第16話 死


朝日が王宮の尖塔を金色に染め始めた頃、首都は異様な静けさに包まれていた。通りを行き交う人々は足早に、そして声を潜めて会話し、時折不安げに王宮の方向を見やる。噂は既に街中に広がっていた。


ヴィオレットはサイファー邸の窓辺に立ち、首都の様子を見下ろしていた。薄紫色の空に輝く朝焼けは、あまりにも美しく、今日という日の重大さとは不釣り合いだった。


「来るべき日が来たのね」


彼女の声は小さく、風に消えるように響いた。侍女のメリッサが背後で静かに立っていたが、その表情はいつもより緊張していた。


「お嬢様、ご主人様がお呼びです」


ヴィオレットは小さく頷き、窓から離れた。ドレスの裾を整えると、メリッサが差し出した青薔薇の髪飾りを手に取った。それを髪に留めながら、彼女の指先が微かに震えるのが感じられた。前世では、この日はまだ先のはずだった。皇帝の死は二年後のことだったはずなのに。


アシュトンは書斎で待っていた。彼は窓際に立ち、ヴィオレットと同じように外の景色を見つめていた。彼女が入ってくると、振り返りもせずに言った。


「噂は本当だ。皇帝陛下は昨夜、逝去された」


彼の声は低く、静かだったが、その言葉は部屋の空気を一変させた。ヴィオレットは立ち尽くし、胸の内で計算を始めた。前世では、皇帝の死は彼女の処刑の後だった。時間軸がずれている。何かが変わった。


「毒殺ですか?」彼女は冷静に尋ねた。


アシュトンは重々しく頷いた。「王室医師団の見立てではそうだ。『銀の涙』の痕跡が見つかったらしい」


「『銀の涙』…」ヴィオレットは呟き、その名前に含まれる皮肉に苦笑した。ポイズン家の調合した最も純粋な毒薬。無色無臭で検出が難しい。彼女の父が完成させた傑作だった。


「父は呼ばれていますか?」


「ああ。毒物鑑定のためにな」アシュトンは窓から離れ、ようやくヴィオレットの方を向いた。「しかし、これは違う。時間が変わった。前世では…」


「まだ二年あったはず」ヴィオレットが言葉を継いだ。「何が変わったのでしょう?」


アシュトンは机に近づき、そこに広げられた報告書に目を落とした。「父…宰相は既に動き始めている。今朝方から各地の兵を呼び寄せた。皇宮を封鎖し、セラフィナを含めた王族は全員『保護』のため別棟に移された」


「監禁と言い換えてもいいでしょうね」ヴィオレットは冷ややかに言った。「次はプロジェクト・ラザロですか」


アシュトンは顔を上げ、彼女を見つめた。瞳の中に決意が宿っている。「俺たちの予定も前倒しだ。今日、父に会いに行く」


「今日?」ヴィオレットは驚いて眉を上げた。「まだ準備が…」


「時間がない」アシュトンは言い切った。「父は今、最も油断している。自分の計画が予定より早く進んでいると思っている。皇位継承者である従兄は既に捕らえられた。次は、時の力を持つ者たちだ」


それは、彼らのことでもあった。


ヴィオレットは窓の外に広がる街を再び見た。静かな混乱が波のように広がっているのが感じられた。


「わかりました」彼女は静かに答えた。「行きましょう」


静かな廊下を二人は歩き始めた。今日、サイファー家の執事たちは皆、皇宮に呼び出されていた。館は驚くほど静まり返っていた。


「ポイズン家の当主として、父が呼ばれたことは良い機会かもしれない」ヴィオレットは考えを口にした。「宮廷の目は彼に向いている。私たちがロドリックに近づくことができる」


アシュトンは頷いた。「俺は父の印章を持っている。東の翼に入れるはずだ」


彼らは無言で館の奥へと進んだ。サイファー家の館は迷路のように複雑で、特に東の翼は一般の使用人さえ立ち入りを制限されていた。


階段を降り、何度も曲がりくねった廊下を進むと、重々しい鉄の扉が現れた。アシュトンはポケットから小さな鍵と印章を取り出した。


「ここが父の秘密の書斎だ」彼は鍵を差し込みながら言った。「ここにプロジェクト・ラザロの資料があるはずだ」


鍵は静かに回り、印章を扉の窪みに押し当てると、重い扉がゆっくりと開いた。


中に入ると、彼らは息を呑んだ。壁一面に広がる書架、中央に置かれた実験台、そして何よりも目を引いたのは、部屋の奥に設置された大きな水晶球のような装置だった。それは青い光を放ち、中で何かが渦を巻いているように見えた。


「時の器…」ヴィオレットは驚きの声を漏らした。古文書に記された伝説の装置。時間の力を物理的に捉える器だった。


アシュトンの表情は硬く、水晶球に近づきながら言った。「やはり父は…我々の想像以上に進んでいる」


突然、背後で声がした。


「まさか息子が裏切るとは思わなかったよ、アシュトン」


二人は振り返った。そこには宰相ロドリック・サイファーが立っていた。彼の隣には、笑みを浮かべたセラフィナの姿があった。


「セラフィナ…?なぜあなたが…」ヴィオレットは困惑の声を上げた。


セラフィナの笑みは深まり、彼女は静かに言った。「歓迎するわ、ヴィオレット、アシュトン。ついに三人揃ったわね」


ロドリックは前に進み出た。「息子よ、時の実験は既に最終段階だ。そして皇帝はもういない。我々の前に立ちはだかるものは、もうない」


アシュトンは一歩も引かなかった。「父上、あなたは何をしようとしているのですか。皇帝を殺したのはあなたですね?」


「殺したのは私よ」セラフィナが答えた。彼女の声は冷たく澄んでいた。「ロドリック卿の計画よりも少し早めたの。時は待ってくれないから」


ヴィオレットは混乱した。セラフィナは前世では彼女の友人だった。皇族の血を引きながらも、権力争いからは距離を置いていた人物のはずだった。しかし今、彼女の姿は全く異なっていた。


「あなたは…」ヴィオレットは言葉を探した。


セラフィナは肩をすくめた。「私のことは後で説明するわ。今は彼に聞きなさい」彼女はロドリックを指さした。「彼が全てを話す時が来たのよ」


ロドリックはゆっくりと部屋の中央へと歩み寄った。「皆さん、新しい時代の始まりを見届けてください。プロジェクト・ラザロの完成と、私の永遠の支配の始まりを」


彼が腕を広げると、水晶球の青い光が急に強まり、部屋全体が震え始めた。アシュトンはヴィオレットに駆け寄り、彼女を抱き寄せた。


「逃げるぞ!」彼は叫んだ。


しかしセラフィナが彼らの前に立ちはだかった。「逃げられないわ。これは私の計画でもあるの」


水晶球の光がさらに強まり、部屋の壁や天井がゆがみ始めた。まるで現実そのものが歪んでいるかのようだった。


ヴィオレットは恐怖と共にセラフィナの瞳を見つめた。そこには彼女の知らない光、何度も時を巡った者だけが持つ古さと深さが宿っていた。


「あなたは一体…」


セラフィナは指を唇に当て、静かに告げた。「秘密よ。次の時間で、また会いましょう」


その瞬間、水晶球が砕け散り、青い光が爆発のように広がった。ヴィオレットはアシュトンの腕の中で目を閉じた。激しい光と共に、彼女の意識は白い闇へと沈んでいった。

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