ヒロイン座のグラッセ

浮遊少女

「朝からなんだか、5mmぐらい浮いてるんだよね……地面から」

「なんだそれ……本当だ」


 待ち合わせ場所は、小高い山の斜面に建つ、彼女の家の前だった。

 おしゃれな服に身を包んだ、幼馴染の彼女が恥ずかしそうにそう言うので、下を見てみたら、本当に地面と靴の間に5mmぐらいの隙間があった。

 僕は訳が分からないから、屈んでよりよく見ようとしたら、彼女がびっくりして3㎝ほど浮き上がった。


「ちょっと、やめて。今日スカートだから……」

「ああ、ごめんごめん。そりゃ、そうだよね……」


 僕が一歩引いて立ち上がると、浮き上がったのが元に戻って、また5mmくらいになった。自分自身で一番困惑していそうな彼女は、不安げな表情を浮かべている。

 僕は腕を組んで小首を捻った。

 これから水族館に行こうというのに、このままでは気もそぞろで、楽しめるものも楽しめないだろう。


「これって、いつからそうなってるんだい?」

「朝起きた時からだよ……。きみと……いや、お月様を眺めてるみたいな、なんだか変な夢を見たあとに起きて……。ベッドから降りようとしたら、足が全然地面につかなくて……。靴を履いても、全然変わらないし……」


 彼女のローファーは厚底のもので、さりげないリボンの装飾があしらわれている。


「それでも、立つのは出来るんだね」

「うん。足取りはおぼつかなくなるけど、なんとか……」


 そう言って彼女は何度かその場をくるくると歩いてみる。氷の上を歩くような慎重な足取りだけれども、こけそうになることはなかった。春めいた薄手のカーディガンがひらひら揺れるだけだ。傍から見て、不自然さはなかった。


「全然、綺麗に歩けてるよ」

「そ、そうかな」


 ふむ、と僕は考えた。


「どうだろう、いっそこのまま、水族館に行くっていうのは。勿論、周りから分からないよう、僕がずっと傍で気を張っておくからさ」

「えっ」


 そう言ったら、彼女がまたふわっと浮いた。かと思えば、すぐ、もとの5mm浮遊に戻った。難しそうな表情をして、目を逸らされる。


「そんなこと言っても、このままずっと歩くのは、怖いし……」

「じゃあ、こうすればいいよ」


 僕は、胸の前で浮ついていた彼女の手を取った。手をつないでいれば、こけることはないだろう。そしたら、「ちょっ」と彼女が呟いたかと思えば、強い浮遊感を僕は覚えた。


 繋いだ手に引っ張り上げられるように、僕らは1mくらい、浮かび上がったのである。

 それから、ひゅっ、と彼女が息を呑んだ瞬間、浮遊感が無くなって、思い出したかのように重力が僕らを覆った。

 あ、ヤバい。

 僕は咄嗟に、彼女を抱き寄せた。

 せめて背中から落ちよう、と思った次の瞬間、また翼が生えたみたいに、着地の寸前で浮遊感が僕らを包んだ。なので、僕らは安全に、地面へ足をつくことができた。

 僕の心臓もバクバク音を立てていたけれど、腕の中の彼女の動転した表情を見たら、どうでもよくなった。怖い想いをさせてしまった。大丈夫か、と声を掛けようとしたら、胸を手で押しのけられた。


「ちょ、ちょっ……はなれて!」


 ガンと頭を殴られた気分になった。

 想像以上に、僕は彼女に拒絶されることに、ショックを受けていた。


「ご、ごめ……」


 情けなくも青い顔をしたら、顔をあげた彼女の表情は、僕の予想に反して、真っ赤だった。


「ち、違うの! 私もう、こうなる理由が分かったの。っていうか、最初っから分かってたの! 君も、もう、分かるでしょう?」

「ええ?」


 僕は全く理解ができず、首を捻った。要領を得ない僕に痺れを切らしてか、彼女はようやく、僕に目を合わせてくれた。


「だから、私は今浮足立ってるの! どう考えてもそれが理由だよ!」


 僕はハッとした。

 なるほど、そういうことか。

 理屈では分からないけど、直感的には分かる。

 いや……でも、それなら筋が通らない点が一つあるぞ。

 僕はたまらず聞いた。


「それはおかしいよ」

「何が? 絶対そうよ、だって私ずっと浮足立ってるから!」

「ならば、僕も浮かんでないのはおかしい!」


 三秒くらい、沈黙が流れた。

 彼女がまたふわっと浮いた。


「き……君も浮足立ってるの?」

「そりゃあそうだろう、二人で水族館なんて初めていくんだから!」


 彼女を迎えにきた時から、すんとしたような顔をしていたくせに、実は緊張していることを自白するのは、顔から火が出そうなことだったけれど、彼女も同じ気持ちとならば、僕だけ隠し続けるわけにもいかない。

