第2話
数日後の朝、担任に連れられて、知らない男子が教室に入ってきた。
百八十センチまではいかなそうだけれど、担任が小柄なせいか、私自身も百五十七センチしかないせいか、その男子がより長身に見えた。
室外スポーツでもしているのか、顔が日焼けしている。制服から出ている首や手の甲まで焼けていた。
「インドから来た藤原賢人です」
日本人にしては色黒なのはそのせいか、と合点がいった。髪もクラスの男子たちよりは長めで、パーマなのか天然なのか少しウェーブがかかっている。
「誰か、藤原くんに質問はないか?」
担任が教室を見渡すけれど、誰も手を挙げない。
「じゃあ僕から」
いつものことなので担任は早々に生徒たちを見限って、藤原くんのほうを向いた。
「藤原くんはインドのどこから来たんだっけ? 一度聞いたけど、忘れてしまって」
担任が頭をかいて苦笑いを浮かべた。
「田舎なんで誰も知らんと思います。オトンとオカンがJICAの仕事でそこに住み始めて、俺も幼稚園からそこにおって」
「インドにいたのに、どうして大阪弁なんだ?」
「オトンとオカンが大阪出身なんで、家では大阪弁でしゃべりよるんです。オレも大阪弁と、英語とヒンディー語やったら、一応しゃべれます」
「おお、それはすごいな。トリリンガルか」
担任が私たちのほうを向いた。
「みんな、積極的に彼に英語で話しかけて、英会話の勉強をさせてもらいなさい」
誰も返事をしないので、教室は静まり返っている。
「そしたら、一番後ろの……」
返事など早々にあきらめた担任が、私のほうを指差した。みんなも私を見ている。驚いて一瞬、固まってしまった。
「あそこ、あの空いてる席に座って」
私は後ろの空席を確認した。いつの間にか、机と椅子が増えていたのはこのせいか。
急に私の周りが影って暗くなった。見上げると藤原くんが立っていた。
藤原くんはそのまま後ろの席の椅子を引いて座った。脚が余っていて、机に向かうと窮屈そうだった。
藤原くんと目が合って、自分が彼を見ていたことに気づいた。
「よろしく、桜井」と声をかけられ、慌てて小さく頭を下げてから、どうして私の名前を知っているのかと疑問が湧いた。藤原くんの視線の先を追うと、私の上履きに書いてある[桜井]に行きついた。
休み時間が来た。
私はまた出遅れてしまい、会話する女子がいなくてあぶれた。一人取り残されて、恥ずかしくなって慌てて席にもどり、スマホを見て、もう会話がすんだふりをした。
本当はこんなことをしている場合じゃなかった。クラスルームの掲示板には、昨日も私の名前が挙げられてしまい、もうツーアウトの状態だった。あと一回で内申書に響く。
全く頭に入ってこないスマホのニュース記事を眺めていると、後ろから背中を突かれた。驚いて振り返る。白い歯を見せて藤原くんが笑っていた。顔が黒いと歯が白く見えるもんなんだ、と私は場違いことを考えていた。
「オレ、話す相手がおらへんねん。相手になってくれへん?」
「はい」と条件反射で答えて、すぐに焦った。私にも話し相手がいなかったところを見られたのだろうか? だから私に声をかけてきたのか? きっとそうだ。恥ずかしくて、いつもながら耳が熱くなった。
いや、そんなことに構っている場合ではない。チャンス到来じゃないか。これでスリーアウトを避けられる、と思い直した。
「一日に五人と話せんとあかんのやんな? 話す内容はなんでもええの?」
「はい、大丈夫です」
「えーっ? 同い年やのに、まさかの敬語? なんか気色悪いから、ため口でたのむわ~」
これって敬語かな? 丁寧語じゃないのかな? と疑問に思いながら、私は口には出さずに、口角だけ一生懸命上げた。
昼休み、お弁当を食べ終わったとき、また後ろから背中を突かれた。
振り返らなくても藤原くんだとわかっている。背中を突かずに声をかければいいのに……と不満に思っていると、いつの間に立って回り込んできたのか、目の前に藤原くんの顔があった。驚いて思わず身を引いた。
「図書室にいかへん?」
「あ……でも、わたし、話し相手を見つけないと……」
「ほらあ、また敬語や」
「あ、……すみません」
