木箱

 平日の昼下がり、新鮮な角度から太陽の光が差し込む。この頃けたたましく鳴いていた蝉たちも、今日という日は存外静かだ。冷房の駆動音だけが、机に向かう彼の耳に染み込んでいた。


「わざわざ筆ペンなんて出してきて、何を書いているの?」

 男に、妻が言った。

 部屋着に身を包んだ夫は朗らかに照れて笑った。


「少し、文通をしたいと思ってね」

 妻は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して、二人分のガラスのコップに注ぐ。

「文通? いまどきそんな単語、久しぶりに聞いた。誰と?」

 夫は片方のコップを受け取って言う。

「さあ。分からない。分かってしまっては面白くないよ。これはね、近くの雑木林にある、木箱の中に仕舞っておくんだ。次に偶然それを開けた人が、僕からの手紙を受け取ることになる」

 妻はぐっと麦茶を飲みほした。

「それじゃあ、誰が受け取ったか分からないじゃない」

「そう。それでいい。顔も名前も歳も知らない誰かと、手紙でやりとりするのさ」

 怪訝な顔をする妻に、夫は言った。

「まあ、ただの暇つぶしだよ。大学の仕事も落ち着いてきた頃合だし、せっかくの休みに何もしないというのはもったいない。拾ってくれたらラッキー、といった具合さ」

「それにしても、よ。どうして手紙なの? インターネットで知り合った人とチャットすればいいんじゃない?」

 夫はうーん、と一つ唸り、麦茶を一口すすった。

「それだと僕が関わりたい人としか関われない。インターネットを介すると、どうしても自分に色眼鏡が掛かって、知りたいと思うものしか知れなくなってしまう。しかし、これならそうはいかない。受け取る相手を選ぶことができないからね。ほら、よく小学生のとき、ランダムに席替えをして、今まで話したこともない人と班を組まされたことがあったろう? それと同じさ。未知の領域に一歩足を踏み入れて、触れあってみれば、そこにはいつでも新しい発見があるものだよ」


 いまいち納得しきれずに、妻は「まあ、なんでもやってみることよね」と呟いて、ガラスのコップをシンクへ持ち帰った。


 男は書き終えた便箋一枚を手に家を出た。いつもの散歩コースから少し逸れたところに、人気のない林がある。暗くて、手入れもなっていない荒地だ。男はそこにある腐りかけの木箱に、便箋を封じ込めた。

 まるで神へ祈るように、木箱へ手を合わせ一礼した。それは男なりの、受信者への敬意らしかった。



***



 スウェーデンのストックホルムに住まう、アルフレッドという名の少年がいた。

 八人兄弟の四男として生まれた彼は、豊かさを知らず育った。父親はアルフレッドが生まれたその年に事業で失敗。四歳になる頃には、父は次なる事業のため単身異国へと赴いた。

 残された家族と共に貧しい幼少期を乗り越え、なんとか今日、八歳の誕生日を迎えるに至った。


 珍しく、しとしと小雨が降っていた。

アルフレッドはお構いなしに、露の落ちた草の上で大の字に寝そべる。木々の切れ間から覗く空は、相変わらずどんよりとしていた。

 こんな天気では心が晴れない。せっかくなら本でも読みたいと思ったが、本を買う金は持っていない。だから仕方なく天を仰ぐのだ。家を出て真っ直ぐにある山の中、ヴィリジャン色の自然に全身を委ねることが、彼にできる一番の慰めだった。


 小粒の水滴が左目に落ちた。

「わっ」

 したたかな衝撃に、アルフレッドは顔を横に倒した。ごしごしと目をさする。


 不意に、視界の端で何かが引っかかった。茶色い何かだ。

初めは植物だと思った。人影にしては気配がないし、おおかた雨に濡れた木の幹だろう。しかし、見ればそれが人工物であることに気が付いた。自然に溶け込みきれず、角ばった部分が露骨に浮いて見える。


「こんなところに、僕以外が何の用で……」


 そう言って立ち上がると、袖に付いた葦を払い落とす。

近づいて見てみると、どうもそれは木箱のようだった。とは言っても、目的を持ってそこに居座っているようには感じない。ただそこにあるだけの立方体、とでも呼んだほうが正しい気さえする。


「なんだ、これ……。まるで誰か、ここで首でも吊ったみたいじゃないか」


 しん、と林が静寂を見せる。そんなはずはないと分かっていても、自分の言葉にぞっとしてしまう。

 アルフレッドは、撫でるようにそっと木箱の上面に触れた。やはり雨に打たれて湿っている。ずいぶん昔からここにあったのだろう。ところどころ、黒く変色して、腐り落ちてしまっている。


 そのとき、アルフレッドのすぐ足元で、しゃーっと声がした。

「うわっ⁉」

 縞模様の、細長い形をした蛇だった。この辺りではよく出るらしい。幸いにも毒はないそうだが、噛まれると痛い。後退りするアルフレッドを、縦長の瞳孔で見つめていた。

 しばらく目が合う。普段なら歯を剥き出してにじり寄ってくるのだが、このときばかりは、舌を二三度ほど伸ばして、蛇のほうからするりと逃げて行った。帰って行った、と言うべきかもしれない。呆然とした少年を置き去りに、やがて蛇は例の木箱の影に隠れて見えなくなった。


「なんなんだ、まったく」


 知らぬ間に雨は力を弱めて、辺りは湿気と泥の匂いに満ちていた。

アルフレッドは木箱の天面にできた溝をなぞると、両手でがっしりと掴み、そのまま上へ引き上げた。鈍い音がして、その中身があらわになる。かび臭い木材にアルフレッドは鼻を曲げる。

 彼は薄目を開けた。

「空っぽ……」

 いや、違う。奥底に何か貼り付いている。一枚の紙だ。

アルフレッドは箱の縁に乗り出し、腕を目いっぱい伸ばした。指先に木とは異なる感触が伝わる。破らないよう静かに引っ張り上げた。


 白い背景に、黒い線。踊るように不規則な、それでいて整然たる図形を描いている。列挙されたそれらは、何か情報を持っているように見える。

 これは文字だ。文字なのだろうが、アルフレッドには読めない。それは彼がついぞ見たことのない、別の言語で記されていた。


 雨は完全に止み、雲の隙間に太陽が顔を出した。

 アルフレッドは手にした紙を、頭上の光にかざす。


「一体何だ、これは……?」

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