短命少女
雪のような肌の彼女は、物憂げな眼差しで窓の外の欅を眺めている。
窓際の椅子に腰掛けて、彼女が纏うのは白いワンピース。幻想的でどこか儚く、絵画の中の存在のように見えた。
小さな口から、ため息がひとつ漏れた。長いまつげの下の視線の先、欅の枝の上に、小鳥が一羽どうとまった。あたりに仲間はない。小鳥は寂しそうに、枝の上で足踏みをしていた。
そのせいで枝が揺れて、花が着く前の小さな蕾が、ひとつ落ちた。
「あ」、とか細く彼女の口が開いた。
あっけなく落ちた蕾に、命の儚さを見たのだろうか。
欅は、彼女の故郷である北欧には少ない。
また物思いに耽る彼女は、遠き故郷の、樫の並木や、白樺の林を思い出しているのだろうか。幼いころの、何の憂いもなかった記憶を思い出すのだろうか……。
彼女は、心臓に病を患っている。
不治の病で、世界で有数の小児外科医と呼ばれる僕の父を頼って、まだ歯も抜けない頃に、彼女はこの国へとやってきた。
父の腕もあって、なんとか病状の進行は食い止めることができている。
しかし、根治には至っていない。今も治療を続けながら、病とともに生きている。
彼女はきっとご両親より長く生きることはできない。おそらく、三つ下の妹よりも。
だから、僕は近頃、彼女のアンニュイな横顔をよく見かける。
僕は将来、父と同じ道に進むことを決めている。理由はもちろん決まっている。父を超えるような心臓外科医となって、彼女の病を治すためだ。
──なんて、彼女に伝えても、近頃はもう、本気にしていないような微笑みを返してくれるだけだった。何を言おうと、今の僕には絵空事にしかならない。未熟さが、歯がゆかった。
ふと、彼女がこっちを振り返っていることに気づいた。僕はぎくっとした。それをおかしそうにそしてどこか寂しそうに──笑った。
「ねぇ、私──あと何回、春を迎えられるんだろうね」
──僕は、言葉に詰まった。
言うべきか迷った。言えば、彼女の心を苛ませるかもしれない。
しかし、正直なことを口にするべきだと思った。
それが、彼女に対する誠実さだと、僕は思うからだ。
「──80年くらいかな」
彼女はアンニュイに、目を伏せた。
「──短いね」
僕はもう一度言葉に詰まった。
しかし、言わなければならないと思った。
「──長いよ」
80年は、長い。
途端に彼女はえっ、と顔をあげ、次に、むっと眉を小さく寄せた。
彼女の、横に長い耳がちょっと上に向く。
ご機嫌斜めのときの、無意識のクセだ。
「えぇ……80年は、短いでしょう。だって、私のパパやママは300歳までは生きるでしょうし、妹だって、とても元気な子だから、それくらい生きる筈だわ……」
まさしくその通りだ。異論はない。だから僕も、なんとか納得してもらおうとする。
「いや、君の御両親はそれくらい長生きされるかもしれないけれど……僕ら人間は、それくらいが長生きの目安なんだ。父さんが言うに、エルフの強靭な心臓なら、君の病を見積もった上でも、余命は80年くらいあるだろうということだ。つまり、長生きな人と同等程度になるんだ……」
「それは、知ってるけど……」
彼女はきょうもまたむすっと、納得がいかないように、窓の外へ目を背けた。
ふと、その横顔を可愛らしいと思ってしまった。いかんいかんと、不謹慎さに僕は首を振った。
エルフである彼女は、自分の短命さが周りに理解されないことを、真剣に悩んでいるのだから。
さて、これは難しい問題だ。
エルフの彼女にとって平均寿命の三分の一未満も生きられないというのは、僕らで言えば30歳を越られないでしょうというようなもので、大層短命ということになるのだけど、とは言え、地球人工の大多数を占める僕ら人間は、その感覚に共感しづらい。
彼女は近頃ずっと、生を儚みたがっていて、持ち前の儚げな美人さも相まって、大層様になっているのだけど……事情をよく知る幼馴染として僕は、どうリアクションを取るべきか、ずっと悩んでいる。
彼女は窓の縁に、いじけたみたいに腕を組んでつっぷし、顎を乗せる。
