永遠の喪失、永遠の愛、天国の君へ送る小説

Unknown

【本編】

 色とりどりの鮮やかな花々が咲いている青空の下で、優花ゆうかが笑っている。この広い花畑には優花と俺の2人しかいない。今、この世界には他の人物は存在しない。

 優花は笑いながら花々を指で差して言う。


「ここの花の集まりがコスモスで、あれが黄花コスモス。遠くに見えるのがサルビア。あと千日草と、百日草。遠くにあるのは花オクラ。綺麗だね」

「うん。全部綺麗だ」


 俺が笑ってそう言うと、優花はまるで幼い少女のように突然走り始めた。


「──優雅ゆうが、こっちおいで!」


 眩しい笑顔でそう言って、優花が俺の前から遠ざかる。

 俺は必死に走って優花に追いつこうとするのだが、何故か上手く走れなくて、全く優花に追いつけない。その背中は時の経過と共にどんどん小さくなっていく。


「早いよ、ちょっと待ってよ」


 俺がそう言っても、優花の背中は遠ざかるだけで、俺は上手く走れない。とてももどかしい。

 優花は時折振り返りながら手を振って楽しそうに笑って走る。やがて俺の視界から優花は完全に消えてしまった。


 ◆


 そこで俺は目が覚めた。


「……」


 今日もまた優花の夢を見た。もう夢でしか会う事が出来ない妻の夢を。

 俺は重い瞼を擦りながらベッドから上半身を起こし、ほとんど無意識に枕元のスマホを手に取る。

 スマホの待ち受けは今でも、あの花畑で撮った優花とのウェディングフォトだ。

「あの花畑でウェディングフォトを撮りたい」というのは、亡き妻の強い希望だった。

 俺の実家から車で15分ほど走った場所に有名な花畑がある。そこはテレビでも紹介されたことがあった。優花はあの花畑が大好きだった。「いつか子供が出来たらみんなで来たいね」と優花は俺に言った事があった。その願いは叶わなかったが。

 スマホを見ると、現在は2025年5月21日の水曜日。時刻は17時13分。

 部屋に差し込むのが朝焼けでも夕焼けでも今の俺には関係ない。もうすべてがどうでもいい。

 俺は現在、無職で実家暮らしだ。今から2年半前に優花が突然命を落としたあの日から、俺の時計の針は今も止まったままだ。

 起きてすぐに、俺は優花の事を考えて涙を流した。

 枕元のティッシュで鼻水と涙を拭う。

 2階の自室から1階に降りると、小さな仏壇と小さな優花の遺影がある。俺は起床すると真っ先に1階に降りて優花に線香を立てて、仏具を棒で甲高く鳴らして、両手を合わせて目を閉じる。それが習慣になっている。

 閉じた瞼の裏側は、どこまでも続く真っ暗な黒い闇だ。


「……」


 俺がしばらく目を閉じていると、「にゃ」と言って、猫のマルが俺の脚に顔を何度も押し当ててきた。

 俺はしゃがみ、少し笑ってマルを撫でる。


「マル、おはよう。もう夕方だね」

 

 あごの辺りを撫でていると、ごろごろと鳴いた。猫がごろごろ鳴く時は機嫌が良い証拠だ。

 しばらくマルを撫でていると、マルは満足したのか、廊下を歩いてどこかに行った。猫は気まぐれだ。

 仏壇からリビングに繋がるドアを開けると、母親がコタツ机のそばに座って、テレビでニュース番組を見ていた。


「おはよう、優雅」と母。

「おはよう」

「今日は寝られた?」

「うん」


 俺は無表情で返答した。

 優花と同棲していた2DKの物件から俺が実家に戻ってきて、2年くらいが過ぎていた。


 ◆


 今から2年半前。

 お互いが26歳だった頃に、予期せぬ交通事故で妻の優花を亡くした俺は、優花の葬儀を終えてから少し経った後、強い鬱症状が現れるようになった。

 細かい症状は挙げればキリが無いが、鬱はすぐに悪化し、俺は会社での業務すらまともにこなせなくなり、食事は喉を通らず、風呂にほとんど入れなくなり、不眠症になり、頭の中を常に希死念慮が支配するようになった。常に頭は不明瞭でボーっとしていて、誰の言葉も文字も脳が処理できない。

