矛盾

 その昔その昔、中国のある山間の丘の、下り道にて。

 轟々と風が吹きすさぶ中、二人の男がすれ違おうとした。


「「!」」


 ひとたび目が合った、その瞬間であった。

 互いに共鳴と言うか、脳裏に閃光が走るような衝撃を受け合った。

 それもその筈、二人は同業の士であった。互いに本職は鍛冶師だったのである。

 その証に、それぞれ背負いたるは、片や大矛。片や大盾。共に一番の傑作を携え、流浪の旅路の途中だった。二人は一目、背中越しの傑作を垣間見るだけで、これはと足を止めたのである。

 いてもたってもいられず、互いに口を開いた。


「もし。そこのお方。その背に担ぎなさる、玄武の甲をも凌ぐような盾は、貴公が造ったものでお間違いないか」


「ああ、私も全く、同じことを伺おうとしていた次第でございます。その背に負いたる、白虎の牙より鋭かろう矛は、貴公が造ったものでしょうな」


 両氏は、我先に傑作の製作者を確かめ合おうとしあったわけだが、すぐに、共に、先に名乗ることもしなかった不義を恥じ合い、笑い合った。


「失敬。つい、傑作を前に気が逸ってしまいました。私、江縫(えぬ)と申す者でございまする」

「こちらも失敬。同様に、心奪われた次第でした。私は画福(えふ)と申しまする」


 名乗った後、これも互いに示し合わせたように見えるほど、手早く背負っていた傑作をおろし、手の内に携え合った。

 ここでまず、画福氏から江縫氏に尋ねた。


「改めて、立派な矛だ。私は主に防具の鍛冶を得意とするが、ここまでの威容を放つ矛は見たことがない。もし名があるなら、教えていただきたい」


 江縫氏は礼儀を失わないよう丁重な言葉遣いのまま、しかし目にだけは挑むような野心の光を燃やし、その矛を見せつける。


「では、畏れ多くも、この矛について語らせていただきます。いやまさにこれこそが、私の鍛冶師としての全てを注ぎ造り上げた、至極の一振り。この世の全ての矛に勝ると信じるがこそ、名はつけず、ただ“矛”と呼んでおりまする」


 江縫氏は仁王立ちのまま、掲げた矛をぐるんと頭の上で回した。

 まるで、空が揺れるような風切り音が鳴った。馬身ひとつも離れていない距離ゆえ、矛先が画福氏の目の前を掠めながらも、彼は微動だにせず、ただじっと切っ先が風を切る様を眺めていた。

 それから、画福氏もようやくにやりと笑った。


「これは御見それしました。この矛ならば、牛の体すら骨ごと一刀に断てるどころか、龍すら斬ってしまいそうな……」


 賛辞を送りつつ、しかし目の中には滾るように炎が燃えていた。矜持の炎である。


「であればこそ、我が盾の威容も示させていただきたい。そして貴公の矛こそ、我が盾が全霊を示す、恰好の相手と言わざるを得ますまい」

「ははあ、その心は」

「この盾もまた、猛将たちのあらゆる渾身の一撃どころか、千の投石と、万の矢を受けても、傷一つつかなかった、私の生涯をかけた一作にございます。そしてこれこそ奇遇。名は貴公と同じ理由にて、“盾”とした」


 画福氏は口元の笑みを湛えたまま、静かに腰を落とし、盾を構えた。


「我が盾ならば、全力を受け止められまする。どうぞ一思いに、殺す気で」


「言いましたな」


 この一瞬、二人は互いに礼節と敬意を保ちながら、それ以上に一介の漢として、殺意に似た情熱を燃やし合った。


「しかし、理解はできる。同じ生業ゆえに。故、加減はできませぬ」


「当然のこと」


 江縫氏もまた、鬼の気迫を湛えた微笑を浮かべながら、矛を天へと掲げた。

 丘に吹いていた強い風が止み、一瞬、天啓のような静寂が訪れた。

 その刹那であった。


「覇っ」


 雷鳴より早く、振り下ろされた矛。

 千里に響き渡るような、鋼鉄音がけたたましく轟いたのち。

 また柔く風は吹き始め、衝撃に舞い上がった砂塵が、流れ消えていった。

 

「はは」

「そうか、そうか」


 二人の、微かに震えた笑い声が重なった。


 画福氏の体に傷がつくことは無かった。盾は矛を防いだのである。

 しかしそれは、画福氏の勝利を意味しなかった。


 両雄、其々の武器を引きはなす。

 鍛冶師として研ぎ澄まされた感覚が、激突の瞬間に、冷たい汗を流させていた。

 ぶつかり合った矛と盾の一点に、其々、小さな亀裂が刻まれていた。

 二人が地面に落とした、汗一滴ずつ。

 その後、茫然と高揚が入り混じった呟きが、また重なる。


「我が矛が、砕けぬものとは」

「我が盾が、防げぬものとは」


 共にあげた視線が、言葉よりも早く心の内を明かしていた。

 二人はこれたった一合の撃ちあいのみで、互いが、同格の求道者であることを理解した。

 無二の盟友とも並ぶような間柄に、この一瞬でなり果てたのである。


「問う。江縫氏はどこの国から参られたのか。これほどの矛造りの腕、王室ですか、あるいは、勇将のお抱えか」


 それはあまりにも唐突で、互いを知るために必要な語らいを、二、三刻ほど飛ばしたかのような質問であったが、無論、江縫氏の方は単純明快で好ましいと思いこそすれ、無礼だとは考えなかった。