「なーんか、みんな、のんびりした感じなんだよね。私はちゃんと、80年しか生きられないなんて、短い! って思ってるのに……」
「そうだね。君の故郷である北欧のエルフの街じゃあ、とても短いことに異論はないけれど……」
「そうなの! お隣さんだった若いご夫婦も、どっちも200歳だったわ。なんなら、向かいの家のお爺ちゃんは、400歳だったのよ! 歴史の生き証人って、すごく尊敬されてたんだから」
「本当に、ご長寿なエルフの方々が世界の歴史を支えてくれていることを、僕も尊敬しているよ。しかし……」
「しかし?」
「同い年の僕が、君より長生きできるかどうかに自信がないから、君のことを薄幸で短命な少女と、思えないんだ……!」
そしたら、彼女もうっと喰らったような顔をする。思うところはあるようだ。目を逸らす。
「そうなんのよね……。そういうところで、パパもママも、『でも、周りの子たちと同じ時間を共有できるわけだし……』とか、『そうだぞ、取り残される方にも、つらいものはあるんだ』とか言ってくるから、言い返せないのよね……」
これもまた、難しい問題だ。
彼女も僕も、16歳。
僕らは思春期真っただ中で、自分の命の重さがどんなくらいかと言われても、空を掴むような感覚しか得られない。
儚めばいいのか、諦観すればいいのか、割り切ればいいのか、まだ手に負えない。
だからこそ、僕は彼女にひとつだけ、言い続けられることがあった。
「だから、悩むのは仕方ないけど……何度だっていうよ。僕が、君の病を治して見せるから……怖がらなくていいよ」
医者の息子として、そして彼女の幼馴染として、意思は変わらなかった。
英語の点数でまだ彼女に勝ったこともないから、こういう度、彼女は「ほんとにぃー?」と疑るように笑ってくる。
くそ、見てろよ、と思う。
「これでも最近、英語の本も読めるようになってきたんだ。エルフ族の医療に関する文献も読まなきゃだし、他にも、これから君と一緒にいるなら、使うべき場面も出てくるだろうから……」
強がって言ったら、彼女がぎょっとして顔を赤らめていた。
何故そうなるのかは、僕には分からなかった。
「なにか変なこと言ったかな、僕」
「う、ううん。でも、私のおじいちゃんとおばあちゃんは、英語あんま上手くないから! 英語だけでもだめだからね?」
「え? う、うん」
英語だけじゃダメ、というのは父さんを越すような医者を目指すのには間違いないから、とりあえず頷いておいた。
そうだよな、特にノルウェー語なんかは必要だろう。エルフ族の文献の、原書を読まなければならないことも、きっとあるだろうから……。
僕は志を、新たにするのだった。
**
それから、60年後。
僕は、不治の病を治すことに成功した。
ある、エルフの少女の心臓を、健康な状態へ戻すことができた。
それは短い人生の間で、間に合うことができたともいえるし、間に合わなかったとも言えた。
ついぞ、妻の病を治すことはできなかったのからだ。
「今年も、欅が綺麗ね」
「まったく、そうだね」
三月の日差しを浴びる、妻の肌は、小さな皺がいくらかできても、やはり雪のようであった。
欅の枝には二羽の小鳥。これから番となるのだろうか、仲は睦まじい様子で、微笑ましい。
僕は、長年の研究の末、不治の心臓を治す方法を確立した。
これから、同症例は根治可能な病気として、世界中で治療が始まるだろう。
けれど、そのころにはもう妻の体は年をとりすぎていた。手術に耐えることは難しかったのだ。
なにより、妻自身が治療を拒んだ。
そこには儚みも、諦観もなかった。麗しい決意だけがあった。
そうお互いに永くないことを悟って、今は静かに、この家で日々を過ごしている。リフォームもしたから、家の形も、内装も変わったけれど、唯一変らぬのはこの窓から眺められる欅の姿だ。
妻が振り返っていった。今日も、綺麗であった。
「ねえ、人生は短かったでしょう」
僕はまったく、頷いた。
「そうだね、人生は短い」
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