真理の時代

 まだ、宇宙のあらゆる星が地球を中心に回っていると信じられていた時代のことだ。


 K国の中で一番有名な神学校の、図書館にて。

 学内でも特に優秀な神学徒三人が、並んで座って自習をしていた。

 図書館には彼らのほかに誰もいなかった。

 だから三人は先生の目を気にすることなく、自由に学問の話をすることができた。


 三人の中で最も人当たりの良いエフ君が、ノートに図形を描いていた。

 それは天文図だった。

 右隣に座る、無類の読書家として評判なエム君に話しかける。


「ねぇエム君。これは地球を中心とした天文図なのだけど、こういうぐるりと一回転するような軌道を火星が通っていたとすれば、火星の惑星運動が時折乱れることの、説明がつくと思わないかい?」

「ふむ、確かに……」


 エム君は天文図を覗き込み、そして何度か頷いた。

 エフ君が作った天文図にはTと書かれた丸を中心として、幾何学的な軌道が花のような形で描かれていた。

 エフ君の傍らには幾つもの天文学の文献や、エフ君自身が記録した惑星運動のノートが積まれていた。勤勉な研究を続けてきたのだ。だから軌道の縮尺や、天体の位置関係は完璧だった。

 無類の読書家であり、エフくんに負けず劣らず勉強熱心なエム君だからこそ、その正確さが理解できた。


「この通りに火星が動いていたなら、軌道の乱れ問題に説明がつくね。これはすごいや、僕にこの図は描けないだろう……」


 エム君のてらいのない誉め言葉にエフ君は照れた。

 しかし、手放しで賞賛してくれた後でも、エム君は口元に指を置いて何かを言い辛そうにしていた。その姿がエフ君は気にかかった。

 聡いエフ君は、エム君がさっきノートに何かを書く途中だったことに気づいていた。

 自分が話しかけた時に、ノートがぱたんと閉じられたことにも気づいていた。

 優しいエフ君は、つい尋ねた。


「そういうエム君も、以前から軌道の乱れ問題について気にかけていたよね。それでこの間、『何か閃いたかもしれない』というようなことを、僕に言ってくれたじゃないか。あのアイデアは一体どういったものだったんだい?」


 エム君はなおも言い辛そうにしていた。

 けれど、二人が今まで築き上げてきた友人関係の賜物だろう、ようやくエム君は口を開いた。

 周りをきょろきょろ見渡してからのことだったから、広く聞かれては不味い事らしいとエフ君にもわかり、彼は身を寄せた。


「まずは、これを見て欲しい」


 エム君は閉じていたノートを開いて、エフ君に見せた。

 そこには、真ん中にSと書かれた丸があって、それを何重にも囲うように、八つの正円軌道が描かれていた。

 そのうちのひとつにTと書かれた丸があった。

 エフ君は息を呑んだ──。

 Sが表すのは太陽であり、Tが表すのは地球である。

 エフ君にとっては、今まで積み上げてきた知識を根本からひっくり返されるような図だった。


「これは……」

「そうだ。そもそもの発想の転換だ。地球ではなく、太陽こそ宇宙の中心にあるのだという天文図だ」

「なんということだ……」

「この学校の生徒として、あるまじき発想であることは承知してるが……思いついてしまった以上、もうこの理論から抜け出すことができなくなってしまった。まさか地球がこの宇宙に中心にない、だなんて……」


 エフ君は呆然とエム君のノートを見つめ続けた。

 綺麗に八つ並んだ正円。それと比べると、自身が描いた花形の幾何学模様が、なんとも粗雑に見えてきてしまう。

 皮肉にも、エフ君が非常に聡明であったからこそ、その図に込められた意味が一瞬で理解できた。このように描けば、火星が奇妙に軌道を乱すことも、それを合理的に説明するため、特例のような火星独自の運動法則を考えずに済むことも、説明がつく……。


 けれど、エフ君は苦しそうに首を振った。


「いいや……でもこれはありえないと思う。神が造りたもうた世界で、地球が宇宙の中心にないなど……」


 頭を抱えて目を伏せたエフ君の様子に、エム君もまた非常に傷ついた表情を浮かべた。

 それもそのはずだ。神を前提とするこの時代に、神の威厳を否定するような考えは受け入れがたくて当然なのだ。

 二人が築き上げてきた友情関係にさえも、亀裂が入った。

 気まずい空気の中でエム君の頭に、悪い予感が浮かぶ。

 もし、エフ君がこの考えを先生に密告したら?