 二人に友情を育む時間はもう不要だった。

 江縫氏は首を振った。


「いえ、ついぞ先日まで、東国の王室にて、傘下の将に武器を授ける職を賜っていましたが、どうにも、蛮勇を誇る王との折り合いが悪く。武器とは、国防のために備えておいてこそと考えるのが、私の信条にございます。それを人殺しの道具としか捉えぬ王と、少しばかり、口論になった結果、命を狙われ追われる身となりました。幸運にも、良き友人であった智将に逃亡の手筈を整えていただき、今こうして、短剣など売りつつ、流浪の身であります」


 憂いを帯びて目を伏せる江縫氏に、画福氏もまた、深く感じ入った。運命の数奇さに、目を細める。


「これはなんと言う巡り合いか。某も似たような境遇にございまする。防具とは、尊き物を守るためにあるべきというのが、我が信条にございます。それは命であり、家族であり、国である筈だ。しかし、某の仕えていた王は徒に防具を求め、これ備えは万端と、隣国、あるいは遠方の異郷の民のもとへと、攻め込むばかり。仕えた縁も、暮らした恩もあれど、もはや道は違えました。江縫氏と同様、馴染の兵卒達に協力を貰い、こうして落ち延びたわけでございます。しばし小村等に身を隠しつつ、遠方遠国をあてもなく尋ねてみようと思っておりました中で、こんな場所で、江縫氏のような御仁と巡り合いましたのは、もはや天運としか言い様がありますまい」


 そこで二人は一度黙り合った。

 その静寂は、予感を呼び起こすものであった。例えば、大波が起こる前の一瞬の凪のような。

 二人は互いの存在に目を向け続けていた。

 共に、同じ言葉を胸に抱えていたことが、語らずとも共感し合えた。

 その言葉は互いを知って半刻も立たないうちに、交わされるような言葉では本来ない。けれど、先ほど打ちあったあの立った一合が、二人に足りない時間と語らいの、全てを埋め合わせて、余りあった。

 口火を切ったのは、江縫氏だった。


「まさに。某も同様、我らの出会いは、天の思し召しとしか思えませぬ。──いかがでしょう、我らこれより旅路を共にし、どこでもいい、鍛冶を行うに十分な場所が見つかれば、そこで互いの技巧を教え交わし合うというのは」


 画福氏はカッと目を見開いて、ぐっと鼻から息を吸い、その胸を張った。

 そして、静かに息を吐いたのち、画福氏は続ける。


「まさしく、同じ思いでした。常に考えていたのです。武器の本懐とは、強者を暴君に仕立て上げることではなく、仁者を英雄に仕立て上げることにあると。大きな武力を正しく扱える者こそが一番強ければこそ、太平とは成し遂げられるものなのではないかと。天下一品、唯一無二、完全無欠の武器を造り上げ、仁者に手渡すことができたなら、私のような一介の鍛冶打ちでも、天下泰平の一助となりうるのではないかと」


 江縫氏はにっと笑って、その語りに割り込んだ。


「全くその通りだ。そして、先ほど我らは打ちあい、一つの事実を知った。まだどちらの武器も、完全ではなかった」


 画福氏もまた呵々と笑う。


「ええ。考えることは、同じですな。我らに足りない物こそ、互いの技巧だ。対極にある、二つの究極。それらを重ね合わせればこそ、無欠となるのでしょう。つい今しがた、厭に息巻いた大言壮語を吐いたが、飾らず言えば単純なことです。いい武器を作り、よい人間に託す。その究極を成し遂げたいだけだ」


 うむ、と江縫氏も頷く。


「さて、まだ見ぬ天下の傑物は、この世のどこにおりますかな」

「なに、我ら巡り合わされた者同士。天の思し召しもまだ途上の筈だ。抜かりはなく、いずれ巡り合わせてくれることでしょう」

「確かに。それはそうですな。ならば我ら来る刻までに、出来ることと言えば天下の一品を造ることだけだ」

「腕が鳴りますなぁ」

「これからの長き旅のことを思えば、腹も鳴ります」

「ハハ」


 江縫氏と画福氏は互いにはもはや、出会って間もなくの礼節の振舞をやめ、ただ二人の野心家となり果てていた。


 そして江縫氏がふと風の吹く空を見上げれば、まだ日の暮れぬうちから、北極星がよく輝いて見えていた。


「ならば一先ずは、北へ向かいましょう」


 画福氏も釣られて空を見上げ、北極星の輝きに見惚れた。


「して、その心は。もしや、あれが天そのものでしょうか」

「いや、大昔、ある仁者も北へ向かったと言います。北の過酷な世界にこそ、熱のある傑物が暮らすはずだ」

「なるほど。異存はない。鉄火場に籠るにも、丁度いい気候です」


 二人はそれだけ言葉を交わし、肩を並べ、迷いなく、一路北へと歩き出した。

 そのとき、北極星を射貫くような彗星が空に尾を引いたのであるが、二人はもうどちらも前を向いており気づかなかった。

 その彗星が消えた時、ある一人の快男児が産声を上げたことを知るのは、少し先の話となる。


 **


 それから時は流れに、流れに、流れた。二千年近い未来のことである。

 同じ中国の地にて、ある一人の選手が偉業を成し遂げた。

 五つの輪が重なる、平和の祭典でのことだった。


『この決勝戦にて、打っては四安打、投げては完封! 彼は今、世界の頂点にて“矛盾”してみせたっ!』


 突き上げられるグラブ。駆け寄る仲間。

 英雄は、奇跡を示して見せた。


 “対極にある二つのものを掛け合わせ、完全無欠の一つを示すこと”。


 それを、太古の中国、天下を太平せし英雄が振るった、天下一品の武器の名に倣った故事成語として、矛盾と呼ぶ。

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