 それでも無理して会社に通い続けた俺は、壊れた。

 最終的には排泄以外でベッドから起き上がる事も困難になった。

 時には排泄の為の移動すらできず、そのままベッドに漏らすこともあった。

 朝、俺は会社に欠勤の電話をすることも出来ず、何日か無断欠勤を続けた。俺は(近々、電車に轢かれて死のう)という事だけをベッドの上で考え続けていた。死ねば妻の優花にまたあの世で再会できると思ったからだ。

 無断欠勤が数日続いたある朝、亡くなった妻と住んでいた2DKの自宅に、上司が訪問してきた。俺は何とかベッドから抜け出して、自宅のカギを開けた。上司は明らかに異常だった俺を見てすぐに心配してくれた。「本当にごめんな」と謝罪された。

 その場で俺は「もう限界です」と泣き崩れながら上司に訴えた。

 上司は「今の坂本君は誰がどう見ても精神の病気だ。いつかまた健康になったら、その時また考えよう」と言って俺に休職を勧めてくれたが、俺はもう会社を辞める意向を固めていた。

 俺はスマホの操作も覚束なかった。上司が俺のスマホを操作して、実家にいる俺の母親を呼んでくれた。すぐ実家から母親も駆けつけてくれたが、荒れきった部屋や俺の変貌ぶりを見て泣いていた。上司と母親と俺の3人で、すぐに入院患者を受け入れてくれる精神科病院に向かい、その日から俺は医療保護入院する事が決まった。精神科医はすぐに診断書を書いてくれて、後日、俺は休職扱いになった。上司の恩情だった。「健康になったらいつでも戻ってこい」と言ってくれたが、俺の耳には入らなかった。

 精神科病院での入院の期間はちょうど半年間くらいだった。

 憂鬱、喪失感、どん底、絶望、希死念慮、優花。

 亡くなった優花に会いたいと願って、入院中は何度も1人で病室の中で泣いた。

 半年が過ぎて退院する頃には俺の鬱病は日常生活をなんとか送れる程度までは回復したが、会社に復帰する道は選ばなかった。まだ鬱病が治ったわけではないし、会社に再び迷惑を掛けたくなかったからだ。

 退院後、無職になった俺は、優花との色んな思い出が詰まった2DKの自宅から、大切なものを持って実家に帰った。

 ──そして今に至る。

 俺は実家に帰ってからというもの、2年間以上も療養に専念してはいるが、2週間に1度の通院を除いて外出する事は一切なかった。

 外に出て笑っている人を見るのがとても苦痛だった。特に男女で楽しそうに笑っている人を見かけると、どうしても優花の事を思い出してしまい、胸が痛くなる。それが辛いから外に出られない。日中も深夜も。