 そしたら、彼女が風船のようにゆっくり浮かび上がり始めるから、つい僕は駆け寄って、手を握った。

 でも逆効果だったらしく、彼女だけ重力が逆向きにかかるみたいになったから、僕は必死でつなぎとめる。

 幸運にも、あたりには全く人通りがなくて、よかった。


「ちょっと、手は握らないで! もっと浮かんじゃうから!」

「そうはいっても、君をどこかへ飛んでいかせるわけにはいかないだろう!」

「わあもう、しゃべらないで!」


 強く手を握っても、力及ばず、と言うか逆効果で、空に引っ張り上げられる僕ら。

 ついには彼女の家の背丈さえ越えてしまって、一瞬、町全体を見渡せてしまった。

 あんまりな高さに、また「ひっ」と目を閉じてしまう彼女。そしたら、やっぱり戻ってくる重力。

 だから僕はもう、全く原理も分からないし、おこがましさを感じながらも、やるしかなかった。

 力いっぱいに彼女を抱きしめる。


「目、開けて!」


 いまにも落っこちようとする中空で、彼女に声を掛ける。彼女は勇気をもって、目を開けてくれた。

 僕はじっと彼女を見つめた。鼻と鼻が触れ合いそうな距離で。

 どれほど僕の顔も赤かったろうか。目の前の彼女の頬の赤みと、ぱっちりとした瞳を見つめていた。


 わなと彼女の唇が震えたから、僕は少しだけ彼女へ顔を近づけた。


「ち、ちちちち、近!」


 お互いに火を噴きそうなほど顔が熱くなって、まるでその火をエンジンにしたみたいに、ごうごうとすさぶ風の音を聞きながら、僕らはもっと空へと舞い上がった。


 町どころか、隣の県まで見えそうな高さだった。

 一瞬、見上げた空には朝方の月がよく見えた。

 高さも、怖さも、恥ずかしさもあって、腕の中で彼女の目にはぐるぐるが浮かんでいた。熱くて小さな彼女の体は、僅かに震えている。

 もっと強く彼女の体を引き寄せた。とにかく僕は、彼女を守らなければならなかった。ちらっとみた真下までの距離は、もう何百メートルくらいに見えた。

 もう一度、彼女と正面から向き合う。また高度が上がっていく。

 だからいちかばちか、賭けてみる時間はあった。


「えっと……君はいつもおでこが広いのを気にして、隠しているけど……バレてる!」

「えっ」


 つい今まであわついていた彼女の表情が、急にガンッとショックを受ける。

 そしたら──また僕らは落ち始めた。

 彼女を離さないようずっと抱きしめながら、ここだ、というタイミングで続ける。


「だが、そこが可愛い! おでこの広さも含めて、君は可愛い!」

「ちょっ」


 ぶわっと赤らむ彼女の顔色に合わせて、また浮き上がる僕ら。

 よし、思った通りだ。

 僕は夢中で、頭の中の使ったことのない部分を、ぐるぐる回す。


「それから……最近、僕の家にあがるとき、いくらなんでも、リラックスしすぎな時がある。この前宿題いっしょにやったときも、つっぷして居眠りしてたし、なんなら涎出てたし!」

「うぐっ……!」


 もはや、彼女の表情は赤いのだか青いのだかわからない。ぐらりと落ち始めて、やっと家の屋根に近づいてきたところで、止めていた言葉を再開する。


「いくら僕相手でも……無防備過ぎだと思う! 部屋に二人きりでああいう姿を見せられる僕の気持ちを、考えて欲しい!」


 必死に訴える僕に対して、とうとう彼女は眼を逸らした。茹ったぐるぐる目で。


「あと……最近、お菓子食べ過ぎだ。単純に、健康に良くない」

「ぐっ……」

「何かを食べているときの君が可愛らしくて、いつも止められないけれど!」

「ぐぅ……!」


 そうして、上がって下がってを繰り返している内、いつの間にか、彼女の家の二階の高さくらいまで戻ってきていた。そのころにはもう彼女も(精神的に)這う這うの体で、ゆっくりゆっくり僕らは地面に降りていった。

 足を延ばせば、地面に爪先が着いた。片足、両脚と着地して、もう彼女を離しても怪我しないところまで来れて、ようやくはぁっと僕は息を吐く。


「離すね……」

「う、うん……」


 ずっと僕の肩にしがみついていた彼女が、やっとのことで地面に降りた。足元を見れば、ちゃんと足が地面にくっついていた。

 さっきまでのことは何だったのだろうか、僕は夢でも見たような気分になりながら、どっと地面にへたり込んだ。

 どうして彼女が浮かび上がったのかは分からない。けれど、そんなことを考えるような気力もないくらい、僕は気がどうにかなりそうになのを、堪えなければならなかった。

 自分の腕と胸の中に、彼女の柔らかさが染みついていた。今日一日で、消えそうな感触じゃなかった。ぜぇはぁと息が荒れているふりをして、僕は心を落ち着けていた。


「た、立てる……?」


 彼女が、手を差し伸べてくれる。僕は、できるだけなんともない素振りで、手を取った。


「なんとか……」


 彼女の手を借りて立ち上がっても、もう、彼女と一緒に空へと連れて行かれそうになることはなかった。

 終わってみれば、朝の彼女の家の前は静かだった。本当に夢の中だったみたいに、あたりには人通りも車もなくて、多分、誰にも見られていない。


 僕は、ふといつも通りの現実に戻ってこれたのか確かめたくなって、口にした。


「今日の服、すごく可愛い。似合ってる」


 そしたら、彼女の顔がまたぶわっと赤くなるのだけど、もう本当に、浮き上がることはなかった。

 僕はほっとして……それから正気を取り戻して、ぶわっと赤くなった。


 いつもの僕が、こんな気障なことを正面から言うはずはなかった。


 その夜、彼女が帰ってから、窓の向こうのお月様に「ありがとう」と言ったことを聞くのは、もう少し先の春のことである。

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