第15話 時の友


夜の帳が完全に降りた頃、ヴィオレットとアシュトンは人目を避けるように王宮へと向かった。セラフィナの私室への秘密の通路を使うよう言われていたのだ。その小さな脇門は、長い間使われていなかったように見えた。錆びた鍵を開け、二人は静かに中に滑り込んだ。


「本当に来ると思っていたわ」


薄暗い廊下の奥から、セラフィナの声が聞こえた。彼女は普段の明るい装いではなく、質素な黒いドレスを身につけていた。金のペンダントだけが、ランプの光を受けて輝いている。


「あなたの助けに感謝するわ」ヴィオレットは慎重に言った。「でも、なぜ?」


「ここではない」セラフィナは周囲を警戒するように見回した。「ついて来て。話すべきことは山ほどあるわ」


彼女は二人を導いて、廊下の奥へと進んだ。幾つもの曲がり角を通り、ついに彼らは小さな部屋に辿り着いた。丸いテーブルの上には古い地図と文書が広げられ、壁には複雑な図表が貼られていた。


「わたしの研究室よ」セラフィナは扉を閉め、内側から鍵をかけた。「ここなら安全に話せる」


「あなたが皇族だったとは」アシュトンは部屋を見回しながら言った。


「隠れていた理由があるのよ」セラフィナはテーブルに近づいた。「皆さんと同じように、わたしにも守るべきものがあった」


「皆さんと同じように?」ヴィオレットは鋭く問いかけた。「それはどういう意味?」


セラフィナはため息をついた。


「もう隠す必要はないでしょう。あなたたちも気づいているはず」彼女はテーブルの上の古文書を示した。「わたしたちは同じなの。時間遡行者」


言葉が部屋に重く響いた。アシュトンとヴィオレットは互いに視線を交わした。


「だからあなたはわたくしを見つけ出したの?」ヴィオレットが尋ねた。


「ええ。時間遡行者同士は互いを引き寄せ合うの。古文書で読んだでしょう?」セラフィナは微笑んだ。「王宮の図書室で見つけた本。あれはわたしがわざと目立つところに置いたのよ」


「私たちを導くために」アシュトンは低い声で言った。


「正確には、ヴィオレットを導くためよ。あなたが時間遡行者だとは…驚きだわ」


アシュトンは黙ったまま、壁の図表に近づいた。そこには複雑な時間軸の図が描かれていた。


「どれほど前から知っていたの?」ヴィオレットは問いかけた。「そして、前世ではどうだった?」


「前世では、あなたとは宮廷で表面的な付き合いしかなかったわ」セラフィナは椅子に腰掛けた。「あなたが処刑される日、わたしも同時に暗殺されたの。ロドリックの命令でね」


「父が?」アシュトンは振り返った。


「ええ。彼はプロジェクト・ラザロの痕跡を消そうとしたのよ。皇帝の血を持つわたしと、実験台のヴィオレット。二人の時間遡行者を」


「それで時間を遡ったのね」


「そう。死の瞬間、強い願いを持って」セラフィナの目に悲しみの色が浮かんだ。「あなたよりもっと前に戻ったわ。15歳の頃に」


「15歳…」アシュトンは考え込むように言った。「それはいつだ?」


「7年前よ」セラフィナは立ち上がり、壁に貼られた年表を指さした。「この時点に戻り、すべてをやり直したの。ロドリックの計画を阻止するために」


「ならばなぜもっと早く教えてくれなかったの?」ヴィオレットは感情を抑えきれずに問いただした。「前世での悲劇を避けられたはず」


「そう単純ではないわ」セラフィナの表情が厳しくなった。「時間遡行には法則があるの。あまりに大きく歴史を変えようとすると、時間は修正しようとする。因果の節目というものがあって」


「因果の節目?」


「決定的な出来事。それはどの時間軸でも必ず起こる。時間はその節目に向かって流れを修正するの」セラフィナは肩を落とした。「わたしは何度も試したわ。でも、ある程度以上は変えられなかった」


