第十六話:試着室の向こうで

 葵の熱意に押され、渋々ながらも服を買いに行くことになった俺は、日曜の昼下がり、葵と共に都内の大型ショッピングモールにいた。休日ということもあり、大勢の人で賑わっている。普段、用事でもない限り、こんな場所には来ない俺にとって、この人混みは少々気疲れした。




 約束の時間に、待ち合わせ場所に着いた俺は、思わず息を呑んだ。そこに立っていたのは、いつも制服姿とは異なる服を着てまるで別人のような葵だった。




 純白のワンピースを身にまとい、髪はふわりと巻かれ、足元はヒールの低いサンダル。清楚な雰囲気はそのままに、驚くほど女性らしい魅力を放っている。周囲を行き交う人々も、遠巻きに彼女を見つめているのが分かった。まるで、雑誌から抜け出てきたモデルのようだ。




 俺は、そのあまりの変化に、思わず数歩後ずさりそうになった。まさか、葵がここまで変身するとは。やや及び腰になっていると、葵の方が先に俺に気づいた。




「吉野さん! こんにちは!」




 葵は、にこやかな笑顔で俺の方へ歩み寄ってきた。その柔らかな笑顔と、どこか大人びた雰囲気とのギャップに、俺はさらにドキリとする。




「吉野さん、どうですか? このワンピース、変じゃないですか?」




 彼女は、少しはにかんだように尋ねてきた。その瞳は、俺の感想を心待ちにしているようにキラキラしている。




「あ、いや…その、すごく…似合ってる。綺麗だ」




 俺は精一杯の言葉を絞り出した。普段、女性を褒めることに慣れていない俺にとって、これ以上の言葉は出てこなかった。だが、葵は、その言葉で十分だったようで、嬉しそうに微笑んだ。




「よかった! じゃあ、まずはあっちのお店に行きましょう!」




 葵は楽しそうに俺の手を引く。その無邪気な笑顔を見ていると、来るのが億劫だった気持ちも、少しずつ薄れていく。




 向かったのは、普段俺が足を踏み入れることのない、若者向けのセレクトショップだった。並べられた服は、どれもこれも鮮やかで、俺の地味なワードローブとはかけ離れたものばかりだ。




「吉野さん、これとかどうですか? 吉野さんの肌の色に合いそう!」




 そう言ったかと思えば、




「あとは、このシャツもいいですね! いつもと雰囲気が変わって、きっと格好良くなりますよ!」




 なんて言って別のシャツを合わせてきたりする。




 葵は目を輝かせながら、次々と服を選んでいく。その一つ一つに、明確な意図があるのが見て取れた。彼女は、俺の体型や雰囲気をしっかりと見て、似合いそうなものを選んでくれている。その真剣な眼差しに、俺は少し気恥ずかしさを感じた。




「さあ、吉野さん、これ試着してみてください!」




 次々と渡される服を抱え、俺は試着室へと向かった。慣れない服を着るというのは、こんなにも落ち着かないものなのか。




 一つ目のシャツに着替えて、試着室のカーテンを少し開けると、葵が外で待っていた。




「どうですか、吉野さん!」




「うーん、なんか、落ち着かないな…」




「そんなことないですよ! すごく似合ってます! スタイリッシュで、吉野さんの雰囲気に合ってます!」




 葵は目をキラキラさせて、褒めてくれる。彼女の言葉は、いつも俺に自信を与えてくれる。




 次に取り出したのは、伸縮性のある薄手のニットだった。それを頭から被り、腕を通そうとした時、俺はふと、試着室のカーテンの隙間が、少しだけ開いていることに気づいた。そして、そのわずかな隙間から、葵の視線が、俺の身体に向けられているのを感じた。




(まずい…)




 俺は慌てて身体をひねったが、時すでに遅し。葵は、俺の体を見て、明るい声で言った。




「吉野さん、随分鍛わって来ましたね!」




「あ、いや……お陰様でな」




 俺は顔が熱くなるのを感じた。普段はジャージで隠れている部分を、こんなにも無邪気な視線で見られていると思うと、全身がむず痒くなる。だが、同時に、彼女の視線が、俺の努力を認めてくれているようで、悪い気はしなかった。むしろ、少しだけ誇らしい気持ちすら湧いてきた。




「吉野さん、他にも色々試着してみてくださいね!」




 葵は楽しそうに、さらに服を渡してきた。その中には、これまで俺が絶対に着たことのないような、鮮やかな色のニットや、細身のパンツもあった。




「なぁ、葵ちゃんも何か見ないの?」




 俺は、ふと思い立って尋ねた。彼女ばかりが俺の服を選んでいるのは、なんだか申し訳ない気がしたのだ。




「え? 私ですか? うーん…」




 葵は少し考え込んだ後、にっこりと微笑んだ。




「じゃあ、私、吉野さんの選んだ服も見てみたいです!」




「俺が…?」




 まさか、俺が葵の服を選ぶことになるとは。普段、自分の服すら選ばない俺が、彼女の服なんて、一体どうすればいいんだ。




「はい! 吉野さんのセンス、私、信じてますから!」




 葵のキラキラした瞳に、俺は断ることができなかった。彼女の言葉に背中を押され、俺は生まれて初めて、女性服のコーナーへと足を踏み入れた。




(葵ちゃんに、似合う服…)




 俺は、ショップに並ぶ様々な色の服を眺めた。普段の清楚な雰囲気も良いが、葵にはもっと別の魅力もあるはずだ。例えば、健康的な美しさとか、無邪気な明るさとか。




 何着か選んで、葵に渡すと、彼女は嬉しそうに試着室へと入っていった。試着室のカーテンの向こうから、彼女の「わぁ、素敵!」という声が聞こえて来て、ほっと安心した。

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