妻の味

 私には悩みがある。

 贅沢ではあるが、切実な悩みだ。


 夜勤を終えて、家に帰る頃にはもう空が明るみ始めていた。食事を取る暇もなかったので、空腹は極まっていた。

 私は音を立てないように、鍵を開けた。

 妻はこの時間だとまだ寝ているからだ。

 そして、とても献身的な妻は、私が帰ってきたら「すぐ起こしてね」とも言ってくれている。そうしたら「おかえり」と行って文句ひとつ言わず、食事を用意し始めてくれる。

 私はなんて幸せ者だろうか。

 しかも、食事はとても美味しく、健康的で、口にするだけで心が落ち着く。

 しかし──ある一点においてだけ、妻には言えない問題がある。

 それは毎日の食事の味が、まったく同じであることだった。


 これは妻が用意する以上、どうしようもないことであった。毎日、毎日、同じ味。いくら美味くても、いくら妻が献身的であっても、いつしか、慣れもくるし、飽きもくるというものだった。

 しかし私はそれに文句が言えなかった。

 言う資格もないし、言いたくもないのだ。妻が私の食事に注いできた努力をずっと見てきたから、これ以上何も求めたくはない。

 なので今日、秘密裏に作戦を実行することにした。


 私は足音を立てないように、妻の眠る寝室の前を通り過ぎた。

 それからリビングに辿り着き、服も着替えず、静かに電気のスイッチを点けて、おそるおそる、冷蔵庫へと向かう。

 そう。冷凍庫の中には、非常食用の、冷凍の食事が眠っている。


 私は今日、どうしようもなく本能的に、妻以外の味が食べたくなった。仕事中もずっとそのことを考えていた。

 そうしないと、あんなに美味しい妻の味も、いよいよ不味く思ってしまいそうになっていたからだ。それはなんとしても避けなければならない。


 算段はこうだ。

 冷凍の食事を、密かに食す。

 そして、バレないように後片付けをする。

 それから、ちょっと帰りが遅れたようなフリをして、妻を起こす。

 妻は気づかず、食事を用意してくれるだろう。

 今の空腹なら、無理なく妻の分だって食せる。一度味の変化を楽しめれば、必ず文句なく、美味しく妻の食事を頂くこともできる。

 完璧な算段だ。


 私は無音で冷凍庫を開くことに成功した。そこには、バリエーション豊富に、type-Aとか、type-Bとか味の違う冷凍が常備されている。

 私は、背徳的なワクワクを感じていた。そうだな──今日のところは、Bの方にしておこう。健康的であっさりしている妻の味と、こってり系のBの味は対極にある。

 私はBの方を冷凍庫から出した。

 さて、ここからが難関だ。

 冷凍されている以上、解凍しなければならない。

 もちろん、加熱するときの音が大きいから電子レンジは使えない。しょうがないから、湯せんを使うことにした。

 忍足で台所に向かって、ゆっくり蛇口を捻り、電気ポットへ静かに水を入れ、加熱台座にセットする。

 それから、沸騰の直前まで静かに見守る。沸騰を知らせるカチッという音や、蒸発する泡の音さえ、寝室に届かせてはならない。リビングは静寂に包まれていて、私はその全てに耳を澄ましていた。それくらい、今は物音に過敏になっていた。


 何故ここまで妻にばれることを嫌うかと言えば、妻の機嫌を損なうからだ。

 妻は、なにより私の健康に気を遣って食事を用意してくれている。毎日食すことも加味した、完璧な栄養バランスになっているのだ。だから、冷凍なんかでそのバランスが崩れることを、酷く嫌う。激怒するわけじゃないけど、目に見えてむすっとする。そして二日くらい、態度がそっけなくなる。私は居た堪れなくなる。


 私は妻を愛している。ここまで私に尽くしてくれる女性など、世界に二人といないのだから、不機嫌にさせたくなどないのだ。


 だから、なんとしてもバレてはいけない──。


 お湯が沸く直前、私はポットを台座から持ち上げた。これで音を立てずにお湯が手に入った。

 よしあと一歩だ。

 用意していた、底が深いさらに冷凍の袋を乗せ、垂らすように、お湯を注ぎ始める。

 そのときばかりは、音の跳ねる音が響かないように手元にばっかり集中してしまった。

 そして、油断した。


「ねぇ、何してるの」


 後ろから声がかかった。

 私は、心臓が止まりそうになった。

 後ろには、パジャマ姿の妻がいた。なんてことだ、閉じるときの音を嫌って、リビングの扉を閉めなかったのがよくなかった。

 妻は腕を組んで、ジトっとした目で私を睨んでいた。


「こ、これは……」


 誤魔化しようはなかった。右手には電気ポット。前には冷凍のやつと、中途半端にお湯の入った皿……。冷や汗が頬を伝う。


「冷凍、食べようとしたんだ、隠れて」

「は、はい……」


 ごまかしようもなかった。詰め寄ってくる妻は、私より背が小さいはずなのに、なぜだか見降ろされているような圧があった。


「ご飯、言ってくれたら用意したのに。もう、私の味は嫌いになっちゃった?」

「ま、まったくそんなことはなく……ただ、今日は、そういう気分というか、好奇心と言うか、で……」

「ふうん。あなたの体のことを思って、毎日私は気を遣ってるのに……飽きちゃったんだ、私のに。たまには、冷凍で、全然栄養のない食事で済ませても、いいんだ」

「いやいやいや、それは本当に、このあと君のにも口をつけるつもりだったさ!」


 そこは信じてくれと言わんばかりに、私の方も彼女に歩み寄って、肩を掴んだ。妻も、その反応には少しだけ機嫌を取り戻してか、「ふうん」と呟いた。


「でも、二食分食べるのも、体に悪いわ。どうしてもお腹が空いてるっていうのなら、私のをいつもの倍、食べたっていいけれど……」

「いやいや、流石にそれは君が貧血になるだろう……。ただでさえ、私のために早起き迄してくれているのに……」

「大丈夫よ、あなたのためにレバーも野菜も毎日たくさん食べてるんだから」


 あっけらかんという妻を、今度は私の方が「おいおい、無理だけはしてくれるなよ……」と窘める。

 自分で言うのもはばかられるが、もうお気づきの通り、私の妻の愛情は、少々重い。


「はぁ」と私はあきらめのため息をついた。

 ここまできたら、もう降参だ。

 今こうして妻の肩を掴んでいると、やっぱり、この小さな体で重い愛を注いでくれることに、報いるべきだと思ってしまう。


「申し訳ない。やはり今日も、君のを頂く。冷凍の方は──まだ開けてもないし、再冷凍できるだろう」

「うん」


 折れた私を見て、妻が満足そうに微笑んだ。

 それから私は妻の体を抱き寄せて、その細い首もとに、牙を突き立てた。

 妻は優しく、私の背に手を回してくれる。


 いつものように私の口へ流れてくる彼女の血は、なんとも健康的なO型の味で──しかし後味には、独特の、どろっとした深みがある。


 私は幸せ者だ。

 夜勤勤めの凡庸な吸血鬼が、これほど愛しい妻と暮らすことができているのだから。

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