 それでも季節は俺を取り残して巡っていく。

 このままではいけない、という思いはあるが、優花のいないこの世界で生きる意味を感じられない自分もいる。

 優花に会いたい。

 優花にまた会いたい。

 また、優花と幸せに暮らしたい。

 また優花に会いたい。あの世で良いから。

 だけど優花はきっと、俺が自殺する事なんて望んでいないはずだ。

 そう思う事で、何とか俺は自分の命をギリギリ世の中に留めている。

 気が付けば俺はもう28歳になっていた。


 ◆


 実は俺は、優花の死に関して毎日毎日後悔している事がある。毎日激しい罪業感に襲われて、夜中になると1人の部屋でひたすら泣いている。


『今日はカレーが食べたい』


 と俺が優花にLINEを送ってしまったせいで優花は亡くなった。俺が優花を殺害したようなものだ。

 2年半前、俺と優花がお互いに26歳の時だった。

 仕事が定時で終わって今から車に乗って帰ろうかという時、俺は優花に、


『今から帰るよ』


 とLINEを送った。

 すると優花は、


『わかった。今日も仕事おつかれさま。今日のご飯は何が食べたい?』


 と返信を送ってきた。俺はとても軽い気持ちで、


『今日はカレーが食べたい』


 と送った。

 すると、


『カレーのルーが今無いから、スーパーで買ってくるね』


 と返信が来た。

 優花が亡くなったのは、それから数十分が経ってからの事だ。

 俺が自宅に帰ってしばらく経っても、優花は帰ってこなかった。

 不審に思い始めた直後、俺のスマホに優花から電話が掛かってきた。だが、電話口の声は優花のものではなく、群馬県警を名乗る知らない男の声だった。

 それからの記憶はとても曖昧だ。

 優花と俺の自宅に警察官が2人来て、俺はパトカーに乗せられた。

 パトカーが向かったのは、いつも優花が買い物をしているスーパー付近の道路だった。現場には通行禁止の線が張り巡らされ、進入禁止を示すコーンが道路に何個も置かれていた。

 俺はパトカーから降ろされた。

 路上で俺が見たものは、折れ曲がって滅茶苦茶に破損したシルバーの自転車。そして、道路に何メートルにも渡って付着している生々しい血痕。何故か片方しかない優花のスニーカー。そして、ブルーのエコバッグ。そのエコバッグからはみ出すように見えた、カレーのルーのパッケージ。


『今から帰るよ』

『わかった。今日も仕事おつかれさま。今日のご飯は何が食べたい?』

『今日はカレーが食べたい』

『カレーのルーが今無いから、スーパーで買ってくるね』


 俺は眼前に広がる状況を全く呑み込むことが出来なかった。脳が現状の理解を拒絶した。

 あの日、警察とどんなやり取りをしたのかは全く覚えていない。

 ただ、あの日、優花はスーパーから自転車で帰っている最中、信号無視をした飲酒運転の猛スピードのワゴン車に強く撥ねられて、命を落とした。

 ──その原因を作ったのは俺だ。

 あの日、病院に行った俺が見た優花の姿は、まるっきり別人のようだった。猛スピードの車と衝突した優花は十数メートルにも渡って飛ばされて、頭をアスファルトに強く打ち付け、その場で死亡が確認されたそうだ。

 現実を現実と認識できず、あの日は涙が全く出なかった事は覚えている。きっとこれは夢や幻覚なのだと思った。

 それでも、事故から何日か経ち、優花の葬儀が終わった辺りから、急に俺は「優花はもうこの世にいない」という現実に襲われて胸を引き裂かれた。


『今日はカレーが食べたい』

『今日はカレーが食べたい』

『今日はカレーが食べたい』


『カレーのルーが今無いから、スーパーで買ってくるね』

『カレーのルーが今無いから、スーパーで買ってくるね』

『カレーのルーが今無いから、スーパーで買ってくるね』


 あの日、俺がカレーを食べたいなんて連絡しなければ、優花はこんな痛い思いをして死なずに済んだ。あの日、俺がカレーを食べたいなんて連絡しなければ、優花と俺はきっと今も幸せに暮らしていた。

 飲酒運転の犯人を恨む気持ちはもちろん物凄く強い。この手で殺害したくて仕方ない。

 だが、それ以上に、俺は俺自身の事を強く責めている。

 今も。


 ◆


 優花と俺が出会ったのは、今から8年前のことだ。

 俺は高校生の頃から趣味でインターネット上に小説を書いて投稿していた。優花はたまたま俺の小説をネット上で見つけてくれて、俺のファンになってくれた。

 それがお互いに20歳の時だった。偶然にも1996年生まれの同級生だった。

 更に、【優花】と【優雅】という下の名前も、偶然そっくりだった。「これってもしかして運命なんじゃない?」と優花は冗談めかして笑って言っていた。

 優花は名前の通り、優しい花のような女性だった。俺が悩み事や辛い出来事を話すと、優花は常に寄り添ってくれた。そんな彼女に感化されてか、俺の性格も柔和になった気がする。優花が泣いている時は常に俺も寄り添った。

