モノクロボックス

依近

第1話



 雨が降っていたように思う。耳底に纏わりつくホワイトノイズを払おうと、耳元で払った冷たい指先が硬い耳朶に触れた。広げたビニール傘からポツッと落ちる透明な雫。連続して続く音の波を乱す音階は、思考に食い入り視界を晴らした。

 ハッと吐き出した息が舌に触れ、透明な唾液が滑り、コクンと呑み込むと甘い味がした。重い湿気が肩に圧し掛かって、丸めた背中をトンと押す。

 躓いたような不格好な一歩。フルッと頭を振る動作で湿った前髪が揺れる。

(前髪、長いな)

 ぼんやりとそんなことを思案しながら、湿気を吸ったせいでいつもより余計に悪い視界に、瞬きで目を凝らす。

 足元に出来た水溜まりに映る自分と一瞬視線を交わし、微かに持ち上げる視線。積まれた半透明のゴミ袋の上に、無造作に捨てられている白い人間。

(人だから、捨てられてるってのは変か)

 膝を折り曲げしゃがんで、ビニール傘越しに倒れている人間と目線の高さを合わせてみる。一定の感覚で落ちていた雫が乱れ、流れることなく留まっていた雨粒がザァと一気に押し流され落ちていった。

 人間の足は裸だった。明らかにサイズの合っていない上下白の衣服は雨を吸って体に貼り付き、痩せた輪郭を浮き立たせている。凹凸の少ない体つきは男性のもの。サイズの大きな衣服からはみ出した手足は、人工の色と地続きのように白かった。白い頬にペタッと貼り付いた髪も根元まで別の色を含まない、色素のない金髪。

 閉じたままの瞼を縁取る長い睫毛と、微かに隙間を開けた唇と、その端に光るシルバーのピアスだけが、彼が宿す色彩。ついでに、隙間から漏れる息遣いと、速いピッチで上下する肩が、彼が生きていることを伝えている。

 魔が差した、と思う。呼ばれたわけでも、乞われたわけでもないのに。ましてや、人助けをするような気質でもでない。

 折り曲げていた腕を伸ばして、雨に打たれる彼の頭の上に、ビニール傘を差し出していた。頼りない外灯の明かりがぼんやり照らすゴミの山。雨の夜に沈む通りに、唯一の光源を遮る透明な膜の下で、ドット模様の影が頬に映る。

「大丈夫?」

 ホワイトノイズを決定的に乱す声。異物には敏感に反応するらしい聴覚は、自分と似ているなとぼんやり思う。

 一瞬、震えてヒクヒク動く眦。長い睫毛がフルリ揺れ、ゆっくり隙間を開いた。

 瞳の色まで薄いから、彼は誰かに色彩を奪われてしまったのかもしれない。

(それが別にゴミ捨て場に倒れてる理由にはならんだろうけど)

「ん……ぁあ、寝ちゃったんだ。寒いねえ。いつから雨降ってた?」

「いつからとかは知らんけど……いつからここに倒れてた?」

「あー……んー……んん?」

 白い彼は不安定な足場の上で体を起こし、周囲を見回してから口元のピアスを指先で掻いた。ヘラッと力の抜けた笑いを浮かべて、色素の薄い目を綺麗に細める。

 額に貼り付いた前髪は同じくらいの長さだろうか。複雑にうねる様は、癖毛なのかもしれない。

 しゃがんだ格好でいると、合わせたと思っていた目線は逆転していた。白い彼は掌を上に向けて。外灯の頼りない光を掬うような手つきで夜を撫でる。

「雨、止んだ?」

「ん、ああ」

 そういえば。足元の水溜まりに波紋はなく、ただ浸した爪先が揺れる度に、微かに波打つだけ。彼に差し出していたビニール傘を手元に戻して、金具に触れ、傘を畳む。

 頼りない明かりなのに、白い彼の金髪に降るとまるで月の光のように見えた。

 白い癖毛は乾かしたら、ふわふわの綿毛のようになるんだろうか。

「あのさ」

「ん?」

「ウチ、くる? すぐそこなんだけど」

「え? ……ああ」

 背後を指さして、明かりのついていないマンションの部屋を示した。ベランダに干したままの洗濯物がぼんやり浮き立って、微かな風に揺れている。

「洗濯物大丈夫?」

「たぶん全滅してる。だから、コインランドリー行くし、ついでっつーか」

「ああ」

 白い彼は両手を持ち上げて、たっぷり水を吸った服の袖を握ってキュッと絞った。ポタッと落ちた雫はビニール袋に当たり、元の水滴を乱して一筋の線になる。

「いいの?」

「まあ、うん。俺もひとりだし」

「そっか。何て呼んだらいい?」

「……黒名」

「くろな、ね。おれのことは好きに呼んで」

 彼の発言に、黒名は目を丸く見開いて瞬きをした。一方の彼はキョトンと首を傾げ、澄んだ瞳で黒名を見ている。無言と、フラットな態度が線を引く。踏み込まれたくない境界線。

 黒名は開きかけた唇を一度閉じて、内心で小さく微笑んだ。

(秘密なら、俺にもあるし)

 ひとつずつ数え上げる共通点に、絆されているとしたら、そう。

 黒名は開いた唇の隙間から透明な息を吸い込んで、目に映るままの印象を口にした。

「……んじゃあ、シロ」

 シロは丸く目を見開いて、あははと明るい笑い声を上げる。雲に隠れてるはずの月を思わせる明るさに、黒名は思わず目を細めた。

「まんまだね。おれら、クロとシロだ」

「ウケる」

「ウケてる顔してよ、もう」

 ゴミ山からピョンと飛び降りたシロの両脚が水溜まりに着地して、パシャンと丸い飛沫を散らした。シロは自身の足元をジッと見つめ、「あ」と小さく声を上げる。

 濡れた金髪の隙間から向けられる上目遣いの視線。黒名はフム、とひとつ唸り、しゃがんだ姿勢のままでいた革靴の足でグリッと半円形に地面を擦る。シロに背中を向ける体勢で、肩越しに彼を見上げた。

「乗れば?」

「え、クロ、スーツじゃん。塗れるよ?」

 さっそくクロ呼びでくる馴れ馴れしさに、黒名は雨上がりの空を見上げて溜息を吐く。

「ウォッシャブルだし、イケるっしょ。濡らしちゃいな」

「便利ー」

「なー」

 ぼんやりと交わす会話。頼りない外灯の下に小さな羽虫が群がっている。遠く行く手に見渡すアスファルトは、雨の膜が張って鏡のように銀色に光って見えた。

 ヒタッと背中に触れる体温と、思ったよりも軽い荷重。濡れた袖が頬を掠めて、緩く結ばれる手。背中に鼓動は伝わるけれど、雨で濡れたせいか熱は移ってこない。均衡に、釣り合ったまま。冷えた温度を寄せ合い、黒名は「んしょ」と声を上げて立ち上がった。

「今日って何日だっけ?」

「んー? 6月6日」

「日付まで一緒かよ」

「なにが?」

「なんでもねー」

 薄く張った水溜まりの上で、軽くジャンプ。水面に着いた靴裏から広がる丸い波紋。進みかけた足を一度Uターンさせてビニール傘を拾った黒名は、それを手首にぶら下げ雫を落としながら歩き出す。

 先端から滴る雫は水溜まりに溶けて跡には残らない。

 2人の出会いは、2人しか知らない。


《END》

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

モノクロボックス 依近 @ichika115

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