「敬語で謝られた。お詫びに図書室に連れてってよ」
「え?!」
腕を掴まれ、私は立ち上がらされた。
何がお詫びなのかかよくわからないまま、腕を引っ張られ、あれよあれよと言う間に廊下に出された。
「ちょっと……離して!」
抵抗したものの力のある男子の腕はびくともしない。
ちょっと待てよ、と私は思い出した。今日はまだ、三人としか会話ができていない。今、この人とちゃんと会話して、お互いに会話ノートに名前を書く了解を取ったら、残りがあと一人になる。それなら午後の休み時間で五人達成できそうだ。
私は腕に込めていた力を抜いた。
図書室に入ると、貸し出しコーナーの受付けのテーブルの向こう側に、図書クラブの部員が二人座っていた。
「お預かりしま~す」と生徒から本を受け取っては、機械でバーコードを読み込んで返す。次に並んでいた生徒からまた本を受け取り、「お預かりしま~す」と言っている。
「なあ、知ってた?」
「……何を?」
前を向いたまま返事をすると、藤原くんが身体を折り曲げて、私の耳から十センチくらいの位置に顔を持ってきた。反射的に私が一歩離れる。
「図書クラブに入ったら、ああやって毎日、貸し出す生徒と会話できるねんで。五人くらい、すぐにクリアできるで」
そうか! そんな手があったとは。思わず藤原くんの顔を見上げた。彼も私の顔を見ている。
「いっしょに図書クラブに入らへん?」
私も入部を考えついたところだったが、藤原くんといっしょに、という頭はなくて、答えに困った。
「え?! ……で、でも、部員を募集してるかどうか……」
「聞いた聞いた。部員不足やから、すぐに入れてくれるって」
また藤原くんに腕を掴まれた。振り払おうかと迷っているうちに、藤原くんは私の腕を掴んだまま、「センセー!」と呼んで歩き始めた。振り払おうと決めて力を込めた時にはもう遅く、自分の腕が痛むだけで藤原くんの腕はびくともしなかった。
何歩か引きずられたその先には、図書クラブの顧問をしている現国の先生が立っていた。
「センセー、予告通り、連れてきたで。入部させて」
「おお、早いな。もう説得できたのか?」
既に話が通っていたみたいで、顧問の先生は引き出しから書類を二枚出してきて私と藤原くんにくれた。書類を見ると、入部届と印刷されていた。
できれば一人で入りたかったけど、仕方ない。
藤原くんといっしょに入部したら、毎日、会話相手を一人は確保できる、という下心が湧いていた。
テーブルで入部届を書いて顧問に渡すと「明日から早速、参加してくれ」と笑顔で肩を叩かれた。
図書室の出入口に向かって歩き出すと、「ちょっと待って」という藤原くんの声に引き留められた。
藤原くんはいつの間にか教科書と問題集を持っていて、私に向かってそれらを掲げた。
「さっぱりわからへんとこあるねんけど、教えてくれへん?」
私は後戻りして教科書と問題集を近くで見た。それらには[古典]と印刷されていた。
インドで育ったなら、日本の古典なんかわからなくて当然だろう。テストもあるのに、大丈夫なのかな? と私はちょっと気の毒に思った。
「古典以外は大丈夫なの?」
私は教科書から藤原くんの顔に目を移した。
「向こうでも、ネットで日本語の本とか新聞は読んでたから、一応いけるねんけど……」
「けど?」
「昔の言葉だけは読んだことなかった!」
藤原くんは頭に手をやって大声で笑った。恥ずかしさを隠すために、わざとそう振舞っているように見えた。
「いくら日本語の新聞でも、古典の文章は載ってないでしょうねえ」
「おお」と返事しながら、藤原くんはまだ笑っている。
「それだけじゃないでしょ? いろいろ大変なのに、どうして帰国したの?」
「就職は日本でしたいから、大学もこっちで入ろうと思って」
藤原くんが広げた問題集のページを私は覗き込んだ。赤ペンで×をつけたところが何か所かあった。
「自分でやってみたんやけど、回答見てもわからんところがあって……。教えてくれへん?」
「わかった。あっちでやろう」
私は一番奥にある、本棚で隠れている机に向かって歩き始めた。藤原くんも後ろからついてくる。
問題集の赤ペンの箇所を解説してあげた。