 当時のTwitterで俺たちは連絡を取り合い、やがてLINEを交換し、何度もビデオ通話をして、実際に何度も会って遊んで、いつの間にか優花と俺は男女交際をする仲になっていた。いつの間にか同棲をしていた。

 そして入籍したのがお互いに24歳の時。

 あの頃は、こんな幸せが永遠に続いていくのだと信じて疑わなかった。

 でも、結婚からたった2年で、優花は帰らぬ人となった。俺は生きる理由と希望を失った。


 ◆


 俺は、ぼんやりと、過去の事を考えていた。


「……」


 西日が差し込む実家の2階の自室に戻った俺は、椅子に座って、スマホの写真フォルダを何度も何度も繰り返し見ていた。全て、笑顔の優花の写真だ。スマホの中には自撮りで俺と優花が一緒に笑顔で映っている写真も沢山ある。

 それらの写真を見る度に、俺の胸は優しく張り裂けそうになる。

 だけど今はもう、こうする事でしか優花の存在を感じられない。

 いつかは優花の事を忘れてしまう日が来るのだろうか?

 いや、そんな事は絶対に無い。

 俺の心の中に、俺の胸の中に、俺の頭の中に、俺の記憶の中に、俺の過去と未来の中に、常に笑顔の優花がいる。

 だから俺もいつかは笑顔で生きられるようになりたい。

 でも心が痛い。もう、届かないから。


「会いたいよ」


 とても小さな声で俺はそう呟いた。

 俺が優花の事を想っているうちにも、季節は俺を取り残して巡っていく。もう5月も下旬だ。2025年、5月21日。

 次第に俺の視界は涙で滲み始めた。

 今の俺を見て、天国にいる優花はなんて言うのだろうか?

 きっと、褒めてはくれないだろう。きっと、応援してくれるだろう。「がんばれ」と言ってくれるだろう。

 とにかく俺は優花に謝りたい。

 俺の心は常に深い悲しみと暖かい過去で覆われている。常に優花の事を考えている。

 気が付くと、俺はまた泣いていて、ティッシュで鼻水と涙を拭いた。


「……」


 俺が泣きながらボーっとしていると、手に持っていた俺のスマホに急にXの通知が届いた。

 知らない誰かからDM(ダイレクトメッセージ)が届いたようだ。

 そういえば、俺はXのDMを誰でも送れる設定にしている。

 俺は何気なくDMの内容を確認した。DMの送り主は男なのか女なのか分からない「かきくけこ」という名前の人だった。ポストは1件もしていない。フォローもフォロワーも0人だ。おそらく俺にDMを送るためだけに作られたアカウントだろう。


『はじめまして。私は●●●●さんのカクヨムの読者です。●●●●さんがこのDMをご覧になってくださっているかわかりませんが、私は何年も前から●●●●さんのファンです。いつも更新を楽しみにしています。もう2年半もカクヨムの更新はありませんが、私は今でもずっと●●●●さんの新しい小説が投稿されるのを待っています。なので勇気を出してDMを送ってみました。私は●●●●さんをずっと応援しています。突然のDM、失礼しました』


 俺はそのDMに対して、あえて返信はしなかったが、今でも俺を覚えてくれている人がネット上に存在している事がとても嬉しかった。

 ……ああ、そういえば優花と俺が知り合ったきっかけも、俺が書いていた小説を優花が好きになってくれたのがきっかけだった。

 俺は優花が亡くなってから、自然とネット上に小説を全く投稿しなくなった。

 妻の死後、俺は鬱病にもなって何もできない日々が続いている。

 何もせずに、ただただ優花の事を考えて泣きながら、死んだように生きている。

 だけどきっと優花はそんな俺の姿を望んでいないはずだ。

 俺に笑ってほしいと思っているはずだ。

 きっと優花は、俺の小説を読みたいと天国で思ってくれているはずだ。

 根拠は無いがそんな気がした。

 優花と俺を結びつけたものが俺の小説であるならば、俺は「小説を書くという行為」を永遠に続けるべきだと、そのDMを見て思えた。

 だけどもう2年半もずっと文章を書いていない。

 今の俺に、小説を書く力なんて残っているだろうか?