 そうなったら、退学では済まない処分が下されうる。エム君は自分の浅慮を後悔した。

 もっと密かにこの考えを温めておくべきだったかもしれない……。


 酷く動揺したなかで、エム君は小さな希望に縋ろうとした。

 エム君の右隣に座る、今までの全ての話が聞こえていただろう、エヌ君に声をかけたのだ。

 この学校一の神童でありながら、この学校一の奇人ともいえるエヌ君は、今日も本すら読まず、二人にも構わず、ただひたすらノートに思索を書き耽っていた。


「なぁ、君はどう思う。名付けるならば、これは地動説だ。地球が中心ではなく、太陽を中心に遠心力と引力で全ての説明がつく理論……学年一優秀な君は、この理論をどう思う」


 エヌ君はようやくノートから顔をあげ、エム君の地動説天文図を見た。そして一言こう言った。


「美しい」


 エム君は驚いた。

 エフ君もぎょっとした表情を浮かべた。


「理解してくれるのかい」

「君までもか」


 しかし、エヌ君は続けざまに首を振った。


「だが、それでも真理に至ってないと僕は思う」

「えっ」

「どういうことだ」

「これを見てほしい」


 そうして、返し刀のように二人に見せたノートには、Iと書かれた丸が、なにか水槽のような形に入っている図があった。


「僕もひと昔前に地動説を思いついたんだけど、やっぱりそれでも全ての説明はつかなかったのだ。まず神様などいないということは前提としたうえで、宇宙に始まりと終わりがないことについて考えた結果、どうにも僕らが知りうる限りの物理法則では矛盾が起きるのだ。したがって、この今見ている世界は偽物であり、僕らの認知が及ばない、本物の世界が存在するはずなのだ。例えば、僕らの脳が未知の薬品に浸かっていて、この架空の世界を本物だと認識させられているかのような……」


 エフ君とエム君は顔を見合わせた。


「エヌ君は何を言っているんだ。ありえない。頭がおかしい」

「どうやら、頭がよすぎて、気が狂ったらしい」


 エヌ君の発言により、地動説の突飛さが薄れたようで、エフ君とエム君は、エヌ君を気味悪がる方面で意気投合した。

 それからすぐに、エフ君はさっきの態度について謝った。


「ごめんね、エム君が勇気をもって僕に打ち明けてくれた考えだというのに……。僕もすぐには呑み込めないが、これから間違いなく、向き合っていくことになる考えだ……」

「エフ君……!」


 そうして二人は和解した。エム君の方も疑ってしまった自分の薄情さを詫び、握手した。

 ちょうど下校の鐘が鳴ったから、三人の語らいもそこで終わった。エフ君とエム君は改めて地動説について語りながら図書館を後にし、エヌ君はと言えばまだぶつぶつと独り言をつぶやきながら、一人で帰っていいた。


 その後、エフ君とエム君は時間をかけて互いの天動説と地動説を論議し、数年後には共に地動説の創始者として、歴史に名を残すような研究を始めていくことになる。


 そして、エヌ君はといえば二人の顛末など意に介さず、以降もずっと一人思索にふけり、脳水槽説とでも呼ぶべきその理論をノートに書き溜め続けた。大人になってからも、老人になってからも。

 彼の思索の結晶がある古民家の地下から発見されたのは、彼が死んでから何百年後のことであった。


 いつの時代も真理とは、先取りしすぎると誰にも理解されないものであった。

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