アシュトンがテーブルの古文書を手に取った。


「これは…時間遡行に関する研究だな」


「そう。前世の記憶を頼りに集めたの」セラフィナはテーブルに戻り、一枚の紙を広げた。「これが一番重要な発見よ」


三人は紙に向かって身を寄せた。そこには古い言語で記された文章と、三つの円が描かれていた。


「『時の力を持つ者は二人にあらず。三位一体の環が満たされたとき、真の力が解き放たれる』」セラフィナが朗読した。


「三人…」ヴィオレットが囁いた。「わたくしとセラフィナ、そして…」


「私だ」アシュトンが静かに言った。「だが、どうして私に能力がある?皇族の血筋でもないのに」


セラフィナは深く息を吸い込んだ。


「これが一番話しにくい部分だわ」彼女はアシュトンを見つめた。「あなたのお母さんは、プロジェクト・ラザロの最初の成功例だったの」


「何だと?」アシュトンの顔が強張った。


「彼女は皇族の血を投与された最初の被験者。そして…それが功を奏した」セラフィナの声は静かだった。「あなたは彼女からその能力を受け継いだのよ」


「母は…実験台だったのか」アシュトンの拳が震えていた。「それで彼女は…」


「亡くなった。能力が不安定で、体が耐えられなかったの」


アシュトンは壁に背を向け、感情を抑えようと努めていた。ヴィオレットは彼に近づき、静かに腕に手を置いた。


「アシュトン…」


「大丈夫だ」彼は振り返った。目には決意が宿っていた。「これで父に復讐する理由がもう一つ増えた」


「復讐は解決にならないわ」セラフィナが言った。「それより重要なのは、時間の流れを正すこと」


「正すって?」ヴィオレットは問いかけた。


「ロドリックは時間を操作する実験を続けている。彼は皇帝から権力を奪い、永遠の支配を望んでいるの」セラフィナはテーブルの地図を指さした。「東部施設。そこで最終段階の実験が行われている」


「何の実験だ?」


「人工的な時間遡行装置の完成よ。皇帝の血と砂時計を使って、ロドリックだけが時間を操作できるようにする。そうなれば、彼は歴史を自由に書き換えられる」


「それはいつ?」ヴィオレットが問うた。


「3日後」セラフィナは年表の日付を指さした。「この日。前世でもこの日にあなたは処刑された。それが因果の節目なの」


「つまり、運命は変えられないということ?」ヴィオレットの声には絶望が滲んでいた。


「いいえ」セラフィナは力強く言った。「変えられる。三人の時間遡行者が力を合わせれば」


「具体的には?」アシュトンが訊いた。


「東部施設に潜入し、装置を破壊する。でも、それには三人全員の力が必要よ」セラフィナはペンダントを握りしめた。「このペンダントは鍵になる。皇族の血が込められているの」


「それにしても、なぜわたくしが標的に?」ヴィオレットは疑問を投げかけた。「単なる実験台だったのなら」


「あなたの反応が特別だったからよ」セラフィナは説明した。「通常、皇族の血を投与された者は副作用で死ぬか、能力が不安定になる。でも、あなたは違った。安定して能力を保持した。ロドリックはその理由を知りたがっている」


「理由は…」ヴィオレットは考え込んだ。「わたくしのポイズン家の特性かしら。毒に対する耐性が代々受け継がれてきたから」


「可能性はあるわ」セラフィナは頷いた。「いずれにせよ、ロドリックはあなたを観察したかった。でも、処刑によってその機会を失った。だから今度は、より慎重に動いているの」


「それで結婚を勧めた」アシュトンが暗い声で言った。「私と結婚すれば、サイファー家で監視できる」


「正確には、ロドリックはヴィオレットが時間遡行したことを知らないわ」セラフィナは説明した。「彼は実験が成功したと思っているだけ。だからこそ、わたしたちにはチャンスがある」