 いや、力が残っていなくても構わない。下手糞でも稚拙でも構わない。仮に俺の小説をこの世の誰も読まなかったとしても構わない。俺はきっと天国の優花の為に、そして今この瞬間を生きている自分が前に進む為に小説を書く必要があるのだ。

 止まった時計の針をほんの少しでもいいから、前に進めたい。

 その足掛かりは、俺が小説を再び書く事なんじゃないのか?


「…………」


 俺はしばらく無言で思案した。どんな小説を書こうか。

 どうせ書くなら、天国の優花が喜ぶような小説が書きたい。優花は俺が書くバカバカしい小説が好きだった。だけど正直、今の俺の鬱々とした精神状態ではそんな明るい小説は書けないと思う。

 それでも、少しでも前を向けるような小説が書きたい。読んでくれた人や俺が少しでも前に進めるような小説が書きたい。それが俺の理想だ。

 だが、しばらくぼーっとして頭の中でアイデアを練っても、なかなか降りてこない。無意識のうちに俺はこう呟いていた。


「ねぇ、優花はどんな小説が読みたい?」

「なんでもいいよ」

「えっ?」


 急に俺の後ろから優花の声が聞こえて、俺はすぐに振り返った。だけどそこには誰もいなかった。

 単なる空耳か……。

 だけど空耳とは思えないくらい、はっきりと聞こえた。

 俺は誰もいない空気中に向かって、こう言った。


「なんでもいいなら俺の好きに書くよ、優花。内容が暗くても明るくても、どっちでもいいよな」


 返事は無かった。


 ◆


 俺の夢の中に何度も出てくる、あの花畑。

 優花と俺でウェディングフォトを撮った、あの花畑。

 優花の死後、あえて1度も行っていない、あの花畑。

 あそこに行けばインスピレーションが湧くかもしれない。

 優花が何か俺にアイデアをくれるかもしれない。

 だけど、あの花畑に俺1人で行ったら、きっと俺は人目も憚らずに泣いてしまう気がする。

 だから明日、母と一緒に行こう。誰かと一緒なら俺は泣かない気がするから。

 夕方。俺は2階の自室を出て、1階に降りた。

 ダイニングキッチンでは、俺の母親が料理を作っている。もうすぐ夜だ。仕事を終えた父親も帰ってくる。

 俺は料理中の母親にこう言った。


「お母さん、明日行きたい場所があるんだけど」

「ん、どこ?」

「優花とよく行ってた、花畑」


 俺がそう言うと、一瞬母親は驚いたような顔を見せたが、やがて笑顔を浮かべ、


「わかった。じゃあ明日、連れてくよ」


 と言ってくれた。


「ありがとう」


 俺は多くは語らず、お礼だけ述べて再び2階へと上がった。


 ◆


 昼夜逆転生活を送っている俺だが、明日は出来るだけ早めの時間にあの花畑に行きたいと思ったから、いつもより早めに睡眠薬を飲んで、結果的には深夜の4時頃に眠りにつくことが出来た。

