第17話 王位継承者

ヴィオレットが目を覚ますと、自室のベッドに横たわっていた。窓の外は暗く、星明かりだけが部屋に滲んでいた。頭痛に顔を顰め、起き上がろうとすると、誰かが彼女の手を握っていることに気づいた。


アシュトンだった。彼は椅子に座り、伏せた頭を彼女のベッドに乗せて眠っていた。その姿はいつもの厳しさを失い、少年のようにも見えた。


「アシュトン…」彼女は小さく呼びかけた。


彼はすぐに目を覚まし、飛び起きた。「ヴィオレット!大丈夫か?」


その声には、いつもの冷静さではなく、明らかな安堵と心配が混じっていた。ヴィオレットは弱く微笑んだ。


「何が…起きたの?」


アシュトンは立ち上がり、窓の方へ歩いた。「爆発だ。父の書斎にあった『時の器』が暴走した。俺たちは運良く投げ出されて無事だったが、東の翼の一部は崩壊した」


「セラフィナと…あなたのお父様は?」


アシュトンは沈黙した後、静かに答えた。「行方不明だ。瓦礫の中から見つからなかった」


ヴィオレットはゆっくりとベッドから降り、身支度を整えようとした。しかし、脚がまだ言うことを聞かなかった。アシュトンがすぐに彼女を支えた。


「まだ休むべきだ。爆発から12時間しか経っていない」


「12時間も?」彼女は驚いて尋ねた。


「ああ。そして外の状況はますます混乱している」アシュトンは窓の外を指した。遠くで松明の光が揺れ、時折叫び声が聞こえた。「皇帝の死と宰相の失踪。そして…」


「そして?」


アシュトンはヴィオレットをベッドに戻すと、机の上から一枚の書類を取ってきた。「これは今朝、公開された」


それは皇帝の遺言書だった。最期の意思として、皇帝は王位継承者にセラフィナ・ローズマリーを指名していた。公文書には彼女が皇帝の隠し子であることが明記されていた。


「セラフィナが…皇帝の娘?」ヴィオレットは言葉を失った。


アシュトンは苦々しい表情で頷いた。「しかも、彼女は行方不明だ。皇族は彼女を探すため、都中を捜索させている」


ヴィオレットは書類を置き、考え込んだ。「前世では、こんなことはなかった。セラフィナが皇帝の娘だという話も、遺言書も」


「何かが根本から変わっている」アシュトンは同意した。


静かな寝室に、突然ノックの音が響いた。アシュトンは警戒して立ち上がり、「誰だ?」と尋ねた。


「わたくしです、メリッサです」侍女の声が返ってきた。「お客様がお二人をお尋ねです」


アシュトンは目配せし、ヴィオレットに頷いた。彼女は静かに青薔薇の髪飾りを手に取り、それを胸元に隠した。いざとなれば武器になる。


「入れ」アシュトンが命じた。


ドアが開き、メリッサが入ってきた。その後ろに立っていたのは、ヴィオレットの父、エドガー・ド・ポイズンだった。


「父上!」ヴィオレットは驚いて声を上げた。


エドガーは疲れた表情だったが、無事な娘を見て安堵の表情を浮かべた。「ヴィオレット、無事で良かった。噂を聞いて心配していた」


「宮廷での任務はどうなったのですか?」ヴィオレットが尋ねた。


エドガーは重々しく部屋に入り、扉を閉めるようメリッサに合図した。「先ほど終わった。皇帝陛下の死因は確かに『銀の涙』だ。しかも、我が家の調合と同じものだった」


アシュトンとヴィオレットは驚きの視線を交わした。


「我が家の毒が使われたということは…」ヴィオレットは言葉を選びながら言った。


「嫌疑がポイズン家に向かうということだ」エドガーは静かに言った。「しかし、現在は宰相の失踪と、皇女セラフィナの王位継承問題で宮廷は大混乱だ。我々への捜査はまだ二の次とされている」