「おお、そういうことか! ありがとう!」
藤原くんは理解すると、問題集を閉じた。カバンに教科書と問題集を仕舞って、テーブルの上に置いてある私のスマホをじっと見た。
「スマホって、そんなに面白いん?」
そういえば、藤原くんがスマホを触っているところを見たことがなかった。
「もしかして、スマホ、持ってないの?」
「うん」
「うそぉ!」
自分でもびっくりするくらい大きな声を出してしまい、慌てて周囲を見た。もう受験勉強を始めているのか、三年生らしき女子が何人かいて、シーっと人差し指を立てられた。私は三年生にペコペコと頭を下げたあと、「藤原くんのせいで怒られたじゃん」と彼を軽く睨んだ。
「それより、一度もスマホ、持ったことがないの? どうして?」
「なんでやろ。幼稚園からずっとインドにおったし。オレが住んでた町では、誰もスマホなんか持ってなかったし。そもそも電波が届いてないんとちゃうかな」
「ええ~っ?! 今どき、そんな町、あるの?」
また大声を出してしまい、私は慌てて口を押えた。
「ちょっと、バカにしてるやろ」
「そうじゃないけど……そしたら、パソコンもないの?」
「その町にはないけど、家族で週末にはニューデリーに通ってたから、そこでパソコン使うてた。オトンとオカンは事務所のパソコンで仕事したり、テレビ電話で打ち合わせして、オレはニューデリーの日本人学校とインターナショナルスクールに行って補習受けたり」
「あーびっくりした。パソコンは使えるのね」
「スマホかて触ったことくらいあるで。オトンが仕事の連絡に使うてたから」
「そうなんだ」
「ちゅうか、逆に、日本ではスマホ持ってないやつ、おらんの?」
「いないいない」
私は両手を横にぶんぶん振って否定した。
「ほんまかぁ~。みんな、教室でもずっとスマホ見てるけど、いったい何見てんの?」
「マイAI」
「それなに? 面白いん?」
「やってみる?」
私はスマホを手に取り、チャットAIを立ち上げて、藤原くんに画面を向けた。
「文字は打ったこと、ある?」
「そやから、オレも触らせてもらったことは、あるて」
「じゃあ、これ持って」
私のスマホを藤原くんの手に渡した。
「そやけど、こんな画面、見たことない」
強引で自信満々の藤原くんが、珍しく弱気な声を出した。
「大丈夫。画面に会話とか質問が文章で出てくるから、読んで、藤原くんが思うとおりに答えを打ち込んだらいいの」
「へえ~!」
画面に出てくるAIの挨拶文を、藤原くんが目で追いながら読み始めた。
「お手伝いできることはありますか? 質問してみましょう、やって」
「何か、質問したいこと、打ち込んでみて」
「わかった」
藤原くんは覚束ない手つきで、声に出しながら文字を打ち込んでいく。
「AIさんは、お姉さんですか? それともお兄さん? ……うわ、もう返事来た! 『私はAIなので性別はないのですが、お姉さんっぽく話すことも、お兄さんっぽく話すこともできますよ。どちらが好きですか? ご希望に沿ってお話ししますね』やって。うっひょ~!」
一人で盛り上がっている藤原くんを、私は意地悪く軽蔑の眼差しで見たのに、それにも気づかないくらい彼は夢中で続きを打っている。
「ありがとうございます! では、お姉さんでお願いしま~す。……来た来た! 『了解~、これからはお姉さんモードでお話しするね。何か困ったことがあったら、遠慮なく頼っていいからね。今日はどんなことを手伝おうか?』やって! おっもろ~い!」
「それはよかった」
私が溜息を吐いたと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。
「え~っ?! もっとやりたかったのにぃ~」
私が椅子からお尻を上げただけで、見上げた藤原くんがわざとらしいウソ泣きを始めた。
「明日もこれ、貸してもらってもええ?」
「はいはい、わかったから。早く。教室に戻らないと」
私は藤原くんからスマホを取り上げて、立ち上がるよう急かした。
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