 起きたのは、午前の10時くらい。6時間も寝られた。

 部屋は日光で明るく照らされていて、幸い天気も晴れている。

 俺はいつも通り、起床してすぐに1階の仏壇まで行って、線香を立てて仏具を鳴らして両手を合わせて目を閉じて優花の事を考えた。


「優花、今日はあの花畑に行ってくるよ。また小説を書く為に。前を向く為に」


 と俺は小さい声で呟いた。

 すると、俺のそばに来た猫のマルが「にゃ」と鳴いた。

 俺は歯を磨いて電動髭剃りで髭を剃り、久し振りにシャワーを浴びて着替えた。

 その後、リビングに入ると、コタツ机の前に座ってテレビでユーチューブを見ていた母に、


「おはよう」


 と言われた。


「おはよう。もう行ける?」


 と俺は訊ねた。

 すると母は、


「うん」


 と頷いた。


 ◆


 母が運転する自動車の助手席に乗って、俺は優花との思い出が沢山詰まった花畑へと向かった。道中、俺はずっと無言で車窓を流れる外の景色をぼんやりと眺めていた。よく考えてみれば、この2年半の生活の中で初めて通院以外で外に出た。

 優花を失って、もう2年半なのかという気持ちと、まだ2年半なのかという気持ちの両面がある。

 俺はまだ、全然前を向けてはいない。

 だけど、俺が小説を書くことで優花と俺は出会えたのだから、きっと天国の優花は俺が小説を書くことを望んでいる。きっと俺が泣くことは望んでいないはずだ。

 全て俺の妄想に過ぎないけれど。

 俺がぼーっとしていると、やがて目的地の花畑が近づいてきた。

 上り坂になっている道路を上り、土で出来た駐車場に母が車を停めた。平日の昼間にも関わらず、割と多くの車が停まっている。


「今日は結構混んでるね」と母。

「うん」


 俺と母は車から降りた。

 そして歩いていると、俺はとても懐かしい気持ちになった。優花とよく2人でここに来た。お互いが楽しい時も辛い時も、この広い花畑に来たら、気分が落ち着いた。

 少し歩くと、色んな花が沢山見えた。

 今は五月の下旬だ。

 だから、バラ、ツツジ、フジ、ポピー、ハナショウブなどが一面に咲いている。

 俺は元々花の種類には詳しくなかったのだが、優花と一緒に来ているうちに自然と花の名前を沢山覚えていた。優花は花が大好きだったからだ。

 俺と母はゆっくりと花畑の中を歩いていく。


「綺麗だね」


 と母が言う。


「うん。綺麗」


 と俺が言う。俺は続けてこう言った。


「優花が亡くなってから、初めて来た。ここは何も変わってない」

「優花ちゃんもきっと今、ここに来てるよ」

「そうだね。俺、夢でいつもこの花畑に来るんだ。いつも優花と一緒なんだ」

「へぇ。そっか」

「だから、久し振りに来た感じがしない」


 俺はおもむろにスマホを取り出して、色んな花の写真を撮った。

 小説のインスピレーションは特に降りてこなかったが、久々に優花との思い出の花畑に来ることが出来たからか、普段は陰鬱とした俺の気分が今日はいつもより晴れ晴れとしている。この花畑にいると、穏やかな気持ちになれると同時に、完全に止まった時計の針がほんの少しだけ前に動き始めたような感覚がした。

 いつまで経ってもクヨクヨしてたら、天国にいる優花にきっと怒られる。少しでもいい。俺は前に進みたい。

 しばらく花畑に母と滞在して、車で家に帰宅した。


 ◆


 俺は「今日はありがとう」と母に告げて車から降り、2階の自分の部屋に戻り、かなり久し振りにノートパソコンを開いて、約2年半ぶりにカクヨムにログインして、短編小説をゆっくりと書き始めることにした。

 約2年半ぶりの小説執筆となる。

 今の俺がどんな小説を書けるのか、全く分からない。どれほどの時間が掛かるかも全く分からない。鬱の治療中の俺に一体何が書けるのか全く分からない。

 でも俺は少しでも時計の針を前に進めたい。

 しばらく考えているうちに、なんとなくの構想は決まった。

 この小説は、優花に捧げる小説にしよう。そして俺が前へ進む為の小説にしよう。


「タイトルは、何にするか…………」


 5分くらい考えて、俺は小説のタイトルを【永遠の喪失、永遠の愛、天国の君へ送る小説】に決めた。










 ~終わり~



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