「それはお父様が疑いをかけられているということ?」ヴィオレットは心配そうに尋ねた。


エドガーは疲れた笑みを浮かべた。「ポイズン家は代々、皇帝の毒見を務めてきた。疑いをかけるなら、もっと賢い方法で毒殺するだろうと言われている。皮肉なことに、我々の専門性が今は盾になっている」


アシュトンが身を乗り出した。「伯父上、セラフィナについて何かご存知ですか?」


エドガーは眉を寄せた。「セラフィナ・ローズマリー…確かに私は彼女の母親を知っていた。王宮の侍女長だった女性だ。美しく聡明な人だったが、十年ほど前に謎の死を遂げた」


「彼女が皇帝の子であることは?」ヴィオレットが尋ねた。


「噂はあった」エドガーは認めた。「しかし公然の事実になるとは思わなかった。現在、都の議会は遺言書の真偽を調査している」


アシュトンは窓際へ歩み、街の明かりを見つめた。「彼女が本当に皇帝の娘なら、王位継承権は正当だ。しかし、彼女は一体どこにいるのか…」


部屋に沈黙が広がった。ヴィオレットは父の疲れた表情を見つめ、何か言いたげな様子を感じ取った。


「他に何かあるのですか、お父様?」


エドガーは一瞬躊躇い、それから決意したように言った。「ヴィオレット、サイファー卿の書斎での爆発の後、王宮の地下室でも奇妙な揺れが観測された。そして…」


「そして?」アシュトンが振り返った。


「皇宮の秘密の間から、古い祭壇が発見された。それは『時の神』を祀るものだったという」


ヴィオレットとアシュトンは驚いた視線を交わした。


エドガーは続けた。「さらに、その祭壇から出土した古文書には、王家の血に秘められた力について記されていた。『時を統べる者』『時を巡る者』の記述があったという」


アシュトンは静かに言った。「それが、プロジェクト・ラザロの目的だったのか…」


エドガーは疑問の表情を浮かべたが、詳しく尋ねることはなかった。代わりに彼は懐から小さな箱を取り出した。


「ヴィオレット、これを持っていなさい」


箱の中には、濃紺の液体が入った小さな瓶があった。


「これは…」


「『月光水』だ」エドガーは静かに言った。「我が家に伝わる最強の解毒剤。どんな毒をも中和する」


ヴィオレットはその瓶を大切そうに受け取った。「なぜ今…?」


「時代が変わろうとしている」エドガーは娘の頬に触れた。「お前たちが何かの渦中にいることは分かる。詳しくは尋ねない。だが、危険が迫っていることは感じている」


エドガーはアシュトンにも視線を向けた。「サイファー様、娘をよろしく頼みます」


アシュトンは深く頭を下げた。「命に代えても彼女を守ります」


エドガーは満足げに頷くと、立ち上がった。「私は今夜、領地に戻る。宮廷が落ち着くまでは身を潜めておくのが賢明だろう」


ヴィオレットは父を抱きしめた。「気をつけて」


部屋からエドガーが去った後、二人は静かに向き合った。


「これからどうする?」ヴィオレットが問いかけた。


アシュトンは決意の表情で答えた。「セラフィナを見つける。彼女が全ての鍵を握っている」


「どこから探せばいいの?」


「まず、父の研究資料だ」アシュトンは言った。「爆発で東の翼は大部分が崩壊したが、地下室は無事のはずだ。そこに手がかりがあるかもしれない」


ヴィオレットは父からもらった青い瓶を見つめ、それから決意を固めたように立ち上がった。「行きましょう」


二人は廊下を静かに進み、館の奥へと向かった。サイファー家の使用人たちは、宰相の失踪と館の一部崩壊で混乱していた。誰も二人に注目していなかった。


地下室への入り口は重い鉄の扉で閉ざされていたが、アシュトンが父から盗んだ鍵で開けることができた。階段を下りると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。


