息をついた。




「…分かったよ、葵ちゃん。そこまで言うなら、君に任せるよ。でも、似合わなかったら、すぐに脱ぐからな」




「やった!」




 葵が小さくガッツポーズをする。その弾けるような笑顔を見ていると、俺の心にも、少しだけ新しい挑戦への期待のようなものが浮かんでくる。




(俺の魅力を引き出す、か…)




 そうして俺は、葵に勧められるがままに、ショッピングモールへと向かうことになったのだった。

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