セラフィナは立ち上がり、小さな箱を取り出した。開くと、三つの小さな砂時計が入っていた。


「これは時間遡行者の象徴。三人で力を合わせれば、時間の流れを操る力が生まれるわ」


「具体的にどう使うの?」ヴィオレットは砂時計を手に取った。


「東部施設で説明するわ。今はまず、安全な場所へ移動しなければ」セラフィナは急いで荷物をまとめ始めた。「ロドリックはもうすぐわたしの正体に気づく。それまでに―」


突然、廊下から足音が聞こえた。三人は息を潜めた。


「誰かが来る」アシュトンは低い声で言った。


「隠し通路よ。あそこから」セラフィナは壁の一部を押した。「森の隠れ家に向かって。そこで待ち合わせましょう」


「あなたは?」ヴィオレットが問うた。


「少し時間を稼ぐわ。必要な書類をもっと集めないと」セラフィナは二人を通路へと押し出した。「行って!」


アシュトンはヴィオレットの手を取り、通路へと引き込んだ。扉が閉まる瞬間、セラフィナの最後の言葉が聞こえた。


「時の力を持つ者たちよ、運命は変えられる」


狭い通路を駆け抜け、二人は宮殿の裏手に出た。月明かりだけが彼らの姿を照らしている。


「森の隠れ家とは?」ヴィオレットは息を切らしながら尋ねた。


「父から隠れるために用意していた場所だ」アシュトンは周囲を警戒しながら答えた。「馬を調達しよう」


彼らは宮殿の厩舎から二頭の馬を借り、静かに夜の闇へと消えていった。アシュトンが先導し、彼らは街から離れ、森の奥深くへと向かった。


馬上のヴィオレットは、風に吹かれながら考えていた。わずか数時間前までサイファー家の夫人という檻の中にいたのに、今や逃亡者となっている。そして運命の日まであと3日。前世での処刑の日が迫っている。


彼女は砂時計を握りしめた。「時の力を持つ者は三人」という言葉が頭の中で繰り返された。この三人で、本当に運命を変えられるのだろうか。


「到着だ」


アシュトンの声で我に返ると、彼らは小さな木造の小屋の前に立っていた。質素だが、隠れ家としては理想的な場所だった。


「父は決してここを見つけられない。学生時代の友人名義で購入したからな」


中に入ると、シンプルだが必要なものはすべて揃っていた。アシュトンはランプを灯し、暖炉に火を入れた。


「セラフィナは本当に来るのかな」ヴィオレットは窓の外を見つめながら言った。


「来るだろう。彼女にもやるべきことがある」アシュトンは椅子に腰掛けた。「なぜ母がプロジェクト・ラザロの実験台だったのか…今ようやく理解できる」


「あなたのお母様が時間遡行の能力を持っていたということは、あなたも生まれながらにその力を…」


「そうだろう」アシュトンは静かに頷いた。「子供の頃から、時々奇妙な夢を見ていた。まるで別の人生を生きているような」


「それは前世の記憶かもしれないわ」


「だとしたら…」アシュトンは顔を上げた。「私はあなたと前世でも会っていたのかもしれない。そして…」


彼は言葉を切った。ヴィオレットは彼の苦悩を理解した。前世での罪の意識が、今も彼を苦しめているのだ。


「過去は変えられないけど」彼女は静かに言った。「未来は変えられる。あなたが教えてくれたことよ」


アシュトンはヴィオレットを見つめた。その目には感謝と決意が混ざり合っていた。


「時を遡った私たちにしかできないことがある」彼は立ち上がり、窓際へ歩み寄った。「セラフィナが言っていた三位一体の環。それが何を意味するのか、もうすぐわかるだろう」


彼らは静かに夜を見つめた。砂時計の砂が滑り落ちるように、運命の日は刻一刻と近づいていた。二人の時間遡行者が、最後の仲間を待ちながら。

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