「ここが父の本当の研究室だ」アシュトンは松明を掲げて言った。


地下室は広く、壁一面に書架が並び、中央には実験台や奇妙な装置が置かれていた。しかし、最も目を引いたのは奥の壁に描かれた巨大な円環図だった。


「これは…」ヴィオレットは驚きの声を上げた。


「時間の輪」アシュトンが答えた。「父の研究の核心だ」


彼らが円環図に近づくと、その複雑な模様や記号が浮かび上がった。図の中心には、小さな部屋や通路を示す設計図があり、「神殿」という言葉が記されていた。


「神殿…あなたのお父様は、時の神殿を探していたの?」


アシュトンは図面を検討しながら答えた。「探していたというより、再建しようとしていたようだ」


彼は側の机から書類を取り上げ、ページをめくった。「ここに書かれている。父は時の神殿を発掘し、そこでプロジェクト・ラザロの最終実験を行うつもりだった」


「そして、その場所は?」


アシュトンは驚いた表情で彼女を見た。「王宮の地下だ」


「つまり、エドガー様が言っていた発見された祭壇は…」


「父が準備していた実験場だ」アシュトンは言葉を継いだ。「セラフィナはそこにいる可能性が高い」


突然、背後で物音がした。二人は振り返ったが、そこには何もなかった。


「誰かいるの?」ヴィオレットが小声で尋ねた。


アシュトンは松明を掲げて周囲を照らした。「気のせいかもしれない…」


彼らは再び資料に向き合った。アシュトンは地図を手に取り、「王宮への秘密の通路だ。父はここから直接王宮へ行ける道を作っていた」


「秘密の通路?」


アシュトンは頷き、地下室の一角にある書架を指した。「あそこだ」


彼が書架の一冊の本を引くと、静かな機械音とともに書架全体が左へスライドし、暗い通路が現れた。


「まさか…」ヴィオレットは驚いた。


「行こう」アシュトンは松明を前に掲げた。「セラフィナが何を計画しているのか、確かめなければならない」


彼らが通路へ足を踏み入れようとした瞬間、再び物音がした。今度ははっきりとした足音だった。


「誰だ!?」アシュトンは声を上げた。


暗闇から現れたのは、老執事クロードだった。


「若様、お止めください」彼は静かに言った。


「クロード…」アシュトンは驚いた。「なぜここに?」


「私はずっとここで当主の研究を見守ってきました」クロードは答えた。「そして若様も、ポイズン様も、危険に近づきすぎています」


「何が言いたい?」アシュトンが尋ねた。


クロードは彼らに近づき、低い声で言った。「セラフィナ様は、あなた方が思っている以上の存在です。彼女は…」


彼が言葉を続けようとした瞬間、地下室全体が大きく揺れた。天井から埃が降り、書架から本が落ちた。


「なっ…!?」ヴィオレットは叫び、アシュトンが彼女を支えた。


「時間が動いている」クロードは恐怖の表情で言った。「彼女が始めたのです」


「何を?」アシュトンが問いただした。


「時の祭壇を起動させたのです」クロードは答えた。「彼女は幾度も時を巡ってきた方です。今回の時間軸でも、彼女は皇帝の娘として王位を継ぐ計画を立てていた。でも本当の目的は…」


再び強い揺れが地下室を襲った。今度は地面に亀裂が走り、奥の壁が崩れ始めた。


「逃げるぞ!」アシュトンはヴィオレットの手を取った。


クロードは呆然と立ち尽くし、「もう遅い…時間はもうない…」と呟いた。


二人はクロードを残して秘密の通路へ駆け込んだ。背後では地下室が崩壊し始めていた。暗い通路を松明の光だけを頼りに前進しながら、二人は王宮へと向かった。


「セラフィナも時間遡行者なの?」ヴィオレットは走りながら尋ねた。


「そうらしい」アシュトンは息を切らせながら答えた。「しかも、俺たちよりも多くの時間を巡ってきたようだ」


「なぜ私たちに近づいたの?」


「それを確かめるために、彼女を見つけなければならない」


通路の先に光が見え始めた。二人は足を速め、出口に向かって走った。そこはまさに、王宮の地下深